有馬豊三郎・今村寿三郎

有馬豊三郎・今村寿三郎(左)
人 物
有馬 豊三郎
・本 名 有馬?
・生没年 ??~??
・出身地 ??
今村 寿三郎
・本 名 今村 留次郎
・生没年 1901年頃~??
・出身地 ??
来 歴
戦前の兵隊漫才の大御所の一人。立花六三郎の初期の相方であり、自身も兵隊漫才の大御所として売れた。
生年と本名は『陸恤庶發第二二七號 船舶便乗ニ關スル件申請』(1942年4月18日)より割り出した。
「陸恤庶發第二二八號 船舶便乗ニ關スル件申請」 昭和十七年四月十八日
一、復航 昭和十七年五月下旬 上海發 宇品行
中支派遣慰問團員表(拾名)
種 目 藝 名 本 名 年令
團長 司 會 熊倉雄三 仝 上 三三
歌 手 藤原亮子 仝 上 二八
アコーデオン 尾崎肇 長渡肇 四〇
一人トーキー唄、踊 田村淑子 鈴木文子 二八
小唄長唄伴奏 杵屋恵津鶴 中根うめ 四二
浪 曲 新井正 荒井正金 三二
曲 師 吉川福之助 鈴木伊太郎 五七
漫 才 今村壽三郎 今村留次郎 四一
右 同 紅清子 淺川清子 三四
舞 踊 花柳壽文 青柳芳子 一九
兵隊漫才としてのキャリアは古く、1930年代にはすでに名前がちらほら見えるようになる。
1931年12月、オリエントレコードより『ナンセンス喜劇・朗らか兵隊』を発表。相手は立花六三郎。
六三郎相手でも『朗らかな兵隊・営内の巻』『朗らかな兵隊・新兵のろけの巻』『朗らかな兵隊・新兵演習の巻』『朗らかな兵隊・馬小屋の巻』『朗らかな兵隊・夢の巻』『朗らかな兵隊・浴場の巻』『朗らかな兵隊・艦上の巻』『呑気な兵隊さん』といった数がある。
1932年頃より有馬豊三郎とコンビを組みなおした。ただ、レコードでは立花六三郎と行動するなど兵隊漫才特有の厄介さを見せている。
有馬豊三郎の経歴は不明。
1932年8月3日、大阪放送より『漫劇・朗らかな兵隊さん』と称してラジオ放送を行っている。将校役は有馬豊三郎、二等兵は今村寿三郎。
1932年11月20日、全国放送で漫劇『のんきな兵隊』を放送。
この後間もなくコンビを解消したらしく、有馬は行方が分からなくなる。今村は兵隊漫才の大御所として再び相方を転々として活動を続けた。
それ以外にも「今村寿三郎・梅井紋太郎」「今村寿三郎・龍田清」というコンビでもそれぞれ兵隊漫才のレコード吹き込みを行っている。レコードの数を合わせれば40、50枚近くに上るのではないだろうか。
さらに、1935年頃には「イマムラ寿三郎」の名前でイチカワ昌三(勝昌介か)とコンビを結成。
1935年から1936年にかけて『朗らかな佐渡情話』『朗らかな五十三次』といった作品をタイヘイレコードから6、7枚ほど発売している。
しかし、日中戦争がはじまるようになると兵隊漫才も縮小の一途をたどり、今村寿三郎も兵隊漫才の自粛を余儀なくされた模様。
戦時中は梅井紋太郎と組んだ『兵隊ナンセンス朗らかな兵隊』(ツルレコード)が生産中止に追い込まれ、他のレコードも自粛になるなど苦難を味わっている。
その後は兵隊漫才から距離を置き、妻の紅清子(本名・淺川清子。1907年頃の生まれ)とコンビを結成。浅草の劇場、軍事慰問での活躍が確認できる。
敗戦後も漫才を続投していたようで、「寿三郎・清子」の名前を戦後の東宝笑和会、演芸会などで見かけることができる。

