タイヘイトリオのこと ~この不思議な三人組~

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往年のタイヘイトリオ。右から糸路・洋児・夢路。

 東京漫才の研究をしているとどうしても関西の漫才を無視する事が出来ない、のはいうまでもない。漫才は関西が本場であるし、古くから東西交流があったので、東京漫才を解明するには関西を調べる――これは避けて通れない道である。

 ただ、ここは腐っても東京漫才のサイトである。関西の漫才は範疇に入れない心づもりであった。

 が、やはりどうしてもサイトの彩りや研究成果というものを考えると、死蔵するのも惜しい気がしてきた。

 この情報化時代に、未だ財力と権力に物を言わせて、独占と死蔵をかたくなにし続けている人がいるが、私はそういう人の轍だけは踏みたくないのである。

 今回はこの夏に没したタイヘイ夢路が所属していた「タイヘイトリオ」についてを取り上げよう。小生と夢路氏は一期一会であったが、面識を得た事があったし、その辺の漫才師よりは思い入れが深いのは事実。

 今だから告白するが、若い頃、タイヘイトリオは憧れであった。その音源や資料が欲しくて欲しくて仕方がなかった。はじめて「港の女」を聞いた時の喜びは、研究者冥利に尽きる、というべきか。タイヘイ夢路が浅草に来ると知った時は小遣いを握りしめて木馬亭に駆け付けたのも懐かしい思い出である。

 閑話休題。1950~70年代のタイヘイトリオの人気はすさまじいもので、「草木も生えぬタイヘイトリオ」と呼ばれたほど、あったという。かしまし娘と鎬を削り合った、と夢路本人が口にしていたが、草木も生えぬ、とはすごい呼称である――そう呼ばれるだけ人気もあったのだろう。

 事実、角座をはじめとする道頓堀五座で大トリを務め、まだ交通の便が良くない時代に東京の寄席や劇場へ何度も進出している。そんな漫才師は、人気者が乱立していた上方でも、早々いるものではない。況してや寄席に出るとなると、相当の知名度がないと無理な話である。

そんなタイヘイトリオであるが、Wikipediaや漫才関連の本の扱いはものすごく小さく、現在もご健在のかしまし娘や先年物故した暁伸・ミスハワイなどと比べても、不明な点が多い。第一、メンバーの洋児の生年月日さえロクに記されていない有様である。

 というわけで、今回はタイヘイトリオの結成前後の事と洋児の失踪を中心に、ダラダラと余禄を書いていくことにする。東京漫才と比べて真面目に調べていないので、深入りしない点はご了承下さい。

タイヘイトリオのメンバーの動向とチーム結成

 タイヘイトリオは一期、二期というようなメンバー分けができる(アニメみたいだ)。一期は夢路・洋児・糸路のトリオで、1975年頃まで続いた。二期は離脱した洋児に代わって、川上のぼる門弟だった原児(げんじ)をいれたもので、こちらは1990年代まで続いた。二期は割かし資料が残っているので、今回は一期の方を取り上げる。

 一期のメンバーは、タイヘイ洋児、夢路、糸路とはさっき書いた。タイヘイの屋号は、タイヘイレコードからとったものである。まず、メンバーの動向から。

 リーダー分的な存在だったのは、洋児である。芸人には珍しく文才があり、不器用ながらもチームの配分や役回りを融通する、所謂狂言回しの役であった。『芸能画報』(1959年3月号)に略歴が出ているので引用する。

洋児 ①西村庄司 ②1923年2月27日 ③鳥取県

 洋児の経歴は『漫才タイヘイ戦記』に詳しいが、此の本は今では珍品と化している為、そう簡単に読むことは出来まい。しかし、筆者は運よく入手できたので、この本を引用しつつ書く。

 洋児は12歳の折に芸人を志し、親類から猛反対をされた。しかし、日中戦争で出征した兄が、

「これからの日本がどうなるかわからない。どうせ戦争はこれから五年・十年と続くであろう。男子ならば当然兵隊として戦場へ行き、生きて帰れることやら、死んで帰るものやらわからないことだ。それまでの人生であるから、短かい人生なら好きなことをさせてやるのが親心ではないか。どうか親戚の人たちにも協力してやってほしい」

 というような手紙を家族、親類に送り、説得させた。

 1938年、14歳で漫才作家の郡山桜葉の書生となり、旧制中学に通いながら、芸能界のいろはを教わった。この郡山は面白い、下手したら奇人の気のある人だったそうで自分の現行に平然と「ここで笑いが来る」と赤鉛筆で書いたり、戦時中、軍国浪曲の文句で「頃は昭和の中の頃」と書いて、憲兵にどやされた、と吉田留三郎『漫才太平記』の中にある。

