篠田実・木村松太郎浪曲むかし話

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 漫才のサイトであるが、珍しい資料が出てきたので掲載する。裏付けがないので微妙な所であるが、1975年の浪曲大会のパンフレットである。

 戦前から戦後に渡り活躍を続けた篠田実・木村松太郎の対談である。残念ながら私はあまり浪曲を知らない。殆ど無知に近い状態である。友人たちのほうがよほど知っている。嘘か本当かは神のみぞ知るセカイといっておこう。

 それでも喜代駒が出ているのと、こういう資料はなかなか出ないので掲載する事にした。著作権的にアレだが、ま、非営利なので大丈夫だらう。文句があるなら消します。

松太郎(左)・実(右)

(註・実=篠田実 松=木村松太郎)

 御存知『紺屋高尾』の篠田実師(初代) と関東節重松門下の木村松太郎師に、えんえん三時間むかし話を聞いた。この筆記はその一部分である。御両師共七十七才、すこぶる健康で目出度い。(昭和50年5月9日・浅草にて)

  ―― (実師に)喜の字のお祝いをなさらねばなりませんね。 

 実 もう済ませました、二月十六日生まれだから。 

 ――それはお目出度うごごいます。松太郎師匠は二つぐらい齢下ですね。

 松 戸籍面はそうだけど、ほんとうは実先生と同い齢ですよ。区役所が悪いんだ……、いや、親が悪いのかな二年間も届けなかったから。(笑) じゃあ矢張り七十七才、お二人合せると百五十四才だが、どちらもお元気で……。 

 実 一時はすっかり声が出なくなって、仕方なくやめたんですけれど、 このごろ、また声が出てきましてね。 

 ――そういえば、生存者叙勲のパーティのとき(昭和四十七年) もう一度舞 台に立ってみようかなンておっしゃってたが……。

 松 私だって入れ歯が入ったらやれますよ。 今度、新ネタを木馬館でやりますからゼヒ聴いて下さい。 

 ――どんなネタです?

 松 それは言えない。舞台に上るまでは中だれにも言いません。秘密です。(笑) 実先生の元気なのは、脚が強いせいですよ。むかしからよく歩く人でね、大がいのところはサッサと歩く。足腰が丈夫なのは驚くばかり

だ……。 

 実 松ちゃん、その「先生」というのはやめておくれよ。 

 松 いや、そうはいかない。うちの師匠(初代重松)はあの通り威勢のいい人だからだれにだって師匠とか先生 とかは言わなかった。

  ――兄君(けいくん)と言ったんでしょう(笑) 

 松 師匠が先生呼とんだのは 雲右衛門(桃中軒)さんにだけ、「師匠」ッて言ったのは本当の師匠の重勝(初 代・木村)さんと鶴堂(鼈甲斉)さんの二人っきり……。そんな、人をうれしがらせるようなことは言えない性分でね。だから私たち弟子も、師匠だの先生だのって、めったに言わない。しかし、実先生は、うちの師匠が大の仲好しで、ミーちゃんと 言って親しくしていた人だし、私も尊敬してるから「先生」と呼ぶんです。

 ――実師は、師匠と言えば早川浅吉という人ですが、この方は名古屋の早川派の出ですか。辰燕や燕平の出た……

 実 京都の人です。師匠に言わすれば早川辰燕さんより自分の方が古いんだそうですが……。

 ――あなたの名が浅右衛門。首斬り役人みたいな名前で、それを本名の篠田實に改められた。すると師匠の浅吉さんが、浅右衛門の二代目を襲名したという、師匠が弟子の名を継ぐというのも古今未曾有のことだが、本当ですか。 

 実 (笑) 

――松太郎さんの師匠の重松さんは雲右衛門がまだ繁吉時代のころに弟子になって、品川の寄席に置き去りにされたというが……。

 松 師匠の話では、雲右衛門先生が梅車(三河家)のカミさん(お浜)と手をとって西の方へ行っちゃって自分は置いてきぼり食ったんで仕方なく新橋のたもとで車の後押しをやったが、それに耐えられなくなって初代の重勝(浪花亭、のち木村) 爺さん ところで拾ってもらったと言ってましたね。

