木田鶴夫・亀夫

木田鶴夫・亀夫

鶴夫(右)・亀夫

 人 物

 木田 鶴夫 きだ つるお

 ・本 名 山田 常博
 ・生没年 1927年6月25日~没
 ・出身地 東京

 木田 亀夫 きだ かめお
 ・本 名 水崎 一
 ・生没年 1930年7月15日~没
 ・出身地 東京

 

 来 歴

 戦後、活躍した大小コンビ。両人共に幼馴染で、漫才コンビとしては珍しく非常に仲睦まじかったという。実力があった割には、判らない事が多い。

 鶴夫は貿易商を営む家に生まれる。商人になる為、大倉商業学校に進学。間もなく戦争が始まったため、志願兵となり、航空兵教育を受ける。その後は一兵隊として、マニラをはじめとした南国の戦地を転々とした。

 敗戦後、ポツダム昇進が認められ、大日本帝国海軍中尉に昇進。この階級は漫才師の中でもトップクラスで、鬼軍曹コロムビアトップも頭が上がらなかった。

 青空うれし氏から聞いた笑い話に、

 昔、軍隊キャバレーってのがあってね、トップさんはそこの常連だった。兵隊の格好をした店員が、上官待遇で饗してくれる店だったけどね。ある時、俺を含めた若手達を引き連れてその軍隊キャバレーに行ったんだね。で、トップさんはああいう人だから、
『わしゃ軍曹様じゃ』
なんて威張ってる。酒が入ると出兵と階級の自慢がはじまって、若手たちに、
『お前は二等兵だろう』
『お前なんか使い物にならない』
とかいびるんだよ。それで、
『おい、鶴夫。お前は兵隊に行ったか?』
『はい、行きました』『階級はどのくらいなもんだった。わしゃ軍曹だ』
『へえ、恥ずかしながら中尉でした……』
って言った途端、
トップさん直立不動で『中尉殿でしたか!失礼いたしましたっ!』って最敬礼だ(笑)
帰りのタクシーの中で、『鶴夫とはもう行かねえ』って零していたのをよく覚えているよ。

 一方、亀夫は喜劇役者、曾我廼家蝶平の子として生まれる。幼い頃から、芝居の子役として舞台に立たされた。一方、学業のほうもよくできたらしく、名門・旧制郁文館中学を卒業している。

 敗戦後、復員して来た木田鶴夫と再会した亀夫は、意気投合。軽演劇の一座に入って、コメディアンとなる。『東京新聞ラジオテレビ版』(1959年5月12日号)に掲載された『コンビ売出す』では、

漫才生活もやがて七年。この道に入ったのが幼な友だちの彼らが顔を合わせ、「何か面白いことをやってみようよ」というだけでふらふらと始めた――というノンキなもの

 と、紹介されている。

 その一座で鶴夫と漫才風の掛合を演じていた所、見物に来ていた並木一路に才能を見出され、1952年に漫才へ転向。

 並木一路・宮田洋容の門下に入り、師匠の亭号である「宮田」「並木」の一文字を取り、「木田」。凸凹の対比から鶴亀を分解し、「鶴夫・亀夫」と名乗った。

 1953年秋、初舞台を踏んで以来、余興や浅草松竹演芸場などで腕を磨いた。

 当時から凸凹コンビだったことは評判だったそうで、松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年4月4週号)の中で、

木田鶴夫・亀夫

名前を看板にして鶴亀コンビと称している。東ハチロー・イチローをホウフツさせる同型の立体。どうして鶴夫亀夫という名にしたのか判らないが、拳斗のウェルター級位の重量のあるのが鶴夫というのであるから大変。亀夫の肩まではない。このところを髪を短かくしてちょうど刑務所から出て来たばかりの米国人みたいな頭をしている。シャベリはこの亀夫の方が達者。宮田洋容に師事。

 

 と、ある。ちょうど刑務所から出て来たばかりの米国人みたい、とはすごい比喩である。

 1955年、漫才研究会設立に参加し、初期メンバーとして名を連ねている。この頃から若手のホープとして目されるようになり、1957年3月2日に開催された第一回NHK漫才コンクールに出場。第一回は、『美しき思出』で三位入賞。

 同年11月に開催された第二回NHK漫才コンクールで『学生時代』を演じ、優勝。大きな鶴夫に小さな亀夫、低音でおっとりした鶴夫に甲高い声でペラペラとしゃべる亀夫、と体格の面では、完璧のコンビだったと言える。

 以降、コロムビア系の歌手の司会漫才とマスコミに出演する傍ら、松竹演芸場や漫才大会を拠点に活躍。

 相応の地位を得、幹部にまでなったものの、1960年代中盤から巻き起こった演芸ブームには大きな波に乗れず、一歩退く処となった。

 人間的には大人しく好人物であったというが、よく言えばお人好し、悪く言えば芸人らしいアクの強さがないのはこのコンビの長短両方のポイントであった。そのため、舞台も消極的で控えめな性格が裏目に出て、台本に忠実でアドリブの効かない芸風だったという。

 特にアドリブの効かない芸風は有名で、遠藤佳三『東京漫才うらばな史』の中にも、

 ベテランといえば、この時期、木田鶴夫・亀夫さんと付き合うことができたのは貴重な経験だった。鶴夫・亀夫さんは台本の一字一句にいたるまで盲目的に暗記し、なにも加えずなにも略さず舞台にかける主義だった。舞台にかけてみて客ウケが悪いとやかった部分もカットせず、押せばもっとウケそうな部分も押さなかった。私にとって、青空はるお・あきお以来の台本絶対主義のコンビだった。私は、鶴夫・亀夫さんが私の第一作を十日間演じきった時点で、はじめて二人の主義を知って、目を見張ったのである。この主義でいくと、客にウケるウケないは何よりもホンにかかっていた。
「私たちは作家に下駄をあずけてますから」
 二人はサラリと言ってのけたが、それは作家に撮っておそろしい言葉だった。同時に励みにもなった。さいわい第一作がウケて、二作三作と依頼を受け、それらも気にいってもらうことができた。

 と、ある。時間によって切ったり伸ばしたりできないので、自然と敬遠される形となった――と遠藤氏本人から伺った。それでも時間に余裕がある時は「愉快なメロドラマ」「愉快なスポーツ論」「愉快な学生生活」など、「愉快な」シリーズで、実力を見せた。

 1970年代より、鶴夫が患うようになり、コンビ活動もままならなくなった。弟子の木田Q太氏によると「胃を患っていた気がしますね」。

 1985年の「日本演芸家連合」の名観まで名前が見えるが、その直後に行方不明となる。

 鶴夫亡き後、亀夫は工事現場で働いていたという噂だが真相は不明。兄弟弟子の宮田章司が復帰を打診したが、「鶴夫じゃなきゃできない」と断ったという。

 晩年は東村山で演劇活動の手伝いなどをしていたというが、こちらも身体を悪くし、間もなく没したと聞く。遺族が居たそうであるが――

 

 情報提供、求ム。

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