 それからあひる艦隊の付き人となり、ここで木下華声(元江戸家猫八)に師事した模様。ただし、本人はあひる艦隊の弟子で、これという明確な師匠名はあげていない。愛称は「すずめ」。即ち、あひるの弟子でちびっこいから雀である。さらに、あきれたぼういずの付き人もやっていたという。当時は南洋児と名乗っていた。

 その後、神戸岡田演芸団の実習生となり、芸人として初舞台。一九四一年、18歳であった。その頃の仲間に、暁伸・ミスハワイ、東京の杉ひろし・まりなどがいた。その中で、中山たかしという芸人と意気投合し、漫才師となる。東京進出を夢見て、一座を脱退。

 たかしの故郷である金沢へと移動し、当地の立花座という小屋に出ていたが、間もなく演芸団に見つかり、中山たかしの借金を理由にコンビ解散。独り取り残された洋児は仕出しや臨時コンビなどを組んで、その場をしのいだ。

 しばらくすると、中山たかしが戻ってきたので神戸の千代の座へ進出。ここでは成功を収め、吉本入りも目の前とされたが、イスカの嘴の食い違い。結局、話が噛み合わず、千代の座の隣にあった栄座に来ていた東京の一座に話をつけて、上京。

 因みに、相方の中山たかしは爆発的な人気を得ることなく、芸人として一生を終えたが、洋児よりも長い息を保った。一九八五年発行の『日本演芸家名鑑』には、「花くれない・中山たかし」として、まだ名前が載っている。 

 上京後、一座を転々としたが、1942年に兵隊検査を受け、合格する。その頃、両親の面倒を見てもらうという名目で一座にいた踊り子と結婚している。入隊後、訓練を受けて下関の軍港に配属される。その頃、Aという住職の娘と懇意となったが、幻の恋に終わっている。

 結局、下関から動くことなく、敗戦で復員。敗戦下の混乱や離婚をくぐり抜けて、1950年大阪へと戻ってくる。

 1951年、夢路と結婚し、夢路・洋児のコンビを組む。『タイヘイ戦記』では、夢路一家は一階、洋児は二階に住んでいて、そういう生活を送るうちに意気投合をしたように記されているが、夢路本人は場末の小屋にいたコメディアンとできて漫才になった、ということを仰っていた。

 歌謡浪曲コンビとして活動を始めるものの、滑り出しはあまり良くなく、ドサ回りの日々が続いた。但し、1950年初頭にタイヘイレコードから、タイヘイ洋児・洋子『歌謡浪曲 上州鴉』というレコードを吹き込んでいる事例もあるので、実情はどんな感じだったかはわからない。

 さらに、女流浪曲師・吉田奈良千代(後に華ぼたんと改名し、フラワーショーを創設した)の曲師をやっていた、夢路の姉・久子を入れて、夢路・糸路・洋児のロマンショー『タイヘイトリオ』を結成。その後もしばらくはドサ回りを続けていたが、糸路の旦那に舞台袖でクラリネットを演奏してもらう陰の努力が功を奏し、1955年に戎橋松竹に初出演。以来、大看板としての看板を上り詰めていく。

 続いて、夢路。シャクレ顎と独特のハスキーボイスの持ち主で、2000年代まで大阪のテレビに出ていたので、ご記憶にある人も多い事であろう。如何にも大阪のおばはんという風情の持ち主で、そのアクの強さ、達者さが如何にも大阪の漫才の根強さを感じさせるような気がする。

 私は一回だけ、澤田隆治氏とその関係者の斡旋で対面した事があるが、実際は小柄なおばあさんだった。先日亡くなられたので、ここで哀悼の意を表し、後生を弔いたい。

 さて、その夢路であるが、1930年4月2日、奈良県生まれ。大阪という資料もあるが、ここでは訃報欄の記載を優先する。

 前職は浪曲師である。あの独特の声は浪曲譲りと言えよう。4歳で初舞台を踏んだというのだから、相当の実力者である。こういう芸人を子飼いの芸人といったが、まさにそれに当てはまる。

 但し、『日本演芸家名鑑』では、「昭和10年初舞台」となっている。まあ、これは誤差の範囲内か。

 父親は京山愛朝という浪曲師。明治34年生まれ、師匠は京山愛昇。一時期、満州日出丸と名乗っていたというが、下記の対談を見ると別人に見えない事もない。

 その父親は非常に厳しかったそうで、娘といえども浪曲の修行の前では鬼となったという。以下は夢路の回顧談。柴田は漫才作家の柴田信子の事。

夢路 奈良の俊徳席へ満州日出丸一座が掛かっていたとき、好きで勝手に一席、浪曲を演ったんよ。
柴田 お父さんも浪曲家でしたのやろ。
夢路 その後は父についてみっちり仕込まれました。家におっても、父の部屋へ入れてもらわれへん、みな廊下で話をしたね、一般の弟子とおんなじようにナ。
柴田 きびしかったんやね。
夢路 冬でもタビをはかせてもらえんし、昔の芸人の修行はつらかったんよ

