今村寿三郎・有馬豊三郎

今村寿三郎・有馬豊三郎

兵隊漫才時代の二人

 人 物

 今村いまむら 寿三郎じゅさぶろう
 ・本 名 今村 留次郎
 ・生没年 1901年頃~戦後
 ・出身地 ??

 有馬ありま 豊三郎とよさぶろう
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

 来 歴

 今村寿三郎・有馬豊三郎は戦前活躍した兵隊漫才。オーソドックスな陸軍漫才を得意とした。今村寿三郎は兵隊漫才の大御所で50枚近い兵隊漫才のレコードを発表している。人気はあったが戦時中の弾圧で、寿三郎は社会漫才に転身した。

 今村の生年と本名は『陸恤庶發第二二七號 船舶便乗ニ關スル件申請』(1942年4月18日)に「今村壽三郎 今村留次郎 四一才」とある。 

 兵隊漫才としてのキャリアは古く、1930年代には活躍している。当初の相方は立花六三郎であった。 

 1931年12月、オリエントレコードより立花六三郎とともに『ナンセンス喜劇・朗らか兵隊』を発表。それから間もなくして六三郎と別れ、有馬豊三郎とコンビを組んでいる。

 豊三郎の経歴は不明であるが、こちらも1930年代から活動している。 

 1932年8月3日、JOBKより『漫劇・朗らかな兵隊さん』と称してラジオ放送を行っている。相方は有馬豊三郎。

 1932年12月、「朗らかな兵隊さん(うれしい手紙)」をツルレコードより発表。

 1933年1月、「朗らかな兵隊さん(上官の眼玉)」をツルレコードより発表。

 その後、有馬とのコンビを解消し、梅井門太郎という人物と組みなおしている。

 陸軍漫才で人気を集めたが、1934年9月に発表した漫才レコードが問題となり、漫才界初の製作停止処分を受けている。レコード検閲の法律ができて以来の初処分というあまり名誉ではないものである。

『出版警察報73号』(1934年10月)の中に――

(七) ツル、レコード(七一七八) 要注意 萬歳「兵隊ナンセンス前らかな兵隊」(斥侯の巻) 今村壽三郎・梅井門太郎吹込 
内容 要注意點 歩哨、斥侯其他軍の動務を話題とし、軍の税制、紀律を巫山戯たる調で取扱へり。斯の知きは、厳粛なるべき軍の勤務を愚弄し一般人をして軍に對し面白からざる與へる處ありと称せられ不穏當の趣あり。  
結果 従来、萬歳とか落語とかの中には、其の話術上興味を添ふる爲に、軍隊生活の一部を引用して面白可笑く取扱つたものはあったが、之等は孰れも諧謔の範囲を出でざるものとして不問に附されて居た。 然し乍ら、本レコードの内容の如きは、軍紀を嘲弄するあるを以て爾後の製作停止を命ずるを適當と思料し(製作停止)
本作が施行後發行のものにて処分を受けたる初のものである。

 その後は再び六三郎と行動を共にしていたようで、「立花六三郎・今村寿三郎」の名義でレコードを30枚近く吹き込んでいる。 

 それ以外にも「今村寿三郎・梅井紋太郎」「今村寿三郎・龍田清」というコンビでもそれぞれ兵隊漫才のレコード吹き込みを行っている。

 1935年頃には「イマムラ寿三郎」の名前でイチカワ昌三(勝昌介か)とコンビを結成。 さらに有馬豊三郎と今村は再びよりを戻してコンビを組むなど、転々としている。これはレコードの需要もあり、相方を特に定めずやっていた模様である。

 1935年12月にもテイチクから有馬豊三郎とのコンビで出した『朗らかな水兵・故郷の巻』『朗らかな水兵 ・甲板の巻』が出版禁止法に触れて発禁処分を受けている。

 日中戦争がはじまるようになると兵隊漫才も縮小の一途をたどり、レコード検閲はすさまじく厳しくなった。放送でも自粛がうたわれ、演じられる場所が寄席や余興以外でなくなってしまい、その寄席でも官憲のクレームをうけるようになった。

 厳しくなる検閲から逃げるように、寿三郎は兵隊の話題を薄めた『朗らかな佐渡情話』『朗らかな五十三次』といった作品をタイヘイレコードから6、7枚ほど発売している。

 一方の豊三郎は完全に廃業した模様である。

 太平洋戦争開戦前後になると、完全に兵隊漫才から距離を置き、妻の紅清子(本名・淺川清子。1907年頃の生まれ)とコンビを結成し、社会漫才に転身。

 浅草の劇場と軍事慰問を中心に活躍し、厳しい戦時中を乗り越えた。

 敗戦後も漫才を続投していたようで、「寿三郎・清子」で焼け残った舞台に出ていた。1950年頃まで活躍が確認できるが、その後の消息は不明。

 

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