日本太郎のこと

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 また漫才とはあまり関係ない事であるが、ちょっと頼まれたので、日本太郎という珍芸の芸人のことを書く。

 日本太郎については、小島貞二『演芸博物館』に詳しい。手許に本がないので(書庫を探すのが至極ダルいのでまた見つけたら追記する)、要点しか書けないが、自由党の壮士と口では嘯いていたものの、実際は内田秀甫という雅号を持つ、岐阜の提灯屋の出身だったらしい。

 明治末から大正期にかけて、ちょっとした有名人だったらしい。手許に、我らが喜代駒御大のエッセイがあるので、これを引用する。『月刊前進座』にこんなバカ話を載せるのが、喜代駒御大らしくて、いい。

大正時代の寄席芸人は遊芸稼人の鑑札を受けることになっていた。税金は二円五十銭だから犬より安い……。地方によっては一円のところもあっただけにゼッタイ頭が上がらない。その上無鑑札のやつもいるから始末にわるい。

下谷竹町に中村歌門の家作に、三遊亭円右の弟子で三橘という芸人がいた。税金の通知がくるとわざわざ区役所まで持っていって納める。ズボラな男に似合わぬ感心な人だ、役所の人もほめていた。三橘は税金をためないけど家賃を溜めた。聞いたら大家が催促にこないからだって……私もこういう大家さんの家を借りればよかった。後日川崎大師の年男にたのまれて歌門氏彩昇関に話したら、喜代駒さんなら貸しますよと言われた。

三橘はなんでも区役所に相談に行った。子供が生れて名前を何てつけたらいいでしょう? 大正十三年生れだから十三男にしたまえ、ヘェーそうします。

彼の仲間に日本太郎という変りものがいた。応援団長のようなカッコウをして高座に現れる。時には赤い陣羽織を着て音曲や一人芝居をして爆笑させた。この男は無賃乗車を自慢していた。車掌が「切符切ります」と彼の前にくると無礼者と一喝する。これで、ただ? 参ったね、こういう男には……彼のふところに

短刀と青大将を入れていてケンカをするとこれを持ち出してすごむから、ケンカに負けたことがないとこれも自慢していた。

銀座のカフェー黒猫では失敗した。俺は日本太郎だ、又の名を監獄太郎だとタンカを切っても、受けつけないので短刀とさを抜いて見せてもだめお家芸の青大将を相手の鼻先へつきつけた。キャーと悲鳴をあげて逃げると思ったら相手の男がその青大将をひったくってガブリと食った。キャーと、悲鳴をあげて逃げたのは、日本太郎でした。交通戦争も公害もない、よき時代でした。

『月刊前進座』 1970年9月16日号

 喜代駒御大はなぜかこの日本太郎と縁が深く、震災前後にはじめた一人漫才の芸を「……吉原土手の古道具屋で鼓を買って来て、舞台でポンポン叩いて、当時流行した唄や、あやしげな珍舞踊などを取り入れて、最後は一人芝居、日本太郎よろしくの立回りなどを演って、寄席に出ておりました。」(『新演芸 一九四七年六月号』より『関東漫才おぼえ書』)と評している。交遊があったかどうかは不明。