 ――自分を置いてきぼりにした雲右衛門でありながら「先生」と言ってあがめていたんですね。 

 松 そうなんで……。のちに、うちの師匠が横浜の寿亭に上ったとき、丁度雲右衛門さんが横浜座をあけていまして、うちの方は木戸が十銭、あちらは一円という違いです。その寿亭に雲右衛門さんが四、五人お供を連れてきて、木戸を百枚買って桟敷で聴いている。うちの師匠、あの通りの性格だから、客のところへ挨拶に行くなんて絶対しない。祝儀をもらったって「ああそうかい」というだけの人だったが、これが雲右衛門先生のところへはチャンと挨拶に行きましたよ。雲右衛門さんはうちの師匠を「繁マ、繁マ」と呼んでましたがね、楽屋一同にも祝儀をくれまして、あたしも五十銭もらった(笑)……。そのとき私は初めて横浜座へ行って雲右衛門先生を聴かせてもらいました。前席が「御薬献上」中が「山鹿護送」後席が「南部坂」の三席でしたが、途中でお腹が痛くなったとみえて 「ちょっと失礼」 といって途中で舞台を下りてしまった。三十分も出て来ない。ところが客はパタッともしない。だれも文句言う人はいない。やがて舞台にもどると弟子がお盆に湯呑みをのせて持ってくる。それからまた初めたんですが、えらいものですね、客が黙って待っていた。 

 実 わたしも先生というのは雲右衛門さん一人です。小さいときからお手本にしていました。同じ義土物でも、奈良丸さんの、あれやこれやの手違いで……、というような文句のものより、子供で、わけはわからないが雲右衛門の方にひかれました。たしかに奈良丸の方が歌いいいけど、あんまりキチッキチ・とした行儀のいいものより、やっぱり雲右衛門の文句の方が。だから私は雲右衛門さんに会わぬ先から憧れていました。 

 ――実さんは雲右衛門から養子に望まれたという話は……

 実 いいえ、そんなことはありません。ただ、うちへ来て二、三年修業したら、と誘われましたが、こっちも親兄弟を養わなきゃならないしね、それにもう相当かせいでる時でしたから、金のことは言わずに二、三年修 業しろたってね (笑)  

 ――雲右衛門にお会いになったのは?

 実 名古屋の鶴舞病院に、お玉さんと二人で入院されていましてね、丁度私が名古屋で演っていたので呼ばれて行きました。大正四年だったと思い ますが、その前に北海道の旭川の佐々木座に雲右衛門先生がかかってい たとき一度挨拶にうかがったことがありました。それで、私のことを知っていられたらしく、つれづれに呼ばれたんでしょう。しかし、病院の 大きな部屋を二部屋借り切って、部屋をりっぱに飾り立てて、それはもう豪勢なものでしたよ。 

 ――で、相対で一席やったんですか?

 実 いや、患者さんや看護婦連を集めてね、目の前に雲右衛門先生が、テンの皮の外套を引っかけて座っている、そのときやったのが『安兵衛婿 入り』で先生のネタです (笑)。声の一番出るころでね、自分の声に惚れぼれするくらい……。それで「金のこ とを言わず二、三年修業に来い」と言われたのでしょう (笑)。のちに入道館でも聴いてくれましたが、その 時は倉橋伝助、これは私の十八番でしたがこれも先生のネタです……。 とにかく、前後を通じて、あんな人は出ませんね。 

 松 うちの師匠の節は雲右衛門調ですね、小繁、繁吉時代のものを学んだ ものでしょう、雲右衛門のレコード を聴いてるとうちの師匠と何か似て ますね、うちの師匠の節を大間にしたのが雲右衛門節ですね、やっぱりうの師匠は雲右衛門さんの弟子だなアって、そう思いますよ。雲右衛門さんも小繁時代にはうちの師匠のような関東節だったんですね。雲調を高音の三味線でやるとうちの師匠の節になる……。雲右衛門さんがあれだけの節にするにはよほど苦労したんですね。えらくなる人は地方から偉くなってくる。雲右衛門は九州で苦労してえらくなったが、初代の重友 (木村)さんなんかも北海道へ行 ってから売れ出したんですね。それまでは東京でも大したことはなかった。北海道からもどってきて、例の河内山の外題付なんかで一躍売出したですね。

 ――実さんは三尺物はやりませんでしたか。

 実 あまりやってませんが、国定忠次ものなどを少し。 

 松 何しろこの先生はね、番頭が木村勘弥、震災のあと紺屋高尾が出た時分、はっきり覚えないが、みんなが二十円か二十五円の給金(一晩)のとき先生は七十円だった、それで音なんかでも十日間、出ればお客 が新片高尼のほかやらせなかったんだから……。綾太郎さんの壷坂どころじゃアない。よくやったもんです ね……。だけど、私が感心したのは、あれは藤沢かどっかだったが、 先生と私と友忠と……だれかもう一人、一緒に出たんですが、先生が舞 台に上ってやっているのを楽屋で聞いていたら、『紺屋高尾』でないも のをやっている……。聞いてるうち に引っこまれて、うまいなア……と 聞き惚れてしまった。終って、あれ は何て外題です?と聞いたら源太時雨、小柳丸……ホラ、星右衛門の小柳丸ヤツにしゃべらして覚えたと言 われた。うまいと思ったねえ、星右衛門の『源太時雨』は固くってちからばかりはいってる。実先生のは虎造の『お民の度胸』とおんなしで、 太い声で女のセリフをやるんだがそれが色っぽいの何のって……。 先生の義士伝のうまいのは承知だが、三尺物をやらしたって大したものでし たね。 

