出雲友衛・北條恵美子

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出雲友衛・北條恵美子

友衛(左)・恵美子

  人 物

 出雲いずも 友衛ともえ

 ・本 名 福田 利義
 ・生没年 ??~1954年以降
 ・出身地 ??

 北條ほうじょう 恵美子えみこ

 ・本 名 今出 房野
 ・生没年 ??~1954年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 友衛の前歴は浪曲師で、名人と呼ばれた吉田奈良丸(大和之丞)の弟子だったという。『アサヒ芸能新聞』(1954年5月1週号)掲載の『関東漫才切捨御免』に、「友衛は先代奈良丸の直弟子。何かの都合で節から漫才になったものであろうが、それだけにネタは浪曲声帯模写を中心としているのは止むを得ない。」とある。

 後年、漫才師に転向。但し、この経緯はよく判っていない。東京の漫才師として出てくるのは、1928年の事で、その時には玉子家源一と組んでいた

▲市村座 一日よりの萬歳親交記念大會に出演する関東関西の顔ぶれは

直之助、朝日、かほる、春雄、保子、六郎、源六、清、啓之助、玉春、清子、染團治、芳春、芳丸、源一、友衛、小芳、染若、初江、日出男、静子、文雄、駒千代、喜代駒、金之助、セメンダル、秀千代、秀夫、花輔、デブ、清丸、玉奴、豊丸、小一郎、愛子、金吾、力春、力松、小徳、春夫、芳郎、千代治、愛子、秀丸、茶目鶴、仲路、こたつ、夢丸

『都新聞』(1928年6月30日号)

 1929年夏ごろより栗島安子という女性とコンビを組むようになり、同年7月1日付の『都新聞』に

東京落語協会七月上席 上野鈴本演藝場 初御目見得 高級万歳 安子友衛

 と、出演している様子が確認できる。以後、寄席にもたびたび出演。

 浪曲漫才を得意とし、それが売り物でもあった。内海桂子『転んだら起きればいいさ』の中でも、

……砂川市丸・捨奴、出雲友衛・北条恵美子、前田勝之助・隆の家百々龍の浪曲など、それぞれが得意芸を持っていた時代だったのです。

 と記されている。

 東京漫才が隆盛を迎えると、一層活躍するようになり、相方も北條恵美子という女性に代わる。栗島安子が改名をしたのか、別の相方となったのかまでは判らない。

 後年、漫才の定席となった浅草義太夫座の専属となって、長らく人気を保つ事となった。

 1938年7月9日、『真似が本物』という外題でラジオ出演。当時、盛んに叫ばれていた質素倹約と代用品利用を呼びかける時局的な漫才であった。

 同年11月23日、『真似づくし』で出演。『読売新聞』(1938年11月23日号)のラジオ欄に放送内容と芸風が出ていて、貴重。

漫才「真似づくし」

午後八時二十五分
北條恵美子、出雲友衛

このコムビは浅草義太夫座付
先づ梅中軒鶯童の「紀文」の節真似を始め「あれは紀の國蜜柑船」のあの鼻にかゝる調子が何ともいへないといふことから珍問答があり「椿の丘」や「愛染かつら」の流行歌、ベートーヴェン作曲安来節、都々逸入り米若調などが出てお喋りの方は一段落する
次は愈よ得意の浪曲節真似で、東武蔵の「相馬大作」玉川勝太郎の「天保水滸傅」木村友衛の「河内山宗俊」浪花亭綾太郎の「は組小町」と、本物以上?のところを聴かせる

 1943年、大日本帝国漫才協会編成に伴い、夫婦共々、松島家圓太郎率いる、第三部の会員になった。戦中は慰問等で活躍を続けていた。この頃の動向には謎が多い。

 戦後も廃業することなく、漫才を続投していた模様で、『ラジオ新聞』(1948年5月19日号)の中に、

物真似三人男
“浪曲名所圖繪” 20日夜

木下華聲、前田勝之助、出雲友衛の物真似三人男の出演で『浪曲名所圖繪』が廿日夜八時から放送される
華聲が演ずる汽車に乗つて浪曲に出てくる名所古跡をたずねまわり、到着地では勝之助友衛の二人がかわる/”\名人を真似て一席伺うという趣向

 とある。その後は、友衛は患ったらしく、舞台数も減った。それでも出られる範囲の舞台はこなしていたそうで、『アサヒ芸能新聞』(1954年5月1週号)に掲載された松浦善三郎『関東漫才斬捨御免』の中にも、

北条恵美子・出雲友衛

友衛は先代奈良丸の直弟子。何かの都合で節から漫才になったものであろうが、それだけにネタは浪曲声帯模写を中心としているのは止むを得ない。面白い舞台というより聴かせるもの、地味であるが客をウナラせる漫才、浪曲の物真似ではなんといっても立派。近年身体の工合が良くないので余りパットしないが、往年安来節全盛時代の浅草で、節真似で、大した人気で一世を風靡したもの。恵美子が三味線でおつき合い。このごろは放送に出ないと良い芸人でないという間違つた考え方がひろがってしまったが、この友衛など昔話の名人。各放送局のプロデューサーもこの人ある事をおそらく知らないし友衛自身も各局へ出掛けて行ってオベンチャラのいえる人間でなし、惜しいものであるのだが、余り放送に恵まれない。ひたすら残念に思う。

 1955年の漫才研究会の設立前後から足取りが判らなくなり、後に消息不明となる。『産経夕刊』(1960年7月19日号)に掲載された「漫才ばなし」の中に、

出雲友衛というのは、かみさんとコンビで「浪曲漫才」を売りものにしていたが、男が大きくかみさんは小さい。かみさんは亭主の顔をひっぱたくのに、いちいち飛び上がってたたいたというから、とんだ重労働だ。

 とあるのが最後の記録。但し、この記載を見る限りでは漫才から一線を退いていたようであるが――

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