『漫才』(第三巻第八号)12~13頁

 その後は、父親(京山愛朝)と、巡業などに出かけ、少女浪曲師として活躍していた模様。前名は「朝日博子」といったそうである。

 戦後、偶然住むところが一緒になった洋児と仲睦まじくなった、とは先述した。

 そして、姉の糸路。この人は元々曲師(浪曲の三味線)を勤めており、表に出るような人ではなかったという。そのせいか、舞台でも控えめな人であった。初舞台は遅く19歳の時。理由は芸人が嫌いだったからだという。『漫才』(第三巻第八号)に掲載された座談会にその理由が記してある。

柴田 糸路さんは芸界入りがおそかったようですが――
糸路 嫌いやった。
柴田 どうして?
糸路 芸人の子として、いろんな苦労をしてきたもん。
夢路 わたしより二つ上やから、そら苦労も多かったやろね。
糸路 今の父はよろしいよ、今は神さまみたいなええ人やけど、若い時分は飲む、打つ、買うで、わたしや母は苦労しましたで。なんせ水道や電気まで止められるほどの貧乏しました。そやから芸人はイヤやった。
柴田 それがまたどうして芸界入りしましたの?
糸路 もとは菓子問屋の松屋町ではたらいていたけど、自転車に乗ってワラビ餅をとりに行った時、トラックと衝突して骨つぎ屋へかつぎこまれたりしてね――。
柴田 危ないナ。
糸路 そんなこともあって、漫才は二人やけど、三人で演って新機軸を出そうと誘われました。お金がほしいから死物狂いやった。

『漫才』(第三巻第八号)12~13頁

 ただ、洋児の自伝には駒千代の曲師をやっていたとあるので、漫才になる前から曲師の修行をしていた事であろう。この時の名前は「藤原良子」といったそうな。

 以来、漫才トリオとして活動を始める。当初はドサ漫才からのスタートであったが、戎橋松竹や千日前劇場への出演を機に人気が爆発的になり、一躍人気者となる。草木も生えぬ、と綽名されたほどの人気を博し、「浪漫ショー」を看板に、千日前、角座など大トリを張った他、東京の寄席などにも進出した。

 売り物は何と言っても明るく賑やかな音曲と夢路の浪花節であった。テーマ曲を覚えている人も多いのではないだろうか。

「オープニングテーマ」

洋児「ロマンショーです~」
またも出ました、ロマンショー
いつもニコニコ朗らかに~
糸路『夢路さん』、夢路『オイヤ―!!!!!!!』
洋児『糸路君』、糸路『アイよー!』
糸路・夢路『洋児さん』、洋児『どないした』
時間来るまで、お楽しみ
タイヘイ・トリオの、お笑いだ~

「エンディングテーマ」

それじゃここらで、それじゃここらでェ
ええ、あんあんあ~あああああ~
サヨウナラ~

 秋田実編纂の『漫才』によると、作詞は洋児で月田という人が作曲したそうな。

 兎に角派手で、賑やかで、卑屈な所がない芸風は関西人に拍手喝采で迎え入れられ、多くの演芸番組に出演した。その頃の音源がワッハ上方などに一部残っているが、『浪曲でダンスを』では、ジャズやロカビリーに合わせて、夢路が滅茶苦茶に浪花節を唸ってみたり、『女は強い』では、散々に洋児をこき下ろしたり、で当時の世相をよく反映したネタをやっていた。

 今聞いても面白いものは面白いのである。

 栄光と離婚と洋児の失踪

自宅でくつろぐ在りし日のタイヘイトリオ
(右から作家の柴田信子、洋児、夢路、糸路)

 結婚、離婚など、プライベートな話題や下世話な話は余り書きたくないのだが、今出回っている話が結構杜撰な所もあるので、きちんと整理しておくべきだと思い、この項を書く。

 さて、華やかな芸風で一躍人気を集めたタイヘイトリオは寄席に、劇場に、テレビ、ラジオと多忙の日々を過ごしていた。夢路が三十七歳の時には、女の子に恵まれ、三七五と名付けた。

 幸せな生活を築き、芸人としてのキャリアも築いていた矢先、洋児と夢路の間に隙間風が吹くようになっていった。

 その理由は判らないし、当然知る由もない。数少なく聞けたのは「旦那が女を作りはって……」という夢路の独り言である。が、これも本気なのか、ネタなのか、判別はつかない。

 さらに、二人の仲が悪くなった理由の一つに、洋児の経営者路線的な生き方についていけなくなった、という事もあるそうな。これも詳しく聞くことはなかったが、芸人育ちで辛酸をなめつくした夢路・糸路と比べると、洋児は少々夢見がちだったようである。

