美奈登小雪・艶子

美奈登小雪・艶子

小雪・艶子の貴重な漫才時代の写真

 

 人 物

 美奈登みなと 小雪こゆき
 ・本 名 北詰 由起子
 ・生没年 1925年9月30日~2005年8月8日
 ・出身地 茨城県 谷田部町

 美奈登みなと 艶子つやこ
 ・本 名 ??
 ・生没年 1925年~1985年以降
 ・出身地 茨城県?

 

 来 歴

 小雪は三波春夫の愛妻であり、プロデューサー。そして三波豊和、美夕紀の母親として知られる。由起子が正しいようであるが、詳細は不明。この項目執筆にあたり、三波美夕紀氏のご教示が非常に役立った。ご協力ありがとうございます。

 その前歴は、娘の三波美夕紀が執筆した『昭和の歌藝人 三波春夫』に詳しい。以下は、小雪の前歴に関する一文。

「藝が命!」のゆっこさん

  野村ゆきは、茨城県筑波郡谷田部町(現・つくば市)の生まれ。母親は出産のときの後産の肥立ちの悪さが原因で、ゆきが三歳のときに死去。父親は、そもそも結婚に反対だった実家に引き戻されてしまったので、仕出し屋を営む祖父母に引き取られました。その後、「この子には、手に職をつけさせれねば」と考えた祖父母によって、八歳になったときに祖母の弟夫婦に預けられました。この大叔父は、歌舞伎舞踊をはじめとする演藝の、五〇人の座員を抱える「港家演藝団」という劇団を持っていたのです。“太夫元”という呼称のオーナーであり、興行師でもありました。
 そこでゆきは、生きてゆくために三味線、鳴り物、舞踊、漫才などあらゆる藝を習得しました。手に職というより身に職、でした。初舞台は九歳。一六歳で花形になりましたが、身内が運営する一座とはいえ、親のいない子どもがそこに到達するまでは苦難の連続。叩かれて、叱られて、藝を覚えながら旅公演を回る毎日。藝を身につけ成長したら、今度は一座の中のポジションをとられまいと敵が増える、そんな生存競争を生きました。
「根性も生き方も、悪くなろうとしたらいくらでも悪くなったでしょう。泣く親がいるわけじゃなし、って。でも、ちっともグレようなんて思わなかった。曲がったことをしたらお天道様に申し訳がない。 負けちゃならない、うまくなろう、一人前になろう。それしか思わなかったのよね」と、のちに話しました。
ゆきの藝名は港家小雪。戦時中は慰問団の一員として礼文、樺太から満州まで回りました。戦後は松竹系の人として、浅草を中心にたくさんの仕事をしました。
女流漫才の「内海桂子・好江」の好江さんのご両親は、荒川小芳・林家染寿という夫婦漫才でした。 ひさは仕事場でご一緒していて、好江さんは幼いころから「ゆっこ姉さん」「ゆっこさん」と呼んで慕ってくれました。ゆっこさんの踊りも三味線も好きだし、強気だけれど優しくて、面倒見がいいところも好き。
そのゆっこさんが、“浪花節”と一緒になるらしい(=浪曲の人と結婚するらしい)と聞いた。結婚という二文字がまったく似合わない、「藝こそ命!」のような姉さんが? ほんとに? どんな相手なんだろう……。
程なくして、ゆっこさんが婚約者を紹介してくれるという仕事場を訪ねることになりました。 「この人なのよ」と紹介されて対面したら、いきなりその文若という人が、 「好江さん! 日本国民は全員、幸せになる権利があるんですよ!」
と。
「思わず身体が、つんのめったわよ」 と、後年に述懐なさっていました。 この対面は昭和二七年のこと。文若はまだ、シベリア帰りの匂いが取り切れていませんでした。

幼い頃から芸道を仕込まれたこともあってか、芸達者で知られており、三味線の腕は特に高かったという。『立川談志遺言大全集 第十四巻』の中に、

 三波春夫が南条文若時代に、女房が三味線を弾いていたのを覚えている。その女房が弾き終わると、今度は己の舞台に出ていたっけ。確か、「美奈登小雪・つや子」という漫才であった。