 ――浪花亭綾太郎さんと実さんは。

 実 初めのころは先生、先生と言ってい ましたが、壷坂で売れてきたらミーちゃんになった(笑)いい人でしたよ……。 わたしは、死んだ阿部川 (重松)につくづくうまいなアって感心したことがある。姐己のお百、いまだに忘れない。善達やなんかしょちゅう聞いてたが。

 松 あれは小重松から貰ったネタです。うちの師匠は先輩後輩だれからでもネタをもらってましたが、かけてみてすぐ棄てるのもあればずっとやっ たものもあります。大体が講釈が嫌いで、その方からはネタは仕入れなかった。

 ――どうして講談がきらい? 

 松 私ら前座時分から、講釈はダメだから聞くなって……、講釈聞くと浪花節がバカバカしくなってやれないッて。聞くなら落語だ、落語を聞くとケレンがはいる……。うちの師匠の ネタには 落語が何にでもはいってる。

 実 感心するような講談、いま無いね。むかしは本当に聞きほれるようなのがあったが……。 

 松 いまの馬琴(宝井)が、大正十三年に私が新宿の末広で看板披目でした 露のときニッかね、先代馬琴さんがヒルのトリで、夜が私の看板披露… いまの 馬琴さんが 琴桜といったかね。

 実 伯鶴がうまいうまいなんて言ってた が、私の前をずっと読んでいた麟生 (旭堂)という人はうまかった。伯鶴なんて人は跡生の物マネしてるよ うなものでした。気の抜けた麟生みたい……。その鱗生が私のところを出てから、引退するってんで私のほか辰雄(一心亭)さんなど看板を十枚ぐらい並べて芸の七福だったかな、そこでやったんです。ところが私が行ってみると、ほかの者はだァれも来ていない。ボクが伊庭如水軒やってたら客が怒ってるんです、看板ばかり並べやがって、実一人じゃないかって…….(笑)。なぜほかの者が出なかったかというと、麟生の態度が悪いと言うんです。タダで出てくれというのに、自分は金銀に金の指輪かなんかはめてりっぱな格構して頼みに来た、そんなゼニがあるんならタダで出てくれってことはないだろうと、みんなヘソ曲げたんですね。ボクだけ犠牲になっちゃった(笑)。 

 松 さっきの『如己のお百』は、兄弟子の小重松、のち重年になったいい男で、肺病で死くなりましたが、この人がうまかった。それを師匠が付け てもらったんでしょう。私は聞いたことがありません。私が感心したの は、小田原の昇龍亭で、うちの師匠が清吉(春日亭)さんや大教(高山) なんぞと七、八人の大会に加わって出たとき、師匠がトリなんですが、 前を読む人たちがみんなケレン物をやって師匠のやるものがない。どう にも仕様がなくて何度も小便に行っちゃァ何やろうかと考えた。そこでやったのが『越後騒動』の血染めの願書、これ、ケレンが一つもはいらない。師匠からケレン抜いたんじゃ 面白くないはずだが、このお固いものでピタリ客を押えた。押えたけれど師匠、やりながら小便チビッたといいます。あれだけ売れても大会ともなるとそうなったんですね。むかしの大会はやっぱりこわかった、楽屋でもお客様の方でも殺気立った気分でね。 

 実 みんな自信満々でやってましたからね。それでなくちゃとてもやれない。僕らみたいにね、こんなことやったら客もいやだろうなァなんてことじゃ……(笑)。 

 松 そんなこと言ったって、先生が出りゃァ『紺屋高尾』でみんなふッ飛んじゃう……。(笑) うちの師匠は運がよかったんですね、師匠が少しヨダレになってきた (人気が落ちた) ころ、師匠の妹のお八重さん (木村 八重子、曲師)と弟子の重浦が出来て、カケ落ちなんぞしたが、その重浦と二枚看板でやりました。この重浦が八丁荒しの時分だから客が来る んですよ、だけど師匠が浪花節をやると芸の上ではこんなに違うでしょう重浦を聴きに来た客が、重松はうまいなって、人気を盛りかえした……。それからこの実先生と気が合って、看板をならべる、師匠はサマだけど大先生の人気で客が来て師匠がまた盛返す……、少し傾くとだれかしら出てきて師匠を助けてくれる、運のいい人ですね、人柄のせいでしょうか。別段相手を利用しようなんて気は一つもなかったんだけど。 