 その喜代駒以上に、日本太郎を愛し、その芸を詳しく書いた人に、正岡容がいる。奇人は、奇人を知るのだろうか。

 正岡は『随筆寄席囃子』の中でこんな事を書いている。これほど緻密に、愛を込めて、そして何処かやるせなく書いてみせる批評も珍しい。珍重すべき一文である。

日本太郎

 さっきの知人の手紙にもあった日本太郎はどうしたろう。恐らくもう死んでしまったろう。日本太郎には、わが青春の明暗二つの思い出が絡まっている。少しおもはゆいが今日はそれを書いてみよう。
 太郎は矮小ないと貧弱な壮士風な男で、お釜帽子をかぶり、懐中から紙の雪を取り出してちらし、ピストルを射ち、捕縄を振り廻し、刑事と怪盗の大捕物よろしくの独劇をやった。また風音で慌しくことあり気に現れて来てあたりを見廻し、
「高い山から谷底見れば、瓜や茄子なすびの……」
 ここまで棒読みのように言って、さて五本の指の尖を上向けて丸く集め、花ひらく恰好を二度(すなわちそれが瓜と茄子との花なのだろう!)やると同時にすててこの時のようなスポッスポッという音を同じく口で二度させて、
「花盛り……花盛り……」
 とまた同じ調子で言い棄ててそのまま下りて行くこともあった。新内流しを合方に皺枯れた先代團蔵の声色は、まだ耳許に残っている。
 また太郎は客席へ針金を張りめぐらしてそこを自在にわたったそうだが、これは私は見ていない。始終蛇を懐中ふところに入れていて、大蛇運転法というのも見せたそうだが、これも私は見なかった。ただその愛用の蛇を振り回しては楽屋のものを脅かすので、連中が音を上げているというような話はしばしばいろいろの人たちから聞かされた。
 それにしても日本太郎、いったい、どういう素性の人だったのだろう。自由党の壮士くずれで、北海道の某なにがし監獄を脱監したとか聞いているが、どうもそれはどの程度までほんとうにしていいのか知れたものではない気がする。「一心如鏡」とかいう刺青があり、それを高座でまくって見せたりしたこともあったという話は、かつて金語楼から聞かされた。
 いずれにもせよ、ちょっとすばらしい大げてものだったとはいえよう。やってみせることの全部が全部皆くだらなすぎて、げてもここまできてしまえば、これはこれでまた充分に結構じゃなかったのかと今にしてつくづく思う。
「昔は日本太郎などというゲテものは岡鬼さんの当座帳などでうんとやられたものだったと思うが、今ではその日本太郎味が時に少々ナツカシクなるなどは、星移り時変わるですね」
 と木村荘八画伯が「寄席冊記」(大正十四年)の中で言っていられるのももっともで、大正十四年にしてすでにしかり、昭和十九年の今日、初老の私が昔なつかしくこれを書いているなど、ことわりすぎて道理なりと言いたいくらいのものだろう。
 さてその日本太郎が松葉とかいう色の黒い馬面の女とつるみ高座でそののち睦の寄席へ現れ出したと思ったら間もなく消えて、震災の翌年の九月には、牛込肴町の柳水亭という端席へ、独演会の看板を上げた。ひどい晩夏の土砂降りの晩だったが、私はいそいそ聴きに出かけた。白状してしまうが、この、いそいそは単に日本太郎聴きたさのためばかりじゃなかった。
