立花六三郎

立花六三郎

北村榮二郎・立花六三郎(右)

 人 物

 立花たちばな 六三郎ろくさぶろう
 ・本 名 征矢 喜久治
 ・生没年 1895年~戦後?
 ・出身地 関西

 来 歴

 立花家六三郎とも。東京漫才における兵隊漫才、兵隊コントの大御所。北村榮二郎とコンビを組んで、一世を風靡した。そのくせ謎が多い。

『毎日年鑑 1940年度版』から本名と年齢を割り出した。

 前身は落語家だったというが、詳細不明。橘ノ圓の弟子だったのではないか――という説があるが判然としない。

 ただ後述するようにタイヘイレコードなどから出したレコードの名義が「新落語」であること、長らく柳家金語楼や吉本と関係を持った点を踏まえると、やはり落語家であったのは間違いないようだ。元々は大阪で活動していた模様か。

 1930年代前半より兵隊漫才として活動をはじめる。

 当初は大阪を拠点にしていたそうで、『芸能懇話第十九号 特集続・法善寺の花月』(平成20年8月31日)の花月の顔ぶれの中(13頁)に「一九三一年七月三十一日より 紫郎六三郎」とある。

『上方落語史料集成』をみると、

三十一日より

△南地花月 鶴二、小雀、源朝、おもちゃ、九里丸、三木助、直造、エンタツ・アチャコ、紫郎・六三郎、勇・清・クレバ。余興「死刑囚」(千橘・アチャコ・五郎・三木助・蔵之助・エンタツ・春団治・延若・染丸・福団治)、「放送室」(九里丸・小春団治・円馬・静子・秀次・小秀・光子・お龍・弓子・文子・春団治・千橘・蔵之助)、「三都行進曲」(春団治・小春団治・蔵之助・福団治・染丸・千橘・エンタツ・アチャコ・静代・橘子・弓子) 

 相方は川路紫郎という男。

 8月21日より南地花月に出演。

△南地花月 枝右衛門、小雀、升三、一郎、直造、十郎・雁玉、紫郎・六三郎、五郎・雪江、清・勇・クレバ。余興「道頓堀行進曲」(弓子・静子・登美子・五郎・枝鶴・福団治・千橘・小円馬・枝雀・鶴蔵・金の助)、「三人舞踊」(文子・五郎・延若・お龍・枝雀)、「国定忠治」(円馬・五郎・円枝・三木助・蔵之助・千橘・延若・枝雀・福団治・花治・捨六・柳昇・枝鶴)、「極東大会」(三木助・千橘・静子・鶴蔵・冨美子・弓子・蔵之助・花治・光鶴・五郎・金の助・円馬・枝雀・円枝・福団治・枝鶴)、「お国自慢」(東京─枝鶴・鶴蔵・静子、高野山─福団治・千橘・枝雀、鹿児島─円馬・円枝・五郎、大阪行進曲─三木助、箱根─延若・福団治・蔵之助・枝雀、仙台─女連、京都─五郎・千橘・延若・花治、□□─小円馬・柳昇)

 9月1日より、新京極富貴。不思議なもので、当時東京漫才のホープとして売り出していた大道寺春之助・天津城逸郎が出ている。

△新京極富貴 円馬、延若、円枝、三馬、助六、三八、正光、直造、アチヤコ・エンタツ(兵隊漫才)、六三郎・紫郎、(スポーツ小万歳)、逸郎、春□助、筒井徳二郎(欧米漫談)。

