『寄席の底ぢから』に質問

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 追記 

 あの後、作者から丁重な返事が来た。このようなことを書いたのは、

……有力な手がかりになったのは新宿末廣亭の席亭・北村銀太郎氏の『「聞書き」寄席末広亭』(平凡社刊)にあった、昭和20年代の色物芸人についての章。

「漫才じゃ都家福丸、香津代。(略)それから十返舎亀造・菊治、都上英二・東喜美江、リーガル千太・万吉なんかがいた。千太・万吉は東京漫才の草分けだ。動きが全然ないの。泰然自若といった感じでね、今の若い人たちとはまるで違っていた。」  

 という一文です。
聞書きなので、書き手(冨田均氏)の考えも入るでしょうが、明治・大正期の落語色物席を見てきた大旦那がそう語ったならば重みがある。  

 帯にナイツのお二人に登場していただいたこともあり、漫才協会の初代会長でもあった千太・万吉の名や、寄席での役割については、どこかでちゃんと触れておきたいと思い、あの一文が生まれました。

 との事であった。私はこれを読んで、一応の納得をした。資料は読んでいる事と、きつい事を書いてしまったが、こればかりは中村氏全ての責任ではない、と。

 それに、中村氏はこの曖昧な言説に対して、どこから出てきたのか、という疑問を有していたので、これならば仕方ない、と思った。これ全てを氏に押し付けるのは余りにも酷である。悪いのは、無責任に書き綴ってきた先人にあるといえるだろう。

 さらに、伊藤銀太郎の事について触れておくが、上の本は確かにいい本である。ただ、北村銀太郎が色物について精通しているかというと、「ん?」というような事を口にしていることもあるし、放言に近い事も言っている。この本を参考にするときは、少し気をつけねばならない。

 何はともあれ、この問題は一応の解決を見た。消そうか考えたが、恥を晒しておこう。

 以後は、私もより一層奮起してこの都市伝説のごとき、言説を改めていきたいものである。

 以下はその時に書いた批評

 

 先日、図書館で『寄席の底ぢから』という本を見かけたので、読むことにした。読む前に、ネットを検索すると、

 と、作者の宣伝があり、遡っていくと、

 と、評判は上々のようで、読む前から楽しみになった。

 だが、残念ながら、その予想は大きく裏切られる――というのは、余りに言いすぎにせよ、不勉強極まりない一文のせいで、大変不快な気持ちになった。本全体としては、入門書として相応にできているのに、この一文のせいで台無し――さらに言えばこの一文がどれだけ悪影響を及ぼし、訂正に苦労する羽目となるか、と嘆き、私はこの批判を書かねばならない、と思ったほどである。

 では、問題になった箇所を引用する。それは以下の部分である。

ちなみに「漫才」の表記が使い始めたのは、スーツ姿のコンビが登場するようになる昭和になってからのこと。大阪でこの表記が先に普及し、それに触発されて元落語家のコンビがスーツ姿で漫才を演じるようになった。東京漫才の祖とされるリーガル千太・万吉だ。

(同書 78ページ)

 一見すると、何もないように見えるが、この一文は江戸しぐさや水素水に劣らない程、嘘を寄せ集め、思考停止をしている証拠である。きつく言えば、不勉強の極みであり、かつ論拠がないので、無責任なものである。

 嘘を吐くのは易けれども、それを訂正するには途轍もない労力と根拠が必要になる。無論、確証となる理論と証拠を持ち得て、物を論じようというのならば、話は別であるが、どうも見た処、この本はそんな風には思えない。

 例えばの話をしよう。

三遊亭円朝以前には落語家はいなかったし、いたとしてもそれは道楽で落語家じゃない。

 もし、こんな言説を落語研究家の前で、否、落語ファンの前で言い放った日には途方もない批判されるのは、火を見るよりも明らかであり、そうやられても仕方がない発言である。

 もう少したとえを出すならば、

黒澤明以前には映画なんかない。黒澤明より前のものはただの動画だ。黒澤明が日本映画を作ったんだ。

日本の漫画は手塚治虫が元祖で、それ以前には日本に漫画というものはなかった。あったとしても、それは西洋の模倣であった。

日本の歴史小説は司馬遼太郎が作ったものである。

 こんな言説を放った日にはどうなるであろう。もし入門書であったら、解説書であったら――下手したら、嘘つきというレッテルを貼られ、これまでの信用さえも失いかねないのではないか。