 実 不思議とウマが合うってのか、重松と年は上だが綾造 (繁右衛門) さ ん、この二人とはほんとうに気が合いました。 おかげで私たちまでいろいろ世話になったというわけで……。

 ――どうです、篠田実全盛のころ、ニセ者は出ませんでしたか。 

 実 出ました、出ました。篠田実……、 篠田宝なんて……。ところが図々しいんですよ、ボクのところにそのニセ者が来てね、「木戸安くしなきゃいいんでしょう」ってシャアシャア……。ボクの弟子でニセ者になっ たのがいてね、ひどい話……、楽屋にあるお婆さんが尋ねてきて、私の顔を見て、「わしの知ってる篠田実はもっと若くていい男だ、あんたニセ物だろう」って……。それが僕の弟子のことだったんです。(笑) 

 ――『紺屋高尾』ですが、坪内士行さん が大変あの節の文句を褒めていらっしゃいましたが、あれはだれが書いたものですか。 

 実 あれは、関西の者で勝美(京山?)という、私のモタレがやっていたんですが、悪いけれど芸は成っちゃい ないんです。だけど節が面白くて、文句は大体あの通りなんです。あたしが直すことは直しましたが、勝美は大阪者だから大阪弁がはいるんです。

 ――大阪弁の紺屋高尾ッてのは(笑)。 

 実 「遊女は客に惚れたとユイ……」へンなものですよ。こないだもね東喜代駒さんが「情けに変りがあるものか、わしもやっぱり人の子じゃ、 義理という字は墨で書く……、義理という字だって何だって墨で書くはずなのに、何だって義理だけで書くというんですか」って尋ねられて 閉口しましたがね(笑)。そんなこと言われたって、覚えた通りやって るんで……。私が十三ぐらいのころ雲右衛門さんのネタの「村上喜剣」 などやると、長汀曲浦の秋高く、賤が伏屋ののどかさよ、絵にも画くべき須摩の浦、なんて文句があるでしょう、すると客の中に、十二や十三の子にあんな難しいことがよく言えると感心する人がある、実はこっちもどんな意味やら解らずにやってるんで……(笑)。義理という字は墨で書く、で意が通じるんで、団子という字は墨で書くでは……文句にならない(笑)……『紺屋高尾』の名文句はみんな受けつぎですよ。

 ――勝美では、あれは生きなかったんですね、先生でないとー。 

 実 フシも勝美の通りです。義士読みの雲調ではあれはうつりません。 大正十年か十一年ごろからチョイチョイやったんですが客受けがいいんです。蓄音機に入れる時分にはもう相当自信があったんです。レコードに 吹込むとき、技師の人が途中でプッと吹出して二度も三度もやり直しま したよ……。こんなに売れるとは思いませんでしたよ。

 松 芝居や落語で紺屋高尾をやるけど、先生のようにはいかない。……私は「芝浜」をやるけど、六代目 (尾上菊五郎) のなんぞ見に行きましてね、いろいろ学びました。落語は無論だけど……。金さえあれば芝居でも清元、新内、何でも聴いて学ばなくちゃね……。 

 実 「芝浜」という外題は、私がブラジルへ行ったとき一番ウケましてね。情味があっていいネタです。アテ節が具合がいいんです。 

 松 「文七元結」も落語から浪花節にしたものですが、ああいうものもいいですね。 

 ――「文七元結」をモトユイという人がありますがね。 

 松 ああ、あれはモットイ……。ある浪花節が関脇をセキワキっていうんです。字で書けばそうだけどねえ。(笑)……字で書けば棟梁(とうりょう)だけど、トウリュウってわれわれは言いますね。うちの師匠が善達で、京都の知恩院をチオウインて言いますが、師匠に言わせると、どっちだって大した違いはねえ…… (笑)。侍なら「その方は大工棟梁か」というが、町中じゃァ「大工トウリュウ」の方が通りがいい。そこらは言う人の身分で……。それは芝居を見たり清元聴いたりしてるとわかるんです。 

 ――ところで、『紺屋高尾』全盛のころは、相当モテたでしょう?

  実 それがダメなんです。あたしは野球が好きで、チームこさえて、昼間、陽に照らされてやったんで、顔がまッ黒でしょう。女が私の顔を見て、こんなはずじゃなかったってガッカリしてる(笑)。 

 ――では、このへんで。ありがとうございました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加