東京漫才の発展と飛翔

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 その人気は舞台のみならず、新聞メディアにまで広がった。

 1935年12月24日、『都新聞』の一年の総決算をする記事では、第一に漫才の流行が取り上げられた。以下はその引用。

あさくさ・すうべにいる【上】
漫才全盛の跡を辿る
題材を近代生活に求めよ

今年の浅草を振返つて見て、先づ一番目に目立つた事は、漫才の勃興、隆盛であらう、實に今年漫才が勢ひを得てノシ上つた事には、我人共に驚くべきものがあつた、浅草の漫才をかう盛らせた原動力は、關西で漫才の元締を誇る吉本興行にある、吉本は去年その属する精鋭を引連て、試みに都心、新橋演舞場に出たところ、よく當つた、今春の同劇場興行も續いて當つた、この現象を六區に松竹座、常盤座、金龍館の三館を擁して常に何か新奇な掛物を望んでゐる松竹キネマ演藝部が何條看過しよう、五月に松竹座が一時空いたのを機に、その下旬十日間を、松竹特選漫才大會を開催した、勿論出演者は吉本の關西漫才に對抗してこれには属さぬ所謂關東漫才である、これが豫想外に當つた、初め當業者達は、六區に来る客は流動性を帯てゐるとは言へ、例へば松竹座ならば松竹座乃エノケンについてゐる客がある、そしてその客といふのは浅草で最もインテリ味を帯びてゐる層とされてゐる、その客のついてゐる小屋で漫才といふものをやつて果してどんな結果を得るかと疑惧を持つてゐたが蓋を開けるとそれは忽ち一掃して客は毎日座席を埋めた、そしてこれで「漫才は何と言つても關西が本場だ、關東方の漫才はどれだけ客を惹けるか」と言はれた言葉に對しても、關西の漫才は本場として、勿論これも結構、然し東京の客には、却つて関東方のシツコクない味に惹きつけられるといる話を實證した形にもなつた。これに氣をよくした松竹演藝部では、これを金龍館へ持つて行つて常打に演り、續いて八月下旬には再び松竹座で、今度は都新聞社後援の下に漫才コンクールを開いたがこれも勿論當つて、愈々漫才熱を煽つた、因みにこの時所定の審査員によつて選ばれた優勝者は、一等浪速シカク、同マンマル、二等春風枝左松、松平操、三等都路繁子、千代田松緑等である、松竹演藝部ではこの漫才大會の間に、講談、落語其他の藝人を集めて名人大會を開いたが、これも漫才には押されて成績は挙がらなかつた、一方かう漫才が盛んになると、昨日までは喜劇、レヴユウの舞臺に踊つてゐ者も、浪花節で師匠の湯呑を持飽きた者も、今日は忽ち變る漫才の太夫といふ工合に、漫才師は浅草に溢れる位になつたが、一時には六區の實演劇場、演藝場十五館に亘つて、或はこれを専門に、或は他の掛物の間に出すといふ全盛振りを示したから、この俵作りの漫才も困らずに消化して行つた位だ
ところでかう漫才が増えると中には相當如何はしいのも現れ藝では及ばぬから、エロ味でも行かうとする者もあり其他取扱ふ材料に就ても、相當其筋の頬を勤めさせるやうなのが出て来たので、當局では漸く取締に乗出した、これに周章てたのは當の漫才連中で、芝居などとは全く性質を異にして、當意即妙、變轉自在を生命とする漫才をそんな脚本検閲制度などで縛られては困ると騒ぎ出し、結局組合を作つて自制的に取締れば、といふ事になつて、ヤツサモツサを重ねた揚句九月十三日、目出度く帝都漫才組合の発會式を擧げた、これを機會に一層漫才熱を煽るために組合結成記念關東關西合同漫才大會を市内の大劇場に於て開催の計畫を樹てたが機熟さずか、今年中には實現を見ずに暮れる、これを以て最近漫才熱が下つたと言ふは當らないかも知れないが、多少飽かれ氣味になつた事は否めなからう、松竹の漫才の本城金龍館で、肝腎な松の内だけ漫才を休んで壽々木米若を掛けるのが此間の消息を物語るものだといふ見方をする者もあるが、兎に角漫才にとつては今が緊褌一番の秋らしい組合結成の前後にも漫才は皆個人主義的で不可ないといふ非難があつた、土臺漫才は舞臺に於ても自分だけを考へて他との掛合ひを考へないから漫才全體としての効果を滅ぐ事が多い、よく引合ひに出されるエチオピヤにしても、持出す本人は面白がつてやつてゐても、出る者も出る者もエチオピヤでは聴く方でウンザリ、自分の組だけのつもりでエチオピヤを持出すといふ事のほうが漫才よりも餘ツ程可笑しい、それから揚足取りばかりにギヤグを求めずに、もつと内容的に取扱ふ題材も近代生活に触れさせなければならないといふ話にも耳を傾けるべきだらう、とまれ漫才連は時代といふものと漫才全體といふを事考へて行動する事、先づ来年は前に書いた記念大會でも早早に開いて、一段と漫才熱を煽つてから、更に前進こそ望ましい