 もっとも、世の中とは奇々怪々であるから、こういう大通気取りの発言をする輩はいる。落語界でも「談志でなければ落語にあらず」なんて言うような人を見かけたことがあるが、こういう人は往々にして判っていないか、熱狂的な信者ゆえに皮肉的なポーズをとっているのか、そんな所であり、相手にしなければ基本的に人畜無害である。

 然し、今回はそういう独りよがりのエッセイでもなければ、狂信者の告白でもない。いわゆる解説書・入門書の類である。入門書が嘘を言って果たしていいものなのだろうか。

 少なくとも、元祖という言説を出すには、注意と立証が必要なのではないのか。歴史に触れるという事は、ビートたけし論や落語家の印象を書くのとは違うのである。歴史を背負っているという認識がなければ、恐ろしくて元祖論など語れないはずである。

 これは私憤的なことであるが、2018年の夏、ついこの間出されたばかりなのに、このサイトを読まずに漫才を語るとは、なんという事だろうか。私個人としては、下手な参考文献を読むよりも、立証をして見せているのに、こういう嘘がいつまでもばら撒かれているのを見るにつけ、サイトのマイナーさを嘆くよりほかはない。

 ・「東京漫才の祖」リーガル千太・万吉説を否定する

それでは本題に取り掛かろう。リーガル千太・万吉がなぜ元祖ではないのか。ここを一つ一つ説と証拠をあげながら、考えていく。

 まず、下記の画像を見ていただきたい。昭和8年正月に『都新聞』に掲載された、浅草の寄席の連名である。

 まず、ここに挙げられた漫才師たちは一体何だ、というのかを問いたい。もしや関西から来たマイナー漫才だから彼らは語る必要はない、と仰るつもりはないだろう。もしそうだとするならば、漫才はおろか、芸能を語ってほしくない程の愚弄である。

 落語漫才のみならず、芸能が芸能という広い裾野と伝統を得るには、幾万にも築かれた無名の芸人あってこそではないのか。例えばであるが、三遊亭円朝は一人で勝手にできたのではない。

 円生がいて、志ん生がいて、円太郎がいて、柳橋がいて、燕枝がいて、更には幾多の名も伝わらぬ同門や同業者――そういう芸人のよいところ、悪いところ、それらを磨き、更に彼の天才的な才能が加わったことで、初めて落語の大御所、円朝になったはずではないのか。もし、一人で成り上がったと解釈しているのなら、とんだ思い過ごしである。

 漫才もこれに然りである。確かにはじめは関西から影響を受けたものばかりであったのは否定できない。幾多の無名芸人が東京に来ては散っていった。無名でマイナーといえばそれまでである。

 しかし、ここに挙げられた漫才師たちの殆どは東京に拠点を持ち、今の漫才協会の前身や前々身である「漫才研究会」や「帝都漫才協会」に関与したものばかりである。ここまでの仕事をしておいて、まさかこの人たちは東京の漫才師ではない、とおっしゃるつもりはないだろう。

 さらに追い打ちをかけるならば、以下の画像と公演記録である。

(『日刊ラヂオ新聞』昭和二年九月四日号)

(『都新聞』昭和二年六月二日号)

 1927年の公演記録の一部であるが、ここに出ている桂金吾・花園愛子は東京吉本を代表する漫才師であり、かつ東京漫才唯一の戦死者である。このコンビは漫才の本のみならず、戦争関係の書籍にも取り上げられているのは、少し調べれば、すぐにでもわかる話である。

 さらに余談的に申し上げるが、この大和家かほるというのは、後年結婚をして、大空みのる、大和ワカバという子供に恵まれた。みのるは後年、男子に恵まれたのだが、この子が今、漫才協会で頑張っている「ナナオ」である。

 1927年と言ったら、まだリーガル千太・万吉のリの字もない時代である。それでも、彼らは、東京漫才ではないというのか。

これだけでも千太・万吉以前から東京漫才が芽吹いていて、「東京漫才の祖」であるという記載が如何に出鱈目であるかをわかっていただけるであろうが、念には念を入れて、更に批判をする。

 また、上記を読むと、リーガル千太・万吉が洋服漫才の嚆矢のようにも解釈できてしまうのは、私の僻みだろうか。洋服漫才の元祖については、このページ に詳しく書いたので、再三繰り返さない。私としては、漫才で初めて洋服を着たのは、日本チャップリンだと考えている。