 じつはその頃婚約していた宝塚のある女優さん(レビューガールの語はまだ日本にはなかった!)がやっと数日の休暇をみつけて(私の方からはしじゅう上方まで逢いに行っていたが)明日は上京してくるという、すなわちその前夜だった喜びもなかなかに手伝っていたにちがいない。その興奮の対象にされた日本太郎こそまことにいい面の皮だったともいえようし、ためにお客一人増えたのだとすればまんざらでもなかったのだともまたいえよう。柳水亭はその後、勝岡演芸場となって晩年の若水美登里などの安芝居の定席となり、のち東宝系の映画小屋となってしまったが、電車道に沿って二階いっぱいに客席のある寂しい小屋だった。かてて加えてひどい大雨の晩だったので、お客はせいぜい二十何人くらいしか来ていなかった。定刻の六時になると文字どおりの独演会で、奴さん、前座もつかわず、ノコノコ高座へと上がってきた。そうして、近所の牛込亭や神楽坂演芸場の落語家たち(ついこの間まで彼自身もその仲間だった)の独演会のやり口を口を極めて罵り、自分のような、この、こうしたやり方こそがほんとうの独演会なのだとまず気焔を上げた。今の奴らは一人っきりでひと晩演るだけの芸がないのだというようなこともしかしながら言ったように覚えている。聴いていてへんに私はうれしくなった、恋ある身ゆえ、なにを聴いてもしかくうれしかったのかもしれない。
 続いてまず最初は音曲噺を、と、「箱根の関所」を一席、演った。ただ単に演ったというだけのもので、決して巧いものではなかった。むしろハツキリと拙かったといえる。でも、それもうれしかった、やはり恋ある身ゆえに、だったのだろう。
 それから雲節で「大正震災記」の浪花節を唸った。被服廠のところでお婆さんがどうしたとかいう奇妙なくすぐりがあったように覚えているが、もちろんこれも塩辛声で、てんで法返しのつかない代物だった。そのあとで今の音曲師は本筋の都々逸の歌えるやつがかいくれいない、そもそも都々逸には芝派と江戸派の二つの歌い方があるのだ、今夜の俺はすなわちその芝派のほうを聞かせてやろうとさんざん能書いたのち、やおら歌い出した都々逸二つ三つ、しかもまたこれが思いきり拙かった。危うく私はふき出してしまうところでさえあった。でも、やっぱりそれもこれもただやみくもにうれしかった、同じく恋ある身ゆえに、だったのだろう。
 続いて場内を真っ暗に、辮髪の支那人姿となって現れ、その辮髪の先へ湯呑み茶碗の中へ蝋燭を立てて灯を点したのを結びつけると、四丁目の合方おもしろく、縦横自在に振り回した。幻燈の花輪車のよう辮髪の先の灯は、百千に、千々に、躍って、おどって、果てしなかった。まさにまさしくこれだけは逸品だった。二十人あまりのお客たちが言いあわせたように拍手をおくった。いよいよ私はうれしくなった、くどいようだが恋ある身ゆえに。
 でも、いつまで恋ある身ゆえにいつまで恋ある身ゆえにと喜んでばかりはいられないことが、たちまちそこへやってきた。はじめて浴びた満場(といっても二十人あまりだが)の拍手に気をよくした日本太郎はにっこりとすると、
「ではこれで仲入りとするが、あとは客席へ下りていって諸君の腕をへし折り、たちまち元のごとくに直してごらんに入れる」
 こう言ってサッサと下りていってしまったのだった。いや、おどろいたね、これにはどうも。だって二十人あまりこの客ではいつこの私がポキンと腕を折られまいものでもない、さてその折られた腕が再び元どおりにならなかったとてそれこそとんだ「太鼓針」で、相手が日本太郎では喧嘩にもならない。かく思い、かく考えてみてほんとうにその時私は心の底の底のまた底まで青くなって、そこそこに柳水亭の階子段を駆け下りて下足をもらうとまだ土砂降りの往来へと飛び出してしまった、それこそそれこそ恋ある身ゆえに。