・帝都漫才組合の結成

 1930年代初頭より、漫才師の数が激増。それに伴い、漫才師間の協力や情報交換の場が必要になった事。また、検閲上の問題も増えた事により、官憲や興行社などから芸人団体の発足が要求されるようになった。

 しかし、芸人や興行社の言い分がそれぞれ異なっていた事もあり、協議は難航。協議と挫折を繰り返す事となった。何とか形になったのは、9月の事だった――という所をみても、さぞこじれた事であろう。

 1935年9月、帝都漫才組合が発足。はじめて東京漫才は一つにまとまった。以下は『都新聞」』(1935年9月14日号)に掲載された幹部一覧。

日時 昭和十年九月十三日 

午前九時 場所 浅草松屋 六階演芸場

・組合長 大久保 源之丞(東京府会議員)
・会 長 林家 染団治(漫才師)
・理事長 渡辺 正巳
・相談役 林 弘嵩(吉本興業) 川口 三郎(松竹芸能)

・代 表(興行社)

小山 喜一郎 大森 保 町田 梅太郎 宮澤 虎彦 松留 幸太郎
戸張 鐵太郎 沼田 次男 古川 彬高 外村 禮文 山田 剛

・代 表(漫才師)

都家 福丸 大道寺 春之助 千代田 松緑 大朝家 五二郎 立花家 六三郎 日本 チャップリン 中村 直之助 天野 操 玉子家 源一 朝日 日出丸 川路 紫郎

発足時会員 八十餘組、百六十数名

この発足後も会員は続々と増え、1935年末の記録では、「昨年の末限定で九十九組」と発表された(『都新聞』1936年1月27日号)。

 年も改まった1936年初頭、発会を記念して、明治座で漫才大会を行うことが決定。当時としては破格の公演で、『都新聞』はこれを大きく報じた。

帝都漫才組合 結成大會 下旬明治座で、
關東方の漫才を打つて一丸として去年の秋結成した帝都漫才組合が市内大劇場で結成記念漫才大會を行ふべく計畫中の事は既報したが愈々今月下旬廿六日から四日間、明治座に於て華々しく開催される事に決定した、組合内で出場漫才の銓衡及び諸般の準備に當つてゐるが、選ばれてこの舞臺に上る漫才は約十五組の予定である

『都新聞』(1936年2月19日号)

 それから間もなくして披露大会に出演する漫才師たちが『都新聞』に掲載された。そのメンバーは当時の人気者たちで、大顔合わせに相応しいものであった。

▲帝都漫才組合結成披露大會 廿六日より一日まで明治座に 

出演者は 春之助、逸朗、道太郎、樂三郎、染太郎、染二郎、一丸、源一、シカク、マンマル、日出夫、日出丸、〆駒、五二郎、とん子、二郎、喜千代、松緑、紫郎、ポンチ、〆葉、八重子、小芳、繁子、香津代、福丸、百々龍、勝之助、左枝松、操、祐十郎一座

『都新聞』(1936年2月21日号)

 しかし、初日の26日は休演という憂き目に遭遇。理由は至極簡単で、青年将校が高橋是清や斎藤実を血祭りにあげ、クーデターをおこした「226事件」の余波と警戒令を受けて、であった。

 そんなトラブルこそあったものの、3日間の公演は成功に終わり、大きく前進したかと思われたが、公演終了後間もなく、出演メンバーに選ばれなかった者や組合のやり方に反撥する者たちの間で揉め事が起こり、たちまち内紛となってしまった。

