
鹿島伸とトニーワン(右端の白スーツが鹿島伸)
(二代目鹿島伸氏提供)
人 物
鹿島 伸
・本 名 大平 喜三定
・生没年 1938年1月5日~2005年1月23日
・出身地 長崎県
来 歴
鹿島伸は、浪曲ショーを率いて一時代を築いた漫才師。元々は浪曲師の鹿島秀月の弟子であったが、浪曲不況をうけて浪曲漫才に転身。「鹿島伸月とトニーワン」、後に「鹿島伸とトニーワン」で一時代を築いた。
初代の経歴はご子息の二代目鹿島伸氏の証言が大変役立った。ありがとうございます。
二代目伸氏によると「長崎県出身。地元の中学卒業後、浪曲師を志し、上京。当時、文芸浪曲で人気を集めていた鹿島秀月に弟子入りし、鹿島伸月と名乗った」との由。
同門には青井しんご、三田宗司などがいる。
住み込みで浪曲の修業に励み、「鹿島伸月」として一本立ちしたものの、1960年代に始まった浪曲不振の煽りを受け、歌謡浪曲漫談へと転向した。
1962年頃、「鹿島ファミリー」を結成し、浪曲ショーを率いるようになる。当時のメンバーは鹿島伸月、昌子、弘、裕二。裕二は後に「三田宗司」と名乗る。
二代目鹿島伸氏によると「スタート当時はマセキさんのお世話になっていた」とのことで、玉川カルテットの二葉しげるは、鹿島ファミリー時代のメンバーだった、との由である。
メンバーは色々と変わったというが、基本的にはそれぞれがギターや三味線、ドラムなどを持ち合い、それらを合奏しながら、お笑い浪曲を演じるというものであった。鹿島秀月譲りの浪曲を一節聞かせるのを売りにしていた。
1969年、浪曲コミックバンド「鹿島伸月とザ・トニーワン」を結成。浪曲時代に鍛え上げた喉を生かしたボーカルとギター担当として、活躍。
賑やかな芸で松竹演芸場を中心に活躍。浅草松竹演芸場では売れっ子の部類で、毎月のように出演していた。
賑やかな芸風を買われて、テレビ・ラジオや名人大会などにも出演、人気歌謡漫談グループに数えられた。
全盛期のメンバーは、みゆきとおる(ギター・没)、鐘下ひかる(ドラム・没)、ジャンボ叶(サックス)、池上健次(ベース)であった。
1975年6月頃、「鹿島伸とザ・トニーワン」と改名。この頃からお笑いの要素を薄め、殿様キングスなどの向こうを張って「コーラス歌謡グループ」を自称するようになったが、うまくはいかなかった。
歌謡漫談需要の低下やメンバー内の不一致、鹿島伸自身の事情もあり、1979年限りで「鹿島伸とザ・トニーワン」を解散。
同年11月末の松竹演芸場の出番が劇場に出た最後で、公のステージは巣鴨の「宝石」というキャバレーが、最後であったという。
その後は漫才界に伝手を求め、1980年夏に若葉茂と別れた春日富士松とコンビを組むこととなる。
1980年9月上席より、落語協会の色物として寄席に出演。ギターを持って高座に立ち、富士松の三味線に合わせる音曲漫才であった。
しかし、漫才師としての活動は短く、1981年7月限りでコンビを解消。
春日富士松とのコンビ解消後は古巣である浪曲漫談や歌謡浪曲へと戻った。協会には特に所属せず、フリーであったという。
晩年は糖尿病からくる白内障・緑内障により、失明をしたが、後に復帰を遂げる。
以降、闘病を続けながら、最晩年まで余興や演芸会に出演し、意欲的に浪曲を演じ続けていた。
最晩年、二代目が撮影したという歌謡浪曲がyoutubeに残っている。
最期は糖尿病との闘いの末体調を崩し、心不全で亡くなられたという。