大當り・帝劇関東漫才大会

大當り・帝劇関東漫才大会

 

 敗戦後、衰退していた東京漫才を救ったのは、1952年頃より勃興し始めた民間放送の樹立による演芸番組の増加、それに1953年1月25日に行われた帝国劇場の漫才大会であった。

 この二つの現象は、一時は「滅亡する」とまで噂された東京漫才の衰退を見事にはねのけ、返り咲きを宣言する、復興の象徴であった。

 中でも帝国劇場の漫才大会は、進駐軍の占領終了の年という事だけあって、非常に記録的なものとして、今日に伝わっている。

 以下は松浦善三郎が『アサヒ芸能新聞』(1953年2月3週号)に寄稿した『帝劇の関東漫才大会』の記事。これが、この大会の様子と熱狂を物語っている。

 終戦後初の関東代表的漫才大会を一月二十五日帝劇に於て親る。

 大体もっと早く松竹でやる可きであったろうに、松竹でやる気があるのか無いのか判然としない内にこゝ一年ばかりの民間放送と謂う他力で落語、漫才等すっかり復調して其の主だった連中がどこかで大会をやりたくてムズ/\しているその気運を、ケイガン秦豊吉氏に察知されて帝国劇場で開催と云う手を打たれた形。只の関東漫才大会だと思って行ってみると、なんと第十二回東宝名人大会と流用されている。之は東宝のヒットで松竹としてはエラー。こまかい興行的のデーターはもとより推り知る処でないが、行ってみて驚いた。

 入場券は当日の午前十時迄に全部売切れ。タカをくくって夕方五時に帝劇に到着した小生は切符が無いので、当日売り口にねばって、他の二三十人の人々とやっと補助席巻を買い得た始末。(因みにダフ屋の売っていたのは三階で一枚五百円と云っていた)。

 六時五十分ミチロー・ナナがザラで登場して開幕。出番の順に感じた儘を書くと――ミチロー・ナナ、相変らずと云う(十七分)。染団治・美貴子は、トリネタのゴリラが相変ずウケテいて、染団治依然快調を思わせる(二十五分)。 ヤジロー・キタハチは紺色の上衣がライトの加減で色が冴えずボヤケて見えて非常に損 。裾のシワ、ズボンのシミ等衣裳に気に掛る点二三あり。前の染団治が和服のキリっとした処であった丈にサム/\した感じ。特に勉強の気配も見えず、この日の下位点数(十四分)英二、喜美江は例によって喜美江で持つ舞台。喜美江の弾き語りでこの日はじめて手がなる(十五分)。中入後今夜は一回も「旅 なれて居りやすから」を云わなかった亀造・菊次。当日は一番のウケ。菊次が何時に似はゝぬの白塗りで美江に負けず美人に見えたのは妙。亀造は語り口から見てどうしても和服をすゝめる。面倒くさがらずに?紋付羽織にする可きだと思う。(十八分)。つづいて一路・洋容、これも何時と変らぬネタ。濃青ビロードのワリドンにこのコンビの白っぽい背広は極めてマッチして、ヤジロー・キタハチの場合と違ってクッキリ浮び上って絶。洋容のボケに女性の笑声しきり(十五分)。一歩がカゼで体んで道雄があやまり口上を四十秒。おたがいの弁用だから倒れて後止むを本望として休んではいけない。フアンお待ち激ね?の栄龍・万龍。之もネタは古く愛染かつら。万龍が熱演したが爆笑とまではいかなかった(二十二分)。トリは司会者が「ヨコヅナ」と紹介した千太・万吉。本格的立体の味を満喫させて十三分の舞台ーという次第。

 総評すると、好きで一階前方(帝劇の指定席)に位置した客は笑わなかった。各出演者がとりたて新たらしいネタをふらずに、大小をとった ものが旧来のハコに入ったネタでやっていたせいか。喜美江に菊次はさすがに立派で、舞台に一つの風格を備えているかの如くに見えたが、美貴子と栄龍は若いせいもあるが歌舞伎俳優がかなんぞの様にシャベリの都度、目と口を徒らに動かして反って下品。 

 司会者の桜井長一郎は別にとり立てる事は無いが、紹介の途中で「オマンザイ」と云ってわざと笑わせ様としたの はイタゞケ無い。漫才をボオトクし客を馬鹿にしている。要猛反省。この種大会には可会者は不必異だが、アプレの お客さんもいる事であるし、何事にもセレモニーばやりで あるから司会者を置くのは劇場のサービス受け取っても良いが、それなら今度の様な場合、いわゆる司会者屋さんでなく、例えば漫才の大津一万君あたりを煩わせて出演者の紹介をさせた方が味がある。歌謡曲の司会と色物の司会と同じに扱わせるのは主催 者のミス。

 懸念していた青年層は男女共相当の数を見せていたし (女性が断然多い)、学生(制服の大学生)の姿も大分あった。

 亀造のネタの中に「歌舞伎座の芝居」が出て来る、万龍は松竹映画「愛染かつら」をテーマにするで、別に構えずして松竹のにおいが出て来 る。然も之が東宝名人会と銘打たれているのだから奇妙。休憩廊下で百面相の波多野君に会ったが、彼も「どうして松竹がやらないのですかね ー。この盛況なら歌舞伎でやっても大丈夫ですがね」と嘆いていた。全く同感だが帝劇でこう先を越されては松竹として二番やれるかどうか。

 ともかく戦後初のこの関東漫才大会は一応成功とみる。帰路、劇場から流れて有楽町駅で切符を買う人達をみていると、小岩、赤羽、王子、高円寺、目蒲線の○○と全都から来ている事が物語っている。

 上記の寄稿には、観客数については触れられていないが『漫才世相史』などによると、定員1300人のところ、1500とも2000ともいう群衆が押し寄せたというのだから、まさに象徴的な事件であったのは間違いない。

 ちなみに入場料は、150円だったそうである(『漫才世相史』より)。

 観客の中には、松浦善三郎、波多野栄一以外にも、小島貞二、リーガル天才・秀才、コロムビアトップ・ライト(これは確定ではないが)など、演芸界を担う事となる面々が一堂に介したという。中でもリーガル天才・秀才(当時は曾我天才・坂東秀才)は、此の熱狂ぶりと千太・万吉の卓抜した話術に触れて、「漫才でもやっていける」と自信をつけたという。

 小島貞二は『東京漫才のすべて』の解説書の中で、南道郎・国友昭二が前座で出た――というようなことを記載しているが、これは何かの勘違いであろう。

 この成功を目の当たりにした幹部たちは、東京漫才の更なる復興と人気上昇を模索するようになり、漫才師になる夢を描いていた若者やまだ海のものとも山の物ともつかぬ若手たちは、大手を振るって漫才界に参入し、一層の東京漫才人気と勃興に一枚噛むところとなったのであった。

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