東京漫才の発展と飛翔
1935年は東京漫才の革命年と言うべき記念すべきイベントや事件が起きた一年であった。
1935年9月13日、帝都漫才組合結成。その結成の経緯と対立は、「帝都漫才組合の結成と分裂」を参照にせよ。
1935年12月24日、『都新聞』の一年の総決算をする記事では、第一に漫才の流行が取り上げられた。以下はその引用。
あさくさ・すうべにいる【上】
漫才全盛の跡を辿る
題材を近代生活に求めよ今年の浅草を振返つて見て、先づ一番目に目立つた事は、漫才の勃興、隆盛であらう、實に今年漫才が勢ひを得てノシ上つた事には、我人共に驚くべきものがあつた、浅草の漫才をかう盛らせた原動力は、關西で漫才の元締を誇る吉本興行にある、吉本は去年その属する精鋭を引連て、試みに都心、新橋演舞場に出たところ、よく當つた、今春の同劇場興行も續いて當つた、この現象を六區に松竹座、常盤座、金龍館の三館を擁して常に何か新奇な掛物を望んでゐる松竹キネマ演藝部が何條看過しよう、五月に松竹座が一時空いたのを機に、その下旬十日間を、松竹特選漫才大會を開催した、勿論出演者は吉本の關西漫才に對抗してこれには属さぬ所謂關東漫才である、これが豫想外に當つた、初め當業者達は、六區に来る客は流動性を帯てゐるとは言へ、例へば松竹座ならば松竹座乃エノケンについてゐる客がある、そしてその客といふのは浅草で最もインテリ味を帯びてゐる層とされてゐる、その客のついてゐる小屋で漫才といふものをやつて果してどんな結果を得るかと疑惧を持つてゐたが蓋を開けるとそれは忽ち一掃して客は毎日座席を埋めた、そしてこれで「漫才は何と言つても關西が本場だ、關東方の漫才はどれだけ客を惹けるか」と言はれた言葉に對しても、關西の漫才は本場として、勿論これも結構、然し東京の客には、却つて関東方のシツコクない味に惹きつけられるといる話を實證した形にもなつた。これに氣をよくした松竹演藝部では、これを金龍館へ持つて行つて常打に演り、續いて八月下旬には再び松竹座で、今度は都新聞社後援の下に漫才コンクールを開いたがこれも勿論當つて、愈々漫才熱を煽つた、因みにこの時所定の審査員によつて選ばれた優勝者は、一等浪速シカク、同マンマル、二等春風枝左松、松平操、三等都路繁子、千代田松緑等である、松竹演藝部ではこの漫才大會の間に、講談、落語其他の藝人を集めて名人大會を開いたが、これも漫才には押されて成績は挙がらなかつた、一方かう漫才が盛んになると、昨日までは喜劇、レヴユウの舞臺に踊つてゐ者も、浪花節で師匠の湯呑を持飽きた者も、今日は忽ち變る漫才の太夫といふ工合に、漫才師は浅草に溢れる位になつたが、一時には六區の實演劇場、演藝場十五館に亘つて、或はこれを専門に、或は他の掛物の間に出すといふ全盛振りを示したから、この俵作りの漫才も困らずに消化して行つた位だ
ところでかう漫才が増えると中には相當如何はしいのも現れ藝では及ばぬから、エロ味でも行かうとする者もあり其他取扱ふ材料に就ても、相當其筋の頬を勤めさせるやうなのが出て来たので、當局では漸く取締に乗出した、これに周章てたのは當の漫才連中で、芝居などとは全く性質を異にして、當意即妙、變轉自在を生命とする漫才をそんな脚本検閲制度などで縛られては困ると騒ぎ出し、結局組合を作つて自制的に取締れば、といふ事になつて、ヤツサモツサを重ねた揚句九月十三日、目出度く帝都漫才組合の発會式を擧げた、これを機會に一層漫才熱を煽るために組合結成記念關東關西合同漫才大會を市内の大劇場に於て開催の計畫を樹てたが機熟さずか、今年中には實現を見ずに暮れる、これを以て最近漫才熱が下つたと言ふは當らないかも知れないが、多少飽かれ氣味になつた事は否めなからう、松竹の漫才の本城金龍館で、肝腎な松の内だけ漫才を休んで壽々木米若を掛けるのが此間の消息を物語るものだといふ見方をする者もあるが、兎に角漫才にとつては今が緊褌一番の秋らしい組合結成の前後にも漫才は皆個人主義的で不可ないといふ非難があつた、土臺漫才は舞臺に於ても自分だけを考へて他との掛合ひを考へないから漫才全體としての効果を滅ぐ事が多い、よく引合ひに出されるエチオピヤにしても、持出す本人は面白がつてやつてゐても、出る者も出る者もエチオピヤでは聴く方でウンザリ、自分の組だけのつもりでエチオピヤを持出すといふ事のほうが漫才よりも餘ツ程可笑しい、それから揚足取りばかりにギヤグを求めずに、もつと内容的に取扱ふ題材も近代生活に触れさせなければならないといふ話にも耳を傾けるべきだらう、とまれ漫才連は時代といふものと漫才全體といふを事考へて行動する事、先づ来年は前に書いた記念大會でも早早に開いて、一段と漫才熱を煽つてから、更に前進こそ望ましい