東京漫才を彩った人々

東京漫才の一員として名を残した漫才師たちです。

東京漫才を彩った人々

青空南児・北児

青空南児・北児は戦後活躍した漫才師。コロムビアトップ・ライト門下生で、師匠譲りのしゃべくり漫才を得意とし、前途を期待されたが廃業。南児・北児ともに二代存在するが、二代目の南児・北児は漫才界を離れ、実業家として成功を収めたという。
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高峰青天・幸天

高峰青天・幸天は戦後活躍した漫才コンビ。リーガル天才・秀才門下の新鋭で、ハツラツとした話術で嘱望されたが4年で解散した。高峰青天は後に神田勢山という講談師となり、幸天は高峰一軒という名前で司会漫談家となった。
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玉子家源六・喜代志

玉子家源六・喜代志は戦前活躍した漫才師。拍子木で相手を殴り合う派手な暴力漫才を得意とし、東京漫才黎明期に活躍。関西の玉子家源丸の門下で、玉子家源一とは兄弟弟子の間柄であったという。
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初見兄司・弟司

初見兄司・弟司は戦後活躍した漫才師。「兄司・弟司」と名乗ったが実の兄弟ではなく、「兄弟のようにむつまじくやりたいから」という理由で名乗ったというのだからややこしい。オーソドックスなしゃべくり漫才で注目を集めたが、早くに引退した。
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大井山彦・海彦

大井海彦・山彦は戦後活躍した漫才師。春日三球とコンビを組んでいた第一球と「晴乃ダイナ・ミック」のミックで活躍していた二人がコンビを組んだもの。王道なしゃべくりを得意としたというが、事務所の都合で組まされたらしく長続きはしなかった。
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青空きんし・ぎんし

青空きんし・ぎんしは戦後活躍した漫才師。長身で眼鏡をかけたきんしと小柄でひょうきんなぎんしの凸凹コンビで人気を獲得。青空球児・好児などに続く青空一門の第三世代として活躍を期待されたが大成する前にやめてしまった。
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大倉寿賀若・西宮奈美江

大倉寿賀若・西宮奈美江は戦前戦後活躍した漫才師。大倉寿賀若は江州音頭の家元・大倉寿賀芳の高弟で、昭和のはじめから既に一枚看板として活躍していた古株の漫才師であった。寿賀若は十返舎亀造・菊次の十返舎菊次と結婚していた事がある。
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Wチャンス(赤城チャンス・青木チャンス)

Wチャンス(赤城チャンス・青木チャンス)は、戦後活躍した漫才師。Wけんじ門下である。青木は後年、チャンス青木と改名し、「浅草の名物芸人」として君臨。ナイツやロケット団が「漫才協会の名物人間」として喋りまくったのは有名である。
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春日三球・照代

春日三球・照代は戦後活躍した夫婦漫才。ほのぼのとした話術の中に鋭い社会風刺や観察を含んだネタを得意とした。中でも「地下鉄はどこから入るの?」という疑問をナンセンス風に処理した「地下鉄漫才」はすさまじい人気を博し、漫才ブームにも便乗して東京漫才の大スターとして君臨した。
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宝家楽三郎・直太郎

宝家楽三郎・直太郎は戦前活躍した漫才師兼曲芸師。宝家和楽門下の曲芸師であったが、漫才ブームに便乗して「曲芸漫才」の第一人者として高座に立つようになった。楽三郎は戦後、息子たちを集め、「キッチントリオ」なるグループを結成。1960年代まで活躍を続けた。
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あきれたトリオ(清水アキオ・松浦タケオ・津山ヒデオ)

あきれたトリオは戦後活躍した歌謡漫談トリオ。ドラム・ギター・アルトサックスという組み合わせが売り物で、独特の演奏で人気を集めた。後年、メンバーを増やし「あきれたダンディーズ」と改名したが、初期メンバーの松浦タケオが脱会し、玉川カルテットへと合流する事になる。
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天兵トリオ(春風天兵・島暁美・星柄北男)

天兵トリオ(春風天兵・島暁美・星柄北男)は、戦後活躍したコントグループ。エノケンの弟子の天兵、官僚の娘の暁美、自衛隊出身の北男という異色の取り合わせで人気を集めた。コントトリオとしての経歴は古く、てんぷくトリオやナンセンストリオなどよりも古い。
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コメディ・ポコ・ア・ポコ(上村敏子・小柳菅子)

コメディ・ポコ・ア・ポコ(上村敏子・小柳菅子)は、演芸ブーム時代に活躍した女流コントの二人組。多摩美術大学付属芸術学園で演劇を学び、新劇女優を目指していたが志変わってコントに転身。「女コント55号」と呼ばれるほどの人気を博したが、2年でコンビを解消した。
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入船米蔵(茶番)

入舟米蔵は明治~昭和にかけて活躍した茶番の芸人。落語家としても活躍した。魚屋につとめながらセミプロとして活動していたが、後年、談洲楼燕枝の門下に入った。漫才勃興以前の滑稽茶番に独特の趣を持っていたそうで、瀧川鯉かんとのコンビで人気があった。
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柳亭左喬・三升家三喜之助

柳亭左喬・三升家三喜之助は戦前活躍した男女漫才。夫婦だったというが確証はない。左喬は柳亭左楽門下の真打、三喜之助は女道楽の人気者という恵まれた地位にあったが、流れ流れて漫才師になった。戦時中、三喜之助は夭折し、左喬は東京大空襲の中に姿を消したという。
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上田五万楽