 また、寄席漫才の元祖的な存在をリーガル千太・万吉と置くのも間違いである。古くは日本チャップリン、震災後に出てきた東喜代駒、朝日日出丸・日出夫などがいることを付け加えておこう。下記はその資料である。

谷喜よしに「高級掛合」として、金吾愛子出演

日出夫日出丸が麻布十番倶楽部に出演

『読売新聞』昭和4年11月11日号 寄席案内より

 

(『日刊ラヂオ新聞』昭和六年三月三十一日号)

(『日刊ラヂオ新聞』昭和六年四月十二日号)

 また、彼らは寄席進出も早ければ、ラジオ出演も、早い。喜代駒に至っては大正15年の出演である。

 (『日刊ラヂオ新聞』大正十五年八月二十四日号)

 なお、元祖だというリーガル千太・万吉は、この前年に万吉は真打的な格に上っている。千太に至ってはこの年の入門である。これだけの差があるのに、それでも元祖だという。

 確かに反論も出来ないこともない――曰く、この頃はまだ「萬歳」や「滑稽掛け合い」だったし、しゃべくりじゃないから、漫才ではない、という意見も出せない事はない。

 然し、そういう意見は所謂「詭弁」で歴史の流れを全く無視したものである。円朝もかつては道具入り芝居噺をやっていた、かの志ん生だって新作落語や講談をやっていた。彼らは時代の波に揉まれながらも、自己を確立し、一つの芸を見出した。そこに、有名無名はないはずである。むしろ、無名の人が築き上げてくれたからこそ、彼らがスターダムに上り詰めた例など、多々あるではないか。

 今の落語界もそうである。柳家小三治のごとき、人間国宝もいれば、彼とほぼキャリアは一緒なのに、未だに燻ったうだつの上がらない老噺家もいるし、一之輔のごとき、華やかな若手もいれば、うだつの上がらぬ真打もいる。

 しかし、そういう彼らの存在を、「売れていない」だの「つまらない存在」として切り捨てられるかといえば、答えは否である。そんなことをすれば、落語は死んでしまうであろう。芝居噺の枕ではないが、歌舞伎で助六が出られるのは殺される意休や仙平がいるからで、花形役者が颯爽と花道に出られるのも、馬の脚や下回りがいるから、初めて歌舞伎になりうるわけである。

 そういう背景を、無視して、「古典の名人」だとか「言文一致」だとか、それ以外のところを黙殺し、都合のいい部分だけを取り上げようとするのならば、何度も言うが、個人に対する侮辱ではなのか。先人に対しても失礼であるし、リーガル千太・万吉にも失礼である。

 少なくとも、リーガル千太・万吉以前から、彼ら以上に活躍していた存在がある以上は――思えば、東喜代駒などは漫才界の異端児というべき様な存在で、千太が入門する前に、早くも市村座で漫才リサイタルを行い、ラジオに出、レコード吹込みさえもしている。彼の方がよほど元祖的働きをしている――絶対にリーガル千太・万吉を元祖として認めるわけにはいかない。譲歩して「東京しゃべくり漫才中興の祖」、「東京漫才中興の祖」くらいである。

 更に言うと、戦前――リーガル千太・万吉は金語楼の関係から芸術協会に所属をしていたのだが、寄席の出演となると、これが余り多くないのである。掛け持ちどころか、出演をしていない月さえあるほどである。千太自身の聞書きで、「我々は漫才との交友があまりなかった」というような記載があったが、寄席の漫才だけという意味ならば、都家福丸・香津代の方がよほど働いているし、人気もあった。ここはどうなのか。

 まだまだ証拠を上げたいが、余り並べても仕方ないので、このサイトの漫才師たちを少しでも見ていただければ、判るであろう。更に知りたければ、私の本を買って読むことである(隠すことなきステマ)。

最後に問う。貴殿は何を根拠に、なにをもって、この言説をお説きになられたのか。基本的に漫才の一次資料は過ちと独断に満ちており、そこを気をつけねばトンデモナイ地雷を踏む。たとうれば、時代物の資料集を書くのに、江戸しぐさなどを取り入れるようなものである。

 以上の資料を喝破できる論拠及び資料があるのならば、私は心の底から謝るが、もし何もなく無責任に書かれたというのならば、以後そのようなことを控えてもらえねば、困る。嘘を吐くのは易けれどもそれを取り消す身にもなっていただきたい。もっとも、無駄な研究だといわれればそれまでかも知れないが、無駄とおっしゃられる以上は、演芸もまた無駄なもので、書くに値しないものになるだろう。

 喜利彦山人が問う。

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