東晴々・谷朗々

東晴々・谷朗々

晴々・朗々(右)

 人 物

 あずま 晴々せいせい
 ・本 名 岡村 保二
 ・生没年 1933年~ご健在?
 ・出身地 新潟県 加茂市

 たに 朗々ろうろう
 ・本 名 一谷 栄蔵
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 京都

 来 歴

 東晴々・谷朗々は戦後活躍した漫才師。リーガル天才一門の一番弟子に近い存在であった。晴々は後年独立し、「高峰青天」。さらには講談を志し、「神田勢山」と名乗って長らく活動する事となった。

 東晴々は後に高峰青天、さらには神田勢山と名乗った。後年まで活動した関係もあってか、一応の資料はある。

 漫才師になるまでの経歴は『リハビリテーション』(1974年10月号)で語った「ドサ廻り」なる随想に詳しい。

 太平洋戦争中、小生は小学生であった。その頃いわゆるドサ廻りの芝居が良く巡業に来た。小生はその都度母に小遣いをせびり必ずといって良い程観劇した。時には小遣いがもらえなく、でもどうしても見たいと思った時には楽屋口へ行き何んとか頼んで見せてくれと言った。その時相手(劇場関係者)は子供だからと言って、気持良く無料入場をさせてくれた。この時の感激のせいか今でも小生が地方巡業に行った時お金が無く、でも是非舞台が見たいと言うと楽屋口からそっと入れてやることにしている。
 高校を卒業して大学(早稲田)に進学した時、小生は迷わず(実は親には内緒にしていたのだが)演劇を専攻した。在学中一緒に芝居をした人に野末陳平(現参議院議員)神津善行(作曲家、中村メイコさんの御主人)向井爽也(劇作家、TBSテレビ演出部)氏等がいる。在学中小生三年生の時に話があって野末、向井、小生の三人がアルバイトコメディアンとして横浜の劇場の舞台に立つ。これが小生の初舞台である。それから小生はコメディアン生活二年余り、当時はストリップと一緒だったので結局はその刺身のツマ。これに嫌気がさして、たまたま話のあったキャバレーの司会に転向。しかし、その初舞台の恐ろしさは今でもはっきりと脳裡に刻み込まれている。ステージの横でブルブルとふるえている小生にカウンターの人が、「どうです、一杯やっては?」とグラスになみなみと酒を注いでくれたのである。それを一気に飲んで漸く元気を取り戻しショーの案内をしたのである。今や眠っていてもおしゃべりなら出来る。全く人間とは図々しいものである。そのうちにキャバレーに在籍しながら歌謡曲の司会の仕事が来る。地方公演にもかり出された。
 そして、その時に気の合った男がいて遂に漫才コンビを結成、十二年間の漫才生活を送ることになる(但しその間、三回コンビが変わる)。この時である。小生が最も地方公演の多かったのは。

 漫才コンクールのパンフレットによると、「ジャイアント馬場といとこ」とあるのだが本当なのだろうか。しかし長身なのは事実で、180センチ近い当時としては大男であった。

 1951年に早稲田大学へ進学。向井爽也率いる軽演劇集団「海賊クラブ」に所属した。向井は『小説新潮』(1969年11月号)のエッセイの中で――

このとき「是非私も入れて下さい」と熱心な学生が現れた。エキゾチックな感じで背が高かったので、当時あった鹿地亘事件に出てきた――といえば思い出す人も多かろうが、そのキャノン中佐の役を作って振り当てた。彼はそれが契機となって遂に病膏肓に入り、間もなく大学を中退してストリップ劇などを転々、現在高峯青天と称して漫才をやっているが一向に売れない。

 と記している。早稲田を卒業したのか、中退したのかまではわからない。

 朗々は京都生まれ――という点以外ほとんどわからない。「元々司会者だったんでは」とうれし氏などからきいたことがあるが、それ以上の事は不明。年齢は晴々と同世代だったらしいが――

 1961年にコンビを結成。司会漫才から成り行きでコンビになった模様である。リーガル天才・秀才の身内になり、漫才研究会に所属。

 1963年2月23日、第11回漫才コンクールに出場。当時のパンフレットが残っているので引用。

「漫才貴族」東晴々・谷朗々 東さんは三十年に早稲田大学演劇科を卒業し、演劇界で活躍していた。谷さんは京都の産、リーガル天才さんの弟子となったこともある。三十六年にコンビを組んだ。コンクール初出場の弁として「客に対するコンプレックスによる笑いでなく、新しいユーモアを作ってゆきたい。」

 しかし、コンビとしては長続きせず、1965年夏にコンビ解消。朗々は司会者に転身し、晴々はリーガル一門に参入して「高峰青天」と改名。高峰栄天とコンビを組む。

 この青天・栄天コンビはまた別項に記す。

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