 芸人で店をやって成功をしたという事例は殆どない。僅かに橘エンジロの「しぐれ」、玉川良一のおむすび屋、春風こうたや平和ラッパの店がある程度。それだって大当たりして経営者としての云々~というのは、なんでんかんでんの川原ひろし、たむらけんじなどが出てきてから、である。

 当然うまく行くはずもなく、洋児は多額の借金を背負う事となり、タイヘイトリオから消えた――という記載が多いが、調べていくうちにどうも手順がバラバラなのではないか、という事に気がついた。

 最初に洋児の失態を報じたのは、『読売新聞』である。

“芸界の事業家”雲隠れ
給料500万未払い
キャバレー倒産 元歌謡漫才タイヘイ洋児さん

【大阪】歌謡漫才「タイヘイトリオ」の元リーダー、タイヘイ洋児さん(五四)(本名・西村庄司さん)が経営していた大阪・堺市内のキャバレーを先月中旬に閉鎖、約五十人の従業員の給料一か月分、推定五百万円を未払いのまま姿を消している。女子従業員三十数名が堺労働基準監督署に訴えたが、社長の洋児さん自身が出てこないことには手続きもとれず「このままでは、私らは生活できない。社長の口から納得行く説明を聞きたい」と途方に暮れている。
洋児さんは三年前に店を購入した際、先妻夢路さんの家を担保に入れたり、友人、知人から数億円の資金を集めたりしたといわれており、従業員の給料のほかにも多額の借金を抱え、債権者の追及から逃げているらしい。
洋児さんが経営していたキャバレーは堺市の「紅馬車」。洋児さんは芸能界仲間では”事業家”として知られ、これまで南区内で鉄板焼き屋やアベックホテルを経営。「紅馬車」は四十九年三月に買い取って営業を始めたが、従業員の話では、昨年秋ごろから目立って客の入りが少なくなり手形で給料を払うなど経営が悪化した。
給料日は毎日七日と二十二日の二回払いだが、三月二十二日、四月七日の二回分が支払われず、店は四月十八日に閉鎖、洋児さんは翌十九日、従業員の前で「二十日には間違いなく払う」と涙を流しながら約束したが、所在不明になった。
洋児さんは、夢路さんとの夫婦漫才で三十年前にデビュー、その後、夢路さんの姉の糸路さんが加わってタイヘイトリオを名乗り、浪曲漫才で売り出した。最近は歌謡漫才にかわり、ギターと三味線の伴奏で浪曲、歌謡曲をまじえた一風変わったコントを演じていた。しかし、昨年秋、夢路さんと離婚。トリオを解消した。

『読売新聞』(一九七七年五月九日号 夕刊 九頁)

 ここで注目すべきは、「最近は歌謡漫才にかわり、ギターと三味線の伴奏で浪曲、歌謡曲をまじえた一風変わったコントを演じていた。しかし、昨年秋、夢路さんと離婚。トリオを解消した。」という点である。洋児は、実業家を夢見だした時にはもう漫才を捨てる覚悟でいたのかもしれない。

 そうでなければ、タイヘイトリオの名が続く由もなかった。上にあるコントを演じていた、というがこの相方は不明。なお、先述の娘は夢路が引き取ったようである。

 その借金問題は、決して小さな話では終わらなかった。翌日の『読売新聞』に、

借金は一億円を超す
倒産、雲隠れの洋児さん

【大阪】歌謡漫才「タイヘイトリオ」の元リーダーらタイヘイ洋児さん(五四)(本名・西村庄司さん)が経営していた大阪府堺市中之町東三、太平観光会社のキャバレー「紅馬車」は、同社関係者のその後の調べで女子三十四人、男子六人の従業員とバンドマンら計約五十人分の給料(約五百万円)未払い他、弘容信金からの三千万円をはじめ、大阪、堺市内の金融業者から二百万ー四千万円ずつの資金を借り、合計一億円を超す借金があることがわかった。

『読売新聞』(一九七七年五月十日号)

 と報じられているのを見ると、そのすさまじさが判る。当時、大学卒の公務員の初任給が92000円くらいだった(昭和の物価より)時代の一億である。一億の訳が違う。

 結局、洋児は行方不明となり、現在までどうしているのか知れない。

 残された夢路と糸路は、旧知の腹話術師、川上のぼるの門下に居た寺下ジョージを誘い、タイヘイ原児として加入させ、再スタートを切った。演芸ブームが下火になった事から嘗ての人気こそは亡くなったものの、それでも華やかな芸は相変わらずで、1990年代初頭まで活躍をした。但し、後年は糸路の引退などもあり、夢路主体の活躍へとシフトチェンジを果たしていった。

 この不思議な三人組をどう評価するか、これこそが我々のやるべきことであり、夢路氏に対する追善だと思うが――いかがであろうか?

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