田崎健太『全身芸人』と松鶴家千とせ

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 嘘偽りの多い芸能関係の本の中で珍しく良い本に出会った。田崎健太『全身芸人』である。

 先日発売されたばかりなのでまだ本屋さんなどに置いてあることであろう。田崎健太氏ならではの広いフィールドワークと裏打ちされた見識で構成されていて、ノンフィクションの書き方という一つの骨法を見た気がする。

 この本は世志先生に紹介されたもので、「なかなかいいものだよ」と仰っていたので、自分も読んでみることにしたーー

 その中で一番惹かれたのは世志凡太ではなく、松鶴家千とせの頁であった。世志先生は普段からアレコレやり取りしているからそこまで有り難みがないのかもしれない。もっともこれはこれで贅沢な話であるのだが。

 なお、これ以降の芸人さんの名前はすべて敬称略とさせていただく。別に悪意があるわけではない。

 さて、千とせのことである。最初の三重県生まれ、というのは初めて知った。逆にこの一文だけで、読む価値があった、と実感するほどの良質なものである。大袈裟と思われるかもしれないが、こう書いて残してくれるのと残さないのでは大きな開きがある。これは研究者の宿命かもしれない。

 さらに、千とせ個人に留まらず、松鶴家千代若の娘と元相方の宮田羊かんにも取材の手を伸ばしているのが、真摯に芸人と向き合っているような気がして、たいへん良かった。

 近頃一冊二冊の本だけで書き散らすような輩がいるが、このように足で稼いで、書き留める。単純に見えるがこれくらい難しいものはない。何かを切り落として、何かを書き残す。この取捨選択の是非が作家の力量である。そのご足労と資料集め、作礼致す次第である。

 結論だけ言えば「この本は大変いい本だから読んでほしい」ということになるが、そういうコメントだけならば、Amazonあたりでやれ、と文句が出てきそうだ。もっともここは東京漫才のサイト。この本を読んで感じた二、三の所感や考証を少ししてお茶を濁すことにしよう。

 西秀一・秀二時代の「西」の由来は初めて聞いた。こういう細かい所を聞いてくれたのはありがたい事である。このコンビは確か1963年ころの出演者名簿に出ていたが、この写しが出て来ないので後々追記することにする。すみません。ただ、都上秀二は古い人だと言う事だけは覚えている。

 千とせの師匠、松鶴家千代若の経歴で17歳の時に上京――とあるが、千代若くらい言葉を変える人もいないので眉唾である。もっともこれは田崎氏の罪ではない。仕方がないことである。『大衆芸能資料集成』では、「昭和三、四年」、『芸双書ことほぐ』では「十七歳」とある。多分田崎氏はこの資料を参考にしたのかしらん?

 批判めいたことを書くが『芸双書ことほぐ』のインタビュー記事は全く当てにならない。これほど困った資料はない。

 千代若17歳の時は大正15年であるのに、発言では「昭和何年か」と言っている時点で無茶苦茶である。さらに、日本チャップリンが親玉で四組しか漫才がいないというのも嘘な上に、東喜代駒さんがまだ素人で舞台を見に来ていたというのも大嘘である。しかも、『大衆芸能資料集成』では

(東京に初見参した時期は何時頃かと尋ねられ、)
千代若 そう、昭和三、四年ですね。その時はまだ五、六組しかいませんでしたよ。立花家デブ・花助(原文ママ)、小桜金之助・セメンダル、荒川末丸、東喜代駒、林家染団治、荒川清丸位でした。

(『大衆芸能資料集成 7巻』 343頁) 

 と放言している始末である。矛盾もいいところである。

 千代若17歳ーー即ち、大正15年時点で東京で活躍していた漫才をあげると、東喜代駒・喜代志玉子家末丸・艶子桂金吾・花園愛子小桜金之助橘ノ花輔。後者二人は別の人と組んでいたりする。

 また喜代駒に至っては大正十五年時点で『滑稽掛合』として、ラジオ(JOAK)に出演している。これだけ活躍している人を掴まえて素人扱いは流石にないだろう。

 千代若はこういう辻褄を合わないことを口にするので考証するのが物凄く大変である。

 ただし、何度もいうがこれは田崎氏の罪ではないし、落ち度でもない。もっとも注意を一言やる必要はあるかもしれない。

 千とせの名前が三代目だというのも本人から伺った事だがここまで詳しくは聞いていない。この事を聞いて松鶴家の系図を書いて渡したことがある。もう3年近く前になるか。その時は本人も漢字を忘れていたが「千登勢」と思い出されたのは、慶賀である。

 西秀一・秀二を解散したあと、宮田羊かんとコンビを組んだ。それが、1968年頃コンビ結成とあるが、これはケアレスミスかしらん?