 かくて二年の歳月相経ち申候。
 くわしい経緯は書く必要がないから言わない、意地っ張りの私は意地を張ってその頃人気の頂点にあったその宝塚の女優さんとの婚約を解消し、上方三界を自棄にほっつき歩いていた。宝塚の人と別れたのにわざわざ上方へ漂泊しにいく手はまったくなかったのだが、なぜかその頃私の作品は「苦楽」はじめ「週刊朝日」「サンデー毎日」と上方の雑誌ばかりが歓迎してくれていたので、飛んで火に入る夏の虫みたいだったが、けだしヤムを得なかったのだった。ひどい深酒ばかりしては囃子哀しい法善寺横丁の花月や紅梅亭へ、連夜のようにかよいつめて、せめてもの憂さを、亡き枝雀や枝太郎や春團治の高座高座に晴らしていた。その頃反対派の大八会といういたってしがない寄席の方に、たまたまこの日本太郎が出演していた。相変わらずの柔道着で「瓜や茄子」や独劇などを演っていた(同じ頃この派に雌伏期のアチャコがいた)。でもその時例の松葉とかいう馬面の女はもういっしょに出てはいなかった。しかも同じ頃誰かから聞いたところによると、松葉は十二階下あたりの魔性の女で、すっかりはまり込んでしまった日本太郎がこの女ゆえに仲間とも別れ、妻子をも棄て、大阪三界のそれも端席へと落ち込んでしまった、しかも太郎に棄てられたことを苦に病んで死んでしまった女房をさすがに哀れと思ったのだろう、一日、松葉と二人天王寺へ亡妻の骨を納めに行く途、通りがかりの自動車に轢ひかれて松葉は即死し、さしもの日本太郎は、今はいと味気ない日々夜々おくっているわけなのである、と。
 そう聴かされて私はさすがに他人事と思えない哀れを覚えた。覚えずにはいられなかった。神祗釈教恋無常と人の世の味気なさを囀さえずっているものは、すなわち私一人でなかったのだった。でもそののち上方に、小田原に、東京に、その女優さんと別れてからの私の生活は、ことごとくいけなかった。かくて私の「青春」はすべて暗黒だったと今にしてハッキリと言いきれる。
 かくてまた五年の歳月経ち申候――昭和五年。
 その、初夏のある朝、これももう亡くなった小奇術こづまの巧かった弄珠子ビリケンと、私は名古屋の大須観音境内を、中っ腹の朝酒でブラブラしていた。いよいよ自棄に身を持ち崩していたその時の私は、もう噺家の真似事をしていて、新守座の特選会へ出ていたのだったが、その時卜していた世帯が少しもおもしろいことはなく、しかも未見のうちから密かに会見を楽んでやってきた今度私と新守座へ割看板の、その頃新橋教坊の出身で、新舞踊をよくする人とは会談どころか出演料のことで二日目から正面衝突をしてしまい、よりどころなき憤満を、折がらの朝酒に紛らわせてはいたのだった。
 たまたまそこへ皮肉にももうその頃新国劇へ転じていたかつての婚約者たりし宝塚の女優さんの名の入った近日びらの、市中至るところ、薫風にひるがえっていたことも、いよいよ私にはいけなかった。日夜の乱酔へ、そういっても拍車をかけずにはおかなかった。しかもその時ハッと我が酔眼に映じたものは、かの日本太郎その人が、路上、短冊色紙の類いを数多く並べてうっていた世にも佗びしい姿だった。都々逸ひとつ歌っては「ひとつやることが学問のある仁はちがう」とうそぶいていたくせに、じつは新聞一枚満足に読めなかったそうな太郎は、その代わり高座でもよく稚拙な絵の曲描きはやっていた、下座に「夕ぐれ」などを弾かせて。今まさにその稚拙画を色紙に短冊にぬったくって往年の日本太郎は、道ゆく人々にわずかにそれを沾ってはいたのだった。