とあるが、すぐに浪曲三味線に転向できるだけの才能と勘を有していた模様である。

その才能から多くの先輩に可愛がられたそうで、澤田隆治氏が小雪本人から聞いた話によると、「三亀松氏に可愛がられた、柳家三亀松の弟子というふれこみで、売り出したそうですわ」。『昭和の歌藝人 三波春夫』の中でも、

 柳家三亀松さんという俗曲・三味線漫談の名人も、ゆきに何かと目をかけてくれました。
「何だって? 浪花節と一緒になるって?」
 どんな奴かと心配なさり、
「どれ、一度そいつの舞台を観てやろうじゃないか」
 ある日の文若の口演を客席でじっと聴いて、ゆきに言いました。
「おい! こいつは化けるかもしれねえよ。お前の持っている藝を全部、教え込むといい」
 信望する名人のこの言葉を、覚悟の礎としようとゆきは決めました。一度決めたら絶対に迷わない 「この人は、一本道を走り始めました。思えば、三波春夫が亡くなるまで走り続けたのでした。

 という逸話が紹介されているのをみると、古くから付き合いがあった模様。

 戦前、港家一座の同僚であった女性とコンビを組み、「港家小雪・艶子」を結成。1944年の松竹演芸場に出ている記録があるので、それ以前には組んでいた模様。

 艶子の経歴には謎が多いが、美夕紀氏に手紙で問い尋ねたところ、「血縁関係ではない」とのことで、小雪と同い年であるが、一座入団は小雪より遅く、先輩後輩の関係であったという。三波氏曰く「小雪は憧れの先輩」だったそうで、芸の傍らで付き人も兼任するなど、非常に親しい関係だった。

 戦時中は浅草に住んでいたらしく、内海好江一家と面識があったらしい。『落語』(第27号特大号)の『内海桂子・好江にきく帝都漫才華やかな頃』の中に、

 好江 私は田島町に住んでましたが、私の両親が出番のない日でも「コウちゃん(小芳・本名栗田好太郎)、ちょっと穴があいちゃった。頼むよ」といわれて、よく出て行っちゃったのを子供心に覚えてますよ。
 桂子 下の家は自転車屋でも二階は漫才師が住んでいるといったぐあいね。
好江 この間、三波春夫さんの奥さんにお会いしたら「あなたの小さいころを知っているからなつかしい」といわれました。港家連の中の一人で、私の家の二階に住んでいたそうです。

 戦後、美奈登小雪・艶子と改名した模様か。寄席や巡業などで、貴重な女流漫才として活躍。

 1952年12月、小雪は三波春夫と結婚。以来、オシドリ夫婦として寄り添う事となった。

 1955年の漫才研究会発足時には会員として参加し、結成記念大会にも出演しているが、1957年に文若が「三波春夫」と名を改めた前後で漫才界から足を洗い、夫の後見役兼マネージャーに転身。三波春夫事務所の設立や売り出しに奔走した。

 以来、スターロードを駆け上り、国民的歌手としての地位を得た三波春夫のよき相談役として、共同者として、妻として、手腕を発揮した。時には三波春夫を強く叱責するなど、良き相談者でもあったという。

 一方の艶子は、小雪とともに引退し、三波家のお手伝いさん兼マネージメントとして活躍していたそうである。三波美夕紀氏によると、三波春夫が国民的歌手になるに従い、マネージャーであったゆきも、三波に付いて地方の仕事に行くことが多くなったため、家の留守を預かり、お手伝いさんや運転手等をまとめるリーダーとして活躍。豊和、美夕紀の面倒を見、三波家を陰で支え続けた。

 艶子は60歳を前に一線を退き、故郷の妹弟の許へと戻っていった。その後は市井の人として静かに暮らしたという。

 一方、小雪は2001年に三波春夫が没するまで、その傍に寄り添い、国民的歌手を支え続けた。夫亡き後は権利や遺品などをよくまとめ、夫の顕彰に努めていたが、2005年に夫の許へと旅立った。

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