1932年3月には早くも東京の地で兵隊漫才の看板を掲げており、『都新聞』の中に、

▲帝京座 一九日よりきらく會諸演藝會顔触れを全部改め、セルビアンアポロ舞踊團及び新蝶、六三郎等の兵隊萬歳加入

 というような記載を見つける事が出来る。

 以来、東京漫才として定着。東西を行き来する生活を送るようになった。この頃にはもうすでに吉本専属だった模様である。

 この前後で北村榮二郎とコンビを結成。名コンビとして10年近くに渡って活動をするところとなる。

 1933年3月、タイヘイレコードより『朗らかな兵隊』を発売。

 5月、タイヘイレコードより『新落語・のらくら新兵』を発売。

 7月、タイヘイレコードより『朗らかな学生 失恋の巻』を発売。

 8月、タイヘイレコードより『朗らかな学生』を発売。

 8月中席、南地花月に出演。

△南地花月 小雀、重隆・武司、勇・清・クレバ、紋十郎・五郎、栄三郎・六三郎、染丸、九里丸、春団治、小奴・天英、喬之助・三木助、エンタツ・文子、柳橋、三亀松、枝鶴。余興「二人羽織」(花菱・梅好)、「三人舞踊」(三木助・五郎・延若・福団治・喬之助・紋十郎)。

 9月、タイヘイレコードより『のらくら新兵』を発売。

 10月、タイヘイレコードより『新落語 朗らかな學生(三原山探検)』。

 11月、タイヘイレコードより『朗らかな兵隊 出征の巻』。

 12月、タイヘイレコードより『朗らかな兵隊 下宿屋の巻』。

 レコードの吹込みの傍ら、東京吉本の進出に伴い、神田花月などに出演するようになる。

 1934年2月、タイヘイレコードより『朗らかな放送 昼間の巻』を発売。

 3月、タイヘイレコードより『朗らかな学生 花嫁さがしの巻 前編』を発売。

 4月、「第1回特選漫才大会」(漫才という言葉を広めるキッカケとなった公演)に、林家染團治や柳家金語楼などと共に出演。名実ともに看板の漫才師となった。

 7月、タイヘイレコードより『浅草見物 上の巻』を発売。

  8月、タイヘイレコードより『浅草見物 下の巻』を発売。

 9月、タイヘイレコードより『朗らかな学生 花嫁さがしの巻 後編』を発売。

 余興的に演じられていた兵隊漫才を一つのジャンルとして確立したのは大きな功績で、戦前の東京漫才へ彩りを加えた。その事は『大衆芸能資料集成』の中でも触れられており、

東京の立花六三郎・北村栄二郎のコンビは”陸軍もの”で売った。栄二郎が上官、六三郎が兵隊で、こちらは「朗らかな兵隊シリーズ」で、「手紙の巻」「洗濯の巻」「学科の巻」などがあった。リーガル千太・万吉にも、同様の”兵隊ネタ”があり、千太は「六三郎・栄二郎より、あたしたちのほうが古い。ネタもあたしたちのものを彼らが真似たんだ」といつていたが、どのみち根は金語楼の”兵隊落語”にかわりない。それを専門にやったところに六三郎・栄二郎のしたたかさがあった。

 と、ある。

 12月4日、JOBKの『漫才大会』に出演。芦の家雁玉林田十郎 『頓珍漢揃ひ』、立花六三郎・北村榮二郎『漫画の国の兵隊』

 1935年1月、タイヘイレコードより『朗らかな兵隊 出征の巻』を発売。

 同月、大阪へ上り、南地花月の中席・下席に出演。

中席 △南地花月・北新地花月倶楽 蔵之助、円若、春団治、六三郎・栄二郎、柳亭春楽(声色百種)、三木助、石田一松、結城孫三郎一座、雁玉・十郎、篠田実、文雄・静代、一光、伯龍、徳川夢声(漫談・初出場)、エンタツ・エノスケ、九里丸

下席 △南地花月 川柳・花蝶、千橘、九里丸、染丸、六三郎・栄二郎、春楽、春団治、エンタツ・エノスケ、マーガレツト・ユキ(七歳少女)、結城孫三郎一座、ろ山、雪江・五郎、三木助、石田一松、枝鶴、一光