いささかの未練はのこれ 野悟となる 身のはての何を思はむ

 かつてわが師、吉井勇はこの詠あったが、その時の私も殷鑑いんかん遠からず、今目先にある日本太郎の姿こそ、やがてくるべき日の自分自身であるかのごとくしきりに考えられてならなかった。そういううちも出演料のことでもめている割看板女史のことを考えるとまた新しい憤りさえ含こみ上げてきて、すぐまた私はビリケンをさそい、傍らの飲み屋へ入っていった。一時間、酒が切れると、すぐ手がふるえ、舌が痺れる、よるべないその頃のアル中の私、重ねて言うが、明日の知れない、人生いとも暗澹あんたんのその頃の「私」だったのだった。

 でも、人生のことはわからない。

 それからまた十一年の歳月が相経ち申候の時、なんと私はその新守座へ割看板で出演し、即日、確執を生じてしまった人と結ばれて夫婦になった。すなわち今の女房である。
 私と同じくのざらしとなるかと危まれた日本太郎も、花街にあった娘に良縁があり、どうやらいっぱしの楽隠居になって老後安楽でいるとか、あるいはもうめでたく一生をおわったとか聞いている。わが身に引きくらべてもこの畸人きじんの晩年だけは、安らかなれと祈りたい心持ちでいっぱいである。
 それにしても再び言うが日本太郎、何が動機でああいう大べら棒な芸を演るようになり、また数奇な一生を経たのだろう。そのうち左楽老人にでも、とっくりと聴いて見たいと思っている。よほど、小説的な前半生があるのかもしれない。
 さて宝塚から新国劇へと転じたかつての婚約者には十日ほど前、街上、ゆくりなくもめぐりあった。私より二つ年上だったから四十三歳になるのだろうその人は、近頃あまりいい精神生活ではないのだろう、小肥りなくせにへんに佗びしくなってしまっていて、自ら勢い立っていたあの頃のおもかげは見るよしもなく、春曇りの午後、佗びしく私は、四谷、さる街の十字路で右左に別れてはきたことである。

『青空文庫』

 この中で正岡は、「安楽な一生……」と書いているが、次作の『艶色落語講談鑑賞』の中で、

……針金渡りやピストル強盗の一人芝居をして自由党壮士くずれ脱獄囚と自称した、矯躯の奇人日本太郎とくると、もはや大正寄席風物詩中の登場人物だから私にもたいへんハッキリとした記憶がある。何の因果か太郎、元来、蛇が好きで、いつもニョロニョロ生きたのを楽屋へ携帯、一夜、どこかの寄席でこれが客席へ這い出したので、たちまちに女子供は阿鼻叫喚。もっとも花のお江戸の真ん中の寄席で、いきなり蛇に這い出されては、女子供ならずともたいてい悲鳴をあげるだろう。
 私はこの日本太郎の、げてもの味感が何ともありがたくなつかしくて、先年その回想の一文を説稿、限定版随筆集『寄席囃子』中へ収めたら、さっそく長谷川伸先生からお手紙を給わり、日本太郎の針金渡りは猿猴栄次のイミテーションであると教えていただいた。
 が、不敏なる私は、その時、猿猴栄次について、何ら識っているところがなかった。恥ずかしながらその名前さえ初耳だった。
 と、そののちたまたまひもといた雑誌「演芸世界」の明治三十六年六月下旬号に「大悪人の広告」と題する小出緑水氏の一文があって、全文ことごとく栄次のことで埋められていた。
 まず冒頭には、

「六月十四日午前九時より開場するとて横浜羽衣座が各所に撒いたる引札には怖ろしい事が書いて、ありとにかく珍しいものゆえ御覧に入るる事とせり」
 と記してあり、猿猴栄次また自らの懺悔劇を羽衣座で上演したことが伝えられている。すなわち横浜育ちの長谷川先生はこの頃見物されたものであらう。
 またその広告の標題には、

『貧児教育慈善
        開演御披露
 演演劇会一座
  旧大悪人
 無期徒刑囚特赦減刑人
            猿猴小僧事
 明治噂白浪三羽烏一人
 本名 市村栄次郎
 旧福井県士族当四十七年