 秋田実が発行していた『漫才』(No.16)の中では、

「四十一年に千とせとコンビを組む」

 とある。そうでなければ、四、五年漫才をやったという宮田羊かんの発言とつじつまが合わない。但しこういう証言を、芸人から聞き出すのは至難の業であるのはよくわかる。御苦労お察し申し上げる。

 その宮田羊かんの身の回りのこと、実情を改めて知った事もある。後家の子供というのは、聞いてこそいたが、なるほどこうだったから中学もソコソコに働き始めたのか、と感心した。こういう事は研究者では恐れがって書きたがらないので、よくぞ斬り込んだと思ひます。

 羊かんが地方巡業先で、千とせとコンビを組んだ話を書いているが、この時千とせを置いていった人物は誰であろう、後に京二・京太で人気を集めた、東京二。この時、青空うれしに紹介して頂いたので二人の会話をよく覚えているが、要約すると「京二はまだ本名の神田で漫才をやっていた」「相方がいるから千とせを置いて先に帰ったんだ」とのことである。

 千とせ・羊かんについては書く事がたくさんありすぎて書けない。なので本の中にあったNHK漫才コンクールの事のみ記すことにしよう。

 幸いにして、漫才コンクールの事は遠藤佳三氏より資料を見せて頂いたので胸を張って書くことが出来る。

 二人が初出場を果たしたのは、一九六九年に開催された第17回NHK漫才コンクールより。この時のネタは『海外旅行』というもので、他の出演者には大空みつる・ひろし、東京大坊・小坊、北ひろし・南順子――あした順子・ひろし、東京二・京太、大瀬しのぶ・こいじ、月見おぼん・こぼんなど合計十一組。因みにみつる・ひろしから、しのぶ・こいじまでは漫才グループ21の仲間だったのだから、さぞやりづらかった事だろう。

 この時の優勝は東京二・京太の『忍法虎の巻』。かつての相方が優勝したのを見て、千とせはなんと思った事であろうか。千とせ・羊かんは次点(4位)止まりであった。

 翌年の18回にも出場。このときの出場者は前年とほぼ同じであるが、花園のいる・こいる――後の昭和のいる・こいるが初参戦を果たしている。この時は『ハプニング桶狭間』というネタで挑戦した。

 しかし結果は3位。この時の優勝は先輩の大空みつる・ひろしの『㊙情報時代』であった。ものすごい余談であるが、千とせ同様『全身芸人』の中で取り上げられている世志凡太は、大空みつるの師匠である。これもまた何かの因縁かしらん?

 そして、1971年の第19回にも出演。出演者の顔ぶれも少し変わり、Wエースや獅子のびる・瀬戸こえる時代ののいる・こいるなどの若手が目立つようになった。

 この時のネタは書いていない為不明であるが、結果は3位。優勝は大瀬しのぶ・こいじの『固い商売』であった。これ以降、羊かん・千とせが漫才コンクールに出場する事はなくなってしまった。

 コンビ解散は、「一九七〇年か一九七一年」とあるが、手元にある資料や両人及び遠藤佳三氏の発言を統合する限り、一九七一年が正しいと思われる。その証拠として4つの資料が挙げられる。

 証拠その1 1971年度のNHK漫才コンクールまで出演している

 証拠その2 1970年度の漫才大会には出演している。

 証拠その3 1971年夏の漫才大会の香盤から名前がなくなる(但しこれは記入漏れの可能性もある)。

 証拠その4 千とせ・羊かんが所属していた漫才グループ21が発行していた会報誌が1970年付になっている。

 引用は面倒くさいので写真で確認して頂ければ、と思う。

 少なくとも1970年解散はあり得ない。この時期に解散していたら、漫才コンクールにも、千夜一夜の真打披露にも列席していないからだ。ここは何かの機会にでも改めていただければ、幸いである。

 千とせとツービートの関係に関しては諸説あるのでなんとも言いようがないが、僕が千とせ本人から聞いた話だと「はじめは(中田)ダイマルラケット先生を紹介してくれって来たのかと思いましたよ」とのことであった。

 その他、思う所、良かったなあと思う所は数々あるが、漫才に関してのお茶濁しはこの辺にしておこう。

 少々押し付けがましくなってしまったが、いい本であることには変わりない。私も大いに見習って活用したいと思う。

 田崎健太氏の仕事ぶりが伺える情熱の書とでもいうべきかしらん。芸能を愛するもの、漫才を愛するもの、是非とも一読をお薦めします。

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