上田五万楽は戦前戦後活躍した漫才師・喜劇役者。どちらかというと喜劇役者の側面の方が強かったが、1930年代に漫才界へ参入し、けれん味たっぷりの浪曲漫才を展開。高い人気を集めた。戦後は喜劇界に戻り、喜劇映画や松竹新喜劇の座員として枯淡の演技を見せた。
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梅川玉輔・梅奴

梅川玉輔・梅奴は戦前活躍した夫婦漫才。玉輔は上方落語の名人・桂文都のせがれで、自身も「桂文都」と名乗っていたが、上方落語の凋落や一身上の都合で廃業。妻と共に漫才師に転じ、東京漫才界の幹部になった変わり種である。
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コントふらみんご(みつか・まりこ)

コントふらみんご(みつか・まりこ)は、昭和末に活躍した女性漫才師・コント芸人。斬新で前衛的なシチュエーションとマシンガンの如き応酬で高い人気を得たが、数年で解散した。みつかは、「一人コントの女王」として知られる楠美津香その人。
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ミュージカルぼーいず

ミュージカルぼーいずは戦後活躍した歌謡漫談グループ。シャンソンと時事ネタを織り込んだ独特の歌謡漫談、確かな歌唱力で演芸ブーム時代の一時代を築いた。リーダー・志村はクリエイターの志倉富士丸・千代丸兄弟の父としても知られる。
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ぴんぼけトリオ(西片健・前村昭・漆原伸)

ぴんぼけトリオ(西片健・前村昭・漆原伸)は戦後活躍した歌謡漫談グループ。灘康次とコンビで活動していた西片健が独立し、バンドマンの前村を誘い、「ぴんぼけコンビ」を結成。その後、バンドマンをやっていた漆原を誘い、トリオを結成。賑やかで達者な歌謡漫談で、演芸ブームの売れっ子となった。
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東晴々・谷朗々

東晴々・谷朗々は戦後活躍した漫才師。リーガル天才一門の一番弟子に近い存在であった。晴々は後年独立し、「高峰青天」。さらには講談を志し、「神田勢山」と名乗って長らく活動する事となった。
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ペコちゃん(太田スセリ・岡野ゆかり)

ペコちゃんはお笑いブーム末期に活躍した太田スセリと岡野ゆかりからなる女性漫才コンビである。巨体で毒舌の太田が、小柄な岡野をいびり倒す漫才で人気を博した。太田は「オオタスセリ」と改名し、歌手や女優としても活躍。「ストーカーと呼ばないで」の名曲(?)でも知られる。
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立花家色奴・小奴

立花家色奴・小奴は戦後活躍した漫才師。色奴は元々「唄の家いろ奴」と名乗る女流噺家の走りであったが、三代目三遊亭円遊に嫁いだ。小奴は円遊と色奴の娘で、戦時中父が死んだために戦後、母と共に高座に現れ、女道楽とも女流漫才ともつかない不思議な芸をやっていた。後年は赤坂芸妓になった。
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海老一鐵五郎(太神楽)

海老一鐵五郎は明治~戦前活躍した太神楽芸人。海老一宗家の倅として生まれ、若い頃は兄・海老蔵、弟・繁司とともに海老一三兄弟として売れに売れた。後年、独立し「海老一鐵五郎一座」を主宰。浅草から出発し、後に大阪・京都でも人気を博したが、関東大震災で苦労を重ねて、最後は朝鮮へ渡ってしまった。
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青空ハズム・リズム

青空ハズム・リズムは戦後活躍した漫才師。コロムビアトップ・ライトの門下生としてデビューを果たしたが、あまり長くは続かなかった。ハズムは後にローカルタレントとなり、リズムは「青空ピック・アップ」、さらに「夢大作」と改名。女流漫才の海原千里・万里の万里と結婚して話題になった。
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お笑い新幹線(水原雪雄・みのべ実)

お笑い新幹線(水原雪雄・みのべ実)は昭和末~平成にかけて活躍した歌謡漫才。水原は「春日富士松・雪雄」以来の漫才師であり、みのべはアマチュア物真似芸人から、小島宏之とダイナブラザーズのメンバー、歌謡漫談「お笑い新幹線」を組んだという変わり種であった。
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大瀬しのぶ・こいじ

大瀬しのぶ・こいじは戦後~平成に活躍した漫才師。共に30代後半でコンビ結成するスロースターターであったが、方言漫才を確立し一時代を築いた。後年、東京から東北へと拠点を移し、元祖ローカルタレントとして活躍。しのぶは「青森が生んだ大スター」といわれるほどの人気を博した。
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高峰愛天・東天

高峰愛天・東天は戦後~平成に活躍した漫才師。リーガル天才門下の俊英で、一時期はホープとして目されていた事もある。東天は8代目三笑亭可楽の門下で落語家、小金井芦州の門下で講談師を経て漫才師になったという不思議な芸歴を持っていた。
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東京太・京二

東京太・京二は戦後~1980年代まで活躍した東京漫才師。松鶴家千代若に厳しく仕込まれた京太と俳優出身でWけんじ門下の京二の凸凹ぶりが売り物であった。ノリロー・トリロー、みつる・ひろしと並んで「東京漫才の御三家」として活躍。長らく東京漫才を牽制し続けてきた。
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大空みつる・ひろし

大空みつる・ひろしは戦後~平成初頭まで活躍した漫才師。大空ヒット門下の俊英として売り出し、新山ノリロー・トリロー、東京太・京二と共に「東京漫才の御三家」として名声をほしいままにしたが、自堕落な性格と病弱が原因で最終的にコンビを解散してしまった。

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