 とこう書いてあって(明治白浪の三羽烏とは、他に鼬いたち小僧や雷小僧などが数えられるのだろうか)そのあと明治十六年には、京都の某貴族邸から二葉の鏡を盗み出して捕縛、翌十七年京都監獄を放火脱走、またまた北海道乗治監へ護送後も石狩川に架設の三百二十有余間の電線を伝わって逃亡した等々、仔細にその罪状が極めて猟奇的な筆致で紹介されている。
 高座から桟敷へ。針金張りめぐらして身も軽く渡ってのける、太郎の監獄破りの離れわざは、なるほど、この猿猴栄次を宗としたものにちがいない。
 同じ時、長谷川先生のおたよりの中には、またもう一ついかにも日本太郎らしい逸話が書かれてあった。
 それは、今の「東京新聞」、その頃の「都新聞」の演芸部へ、一日、談判があると言って例の柔道着には握り太の桜の洋杖で、太郎、堂々と乗り込んできた。
 須田栄君が応待に出ると、いきなり懐中から短刀を取り出して彼、ズケリと卓子の上へと置いた。
 須田君もさすがに心中いささかギョッとしていたら、急がず騒がず悠然として、やがてのことに日本太郎はその短刀で、醜く長く伸びていた己れの手の爪を一つ一つ削りはじめたというのである。
 彼の全面目が躍如としている。
 私の聞き知っている逸話では、本所辺の縄のれんで、三下のあンちゃんが、因縁をつけてしきりに管を巻いていた。
 居合わせた太郎がこの喧嘩を買ってでて、恐らくその須田君をちょいと冷やりさせたのと同じ短刀だったのだろう、ギラリ鞘抜き放って若いのの前
「ヤイそこな奴、こいつが手前ア怖かぁねぇのか」
 と芝居がかりで飛び出していって睨みつけたら、
「冗、冗談言うねぇ」
 さすがにチンピラでも、やくざものの端くれ、
「そんなものが怖くって、縁日の肥後守を売ってる爺さんの前が通れるけえ」
 とばかり、これがてんで受けつけない。
「おやこの野郎」
 一瞬、いささか、鼻白んだが、さりとて到底このまま引き下がってしまえるわけのものでもない、ようし一の矢が外れたらすかさず今度は二の矢といこう、どっこいこっちにゃまだまだ奥の手がちゃあんとあるんだとばかり太郎、
「若僧。じゃ、短刀は怖くねぇのか」
「ねぇ!」
「ウムいい度胸だ」
 ニンマリ笑って、
「ならこれだ今度ァ」
 いきなり懐中へ手を入れるが早いか、ニョロニョロと掴み出した、かねて寵愛の赤棟蛇、ゾロッとそいつを卓子の上へ置いたら、
「ウ、ウワーッ」
 よっぽど蛇嫌いだったとみえる、あンちゃんたちまちいまし方までの威勢はどこへやら、全身俄にわかに強烈な電気にでもかかったように硬直して棒立ち、身体中真っ青になりつくして、後をも見ずにアタフタ表の方へ駆け出して行ってしまった。
「ざまァ見やがれ青二才め」
 凱歌を上げると日本太郎、どうやら清水次郎長か国定忠次にでもなったつもり。千古の危急を救ってやったここの主人からは御礼の百万遍も言ってもらおうとふン反り返っていたら、あに図らんや、とたんにコック場の方から出てきた主人の機嫌がすこぶるよくない。そうして、言った。
「もしその蛇を持ってるお客さん、余計な真似をしちゃ困るじゃないか。今の若い衆から、うちはいまだお勘定もらってねぇんだ。お前さんあの人の分もいっしょに払ってっておくんなさい」
「…………」

『青空文庫』

 と新しい逸話を記した上で、

 この日本太郎、『寄席囃子』の中の随筆では娼妓上がりの娘にいい旦那ができ、晩年すこぶる幸福と書いたのだが、そののち古川緑波君その他の話を総合してみるとやはり、それはまちがいでどうやら晩年は悲惨だったらしい。私は衷心、この説の誤聞であることを祈ってやまないが、それにしても彼が死んでからもう何年になることだろう。歴史は繰り返す。私は最前からこの短い文章の中で二度もこの言葉を記したけれど、わが日本太郎のごとき存在だけはついにそののち今日まで寄席の歴史の中へ再びとは生まれてこなかった。恐らく今後悠久にああしたよきげてものは、再生してこないのではなかろうか。

『青空文庫』

 と、先日の誤りを訂正する様なことを綴っている。これがラストシーンというのも、なんとも不思議な、少し悲しくなる感じである。

 何はともあれ、人間的に変わる事も臆することも無く、ヘンテコリンな芸と多人を煙に巻く奇人で通し、奇人で死んだという点に古き良き芸の時代があり、芸人のプライドと哀しみがある。

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