 その内紛や怒りの事情を『都新聞』(1936年3月2日号)は右のように伝えている。

 帝都漫才組合が、昨秋結成以来の宿願叶つて廿七日初日(廿六日は休演)で明治座に開いた組合創立披露公演は生憎の戒厳令下で(註・廿六日に二・二六事件が勃発)客足が阻まれたのは残念とされてゐるが、それはそれとして、幸先よかるべきこの披露公演を機として組合内に内紛が怒り近く建直しになるかも知れない模様である、この原因は、この披露公演に、晴れの大舞臺を踏むべき組合員の人選に就て組合當事者が一般組合員に諮るつて公正な詮衡を行はなかつたといふにあり、これに就て組合當時者はこれは三、四月頃の開演の豫定が、明治座を得て邉(にわか)に早まつたゝめ総會を開いて廣く諮る時日が無く、止むなく先づ理事者選で選んだ三十組の候補中から、大久保組合長等が今度の十五組を選定したもので、この措置に就ては非難を受くべきものではないとしてゐるやうだが、一方この披露公演に、大舞臺を踏んだ踏まぬは名前を重んずる藝人にとつて、今後の舞臺生活に相當の影響ありとなすのは尤もな次第で、然るが故に公選によらない今度の詮衡に洩れた多数の者はこれに組合員外の漫才連も加はつて寄々協議の末決議文を作つね組合當時者に突きつけた

『都新聞』(1936年3月2日号)

 関係者は沈静化を図ろうと、以下のような条件を出した。

これに始まつて組合當時者と代表委員との間に於て数次に亘る会見折衡が行はれたがその結果大體左の條項によつて妥協を見出し、この披露公演が終つた後具體化を見る事になつた、それは今回の出演者を月組とし、續いて雪組、花組の出演者による第二回、第三回の披露公演を可及的速かに催して、披露公演出演者の偏頗を除く事、役員の総改選を行ふ事、第一回公演の會計を明かにする事等である、これ等は概ね、この披露公演が終つた直後に開かれる筈の組合総會で實現が期せられる筈だが、帝都漫才組合は當初漫才検閲問題に端を發して警視興行係當局の聲掛かりによつて生れたものであると言ひ條、昨年結成以前からいろ/\波瀾もあつたもので、今度の建直しものの程度に實現するか未知数だが、第一回披露公演を中にしてまたこの紛議は困つたものであるとの聲も一方に高い

『都新聞』(1936年3月2日号)

 しかし、第二回公演や改選の話は有耶無耶になってしまい、話はこじれてしまった。

 1936年3月、ついに脱会者を多数出してしまった。以下は『都新聞』(1936年3月11日号)に掲載された脱退を報じる記事。

遂に爆発!
帝都漫才組合に―― 脱退者相次ぐ
憤怒組相寄つて新團體結成か 組合側頗る冷静

二月下旬明治座に開かれた創立披露公演を巡つて揉めてゐた帝都漫才組合は、公演終つても事態収まらず遂に多数の脱退者を出して却て悪化するに至つた、即ち今度の公演に關し出演者の人選其他に就て、組合當事者の執つた處置を難じて起つた所謂不平組は其後組合當事者と種々接衝したけれどもその措置誠意は認るべきものなしとして、遂に同志四十餘名が連名にて脱退書を突きつけるに至つたもので、この脱退組は新たに漫才組合を作るべく密かに工作を行つてゐる、この實行委員は大和家貞夫、冨士五郎、同十郎、千歳家今助、朝日日出若、笑福亭茶福呂、寶家小坊、常盤楽山、三遊亭福助、市山壽太郎で、これに理事としてただ一人の脱退者日本チャップリンを加へて行く模様であり事務所は目下のところ定まつたものはないが、大體大和家貞夫が連絡の中心となつて計畫をすすめている

 この脱退した組は対抗して『日本漫才協会』を設立したものの、これも間もなく内紛が起き、自然消滅。一部は組合に戻り、一部(冨士五郎・十郎など)は漫才組合に参加しなかった東喜代駒を担ぎ上げ、『漫才新興連盟』を設立。脱会した叶家洋月や桂喜代楽などはここに納まった。

 幹部と目された日本チャップリン、大和家貞夫、笑福亭茶福呂などはフリーを通した模様である。

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