 2月中席、福島花月・新京極富貴に出演。

△福島花月 文治郎、九里丸、円枝、千橘、エンタツ・エノスケ、雪江・五郎、六三郎・栄二郎、柳枝・一駒、光月・藤男他。

△新京極富貴 三馬、次郎・源吾、文治郎、扇遊、柳家金語楼、雁玉・十郎、一龍斎貞山、五郎・紋十郎、左楽・右楽、染丸、一光、蔵之助、結城孫三郎一座、春団治、六三郎・英二郎

 3月上席、北新地花月出演。

△北新地花月倶楽部 小円馬、馬生、石田一松、染丸、六三郎・栄二郎、神田山陽、九里丸、千橘、柳枝・一駒、三木助、エンタツ・エノスケ、文治郎、扇遊、春風亭柳橋、アチヤコ・今男

 帰京後、帝都漫才組合発足に携わる。漫才側の代表者として名を連ね、日本チャップリン都家福丸などとともに、幹部となった。

 1935年7月15日放送予定であったにも関わらず、行政より放送中止が命じられた。『NHK戦時海外放送』の中にも、

 七月十五日、北村栄二郎、立花六三郎による漫才「士官と兵卒」は「依然中止」。話の筋は、滑稽な兵士が上巻の忠告、質問に突拍子もない返事をしたり、「忘れました」を連発するのだが、陸軍の「名誉」を棄損したとでもいうのか。最後は「満州に働く皇軍の苦心を偲ぶ」のだが。

 とある。それでもレコードや舞台では依然として人気があった。

 10月1日より、大阪の南地花月・北新地花月を掛け持ち。相当な人気である。

△南地花月 小雀、竜光、千橘、市松・芳子、五郎・紋十郎、柳枝・一駒、幸児・静児、円枝、川柳・花蝶、春団治、アチヤコ・今男、三木助、六三郎・栄二郎、柳家三亀松、林家正蔵、エンタツ・エノスケ

△北新地花月倶楽部 せんば、円枝、小松月・美津子、染丸、松鶴、アチヤコ・今男、三木助、六三郎・栄二郎、五郎・紋十郎、三亀松、円馬、エンタツ・エノスケ、市松・芳子、春団治、幸児・静児、正蔵

 11月上席も南地・北新地を掛け持ち。

△南地花月 小雀、竜光、染丸、小松月・美津子、千橘、栄二郎・六三郎、春団治、円馬、川柳・花蝶、扇遊、小文治、雪江・五郎、松鶴、アチヤコ・今男、九里丸、三木助、文雄・静代。

△北新地花月倶楽部 せんば、馬生、文治郎、成三郎・玉枝、五郎・紋十郎、雪江・五郎、小文治、アチヤコ・今男、千橘、九里丸、円馬、川柳・花蝶、松鶴、栄二郎・六三郎。

 12月も上席は、南地。中席は北新地、下席は京極富貴と掛け持ちが続く。

上席 △南地花月 小雀、小松月・美津子、アダチ竜光、千橘、呉成錬・松子、円馬、右楽・左楽、栄二郎・六三郎、春楽・ひさし、三木助、竹幸・出羽助、松鶴、雪江・五郎、九里丸、春団治、雁玉・十郎。

中席 △北新地花月倶楽部 せんば、円枝、小松月・美津子、蔵之助、九里丸、千橘、右楽・左楽、幸児・静児、五郎・紋十郎、六三郎・栄二郎、三木助、文雄・静代、春団治、染団治・雅子、落語劇「食堂車」

下席 △新京極富貴 正光、春団治、扇遊、染団治・雅子、六三郎・栄二郎、染丸、一光、三木助、次郎・源若、九里丸、なり駒・とり三、三八、三馬、右之助

 しかし、日中戦争に突入するや、当局側の取締強化や兵隊漫才の需要の変化などに伴い、活躍の場が制限された事により、人気も落ちた。

 色川武大『寄席放浪記』などでは、神田六三郎と記されているが詳細は不明。色川武大は寄席通いを始める戦時中までは出ていた模様か。

 1943年の帝都漫才協会発足には参加し、「第七部」に参加している。

 しかしこれが最後の記録で、敗戦を前後にして消息を絶つ。

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