なるみ信・いずみ太朗

なるみ信・いずみ太朗(右)
目次
人 物
なるみ 信
・本 名 大橋 敏夫
・生没年 1936年2月14日~1980年10月中旬
・出身地 埼玉県 岩槻市
いずみ 太朗
・本 名 ??
・生没年 1920年代?~2006年以降
・出身地 ??
来 歴
コント出身の漫才師。なるみはトリオ・ザ・パンチで一世を風靡した一人、いずみ太朗は泉和助の弟子で、二代目泉ワ輔を継いだ。演技力ある掛合とネタで人気を集めたが長続きはしなかった。
なるみ信の前歴
なるみの実家は岩槻市内に代々あったお寺。『松竹演芸場パンフレット』(1972年10月中席号)の出演者の横顔に詳しく出ていた。
なるみ信は埼玉県岩槻市に生れ昭和27年劇団稲の会(東童劇団別れ)で芝居をしていたその後退団、昭和30年コメデアンとして再出発。昭和30年頃に東洋劇場に出演し、当時のコメデアンが現在のお笑いコントの主な人々で東洋興行系の舞台をふんでいる人が多い。先輩よりイビられ、舞台関けいの人々にコヅかれながら勉強し、昭和41年内藤君達と「トリオ・ザ・パンチ」を組んで「コント界」にパンチ旋風をまき起し演芸の中で異風のコントとして約四年間ガンバリましたが色々の事があり現在のいずみ太朗と組んで「いずみ太朗・なるみ信」となり現在に到っております。
また、山下武は『大正テレビ寄席の芸人たち』の中で「エンジニア志望であった」と記している。
当初は「成美信」の芸名でストリップ劇場の幕間コントなどに出演。
1960年代前半に、トリオブームに巻き起こると、トリオを転々としていたようである。
1966年、井波健の後釜として「トリオ・ザ・パンチ」に正式に入団。メンバーの内藤陳、久里みのるとともに軽快な西部劇コントや青春コントを演じた。
「ハードボイルドだど」などのギャグや明朗な掛け合いが一世を風靡し、30代にして大スターに祭り上げられた。全盛期の人気はすさまじく、雑誌やテレビでレギュラーを持ち、凄まじいギャラを得たほどであった。
今なお、演芸ブーム期を代表するコントトリオの第一人者として名を残している。
1969年頃、トリオを離脱。内藤陳との確執などもあったという。それから間もなくしてポール牧と別れたばかりのいずみ太朗とコンビを結成。「いずみ太朗・なるみ信」と名乗り、漫才師に転身。Wけんじ一門の客分となり、各演芸場に出演するようになった。
いずみ太朗の前歴
元はコメディアン・泉和助の弟子。泉たけしとは兄弟弟子にあたる。
前歴に謎は多く、生年等も本名も不明。漫才協団名簿にも出演者名簿にもその他雑誌にも年齢と本名が伏せられている。
ただ後にコンビを組んだハナ太郎(1927年生まれ)とほぼ同期だったらしいので、1920年代初頭の生まれか。
芸能界入り後の経歴は『松竹演芸場パンフレット』(1972年10月中席号)の出演者の横顔に出ていた。
いずみ太朗・なるみ信「いずみ太朗は自分の年令は28才と云っていますが芸界に入って28年とはどういう事でしょう。第一の師匠は高屋朗(ホガラ)第二の師は佐山俊二で第三の師が泉和助でおちつきました。和助師は弟子に対して教えきびしく、教えを守った弟子は今第一線で活躍のスターも多数おります。変った人で参議員議員の立川談志。一時小さん師に(小えん当時)破門された時に弟子になった。しかしその一番弟子のはずの太朗は(当時小太郎)は新馬戦に勝ち勝ち中央にやっとのこっいつもゲートで出おくれているような人です。師に反抗ばかりしていた罰か、それでも太朗は可愛がられていました。師は偉大な芸人だったと常に云っているような人です。
「芸界に入って28才」という文言を信じるならば、1944年頃の入門という事になる。
最初の師匠は戦前の浅草喜劇の第一人者で知られ、「ガマグチ」の愛称で人気を集めた高屋朗。第二の師匠は戦後の名コメディアンとして知られる佐山俊二。そして最後に泉和助門下へと落ち着いたという。
もっとも、高屋は戦後抑留や病気で人気が落ち、佐山は浅草フランス座系統のコメディアンなので、一枚看板をあげるまで転々とした模様か。
泉和助在籍の日劇ミュージックホールに入団し、「泉小太郎」と名乗る。ギャグの鬼とうたわれた泉和助のよき薫陶を受けた。後に「泉太朗」として独立。
1966年2月11日より「泉太朗と劇団喜劇の楽園」を立ち上げ、第一回公演は「江戸っ子長兵衛」というマゲもの喜劇を出した。
以降、1967年4月21日の最終公演まで、浅草松竹演芸場において喜劇公演を続けていた。
浅草では相応の人気を博したものの、喜劇ブームの低迷やコントブームの勃興、一座内でのゴタゴタもあり、一座を解散。その後はコント芸人に転身した。
1969年頃、なるみとコンビを結成。Wけんじ一門の内輪となり、寄席や演芸場に出た。
タロ・シンコンビ時代
コント出身でありながら小道具をほとんど使わない潔いしゃべくり漫才を得意としたらしく、いずみがヌーボーとしたボケを、なるみが間のいいツッコミを披露したという。
頭文字をとって「タロ・シンコンビ」という愛称があったという。
漫才協団には所属せず、フリーの漫才師として活動をしていた。二人共知名度があっただけに演芸場や余興では相応に遇された。
1973年夏、「コントジャック」に改名。コント仕立ての掛合を演じ、人気を集めた。当時は一映プロに在籍していた。
しかし、その活躍は続かず、1974年頃にコンビを解消。
なるみのその後
1年ほどピン芸人として高座に出ていた。
1976年頃、須磨一露率いる「ギャグメッセンジャーズ」に加入。東宝名人会などにも出るほどであったが、数年で離脱した。
晩年は妻とも不和になり、仕事にも恵まれない日々を送った。ますます酒に溺れ、体調を壊した。
かつての売れっ子の窮状という事もあり、関係者のネタとなった。有名なのがビートたけしの「貧乏ネタ」であろう。ビートたけし『たけし!』によると――
そのなるみさんが倒れて入院した。去年のことさ。
肝臓、じん臓、胃、どこもかしこも悪い。
それなのに病院抜け出して酒を飲んでるんだ。常磐線の金町という駅の前にある金町駅前団地にひとりで住んでた。
自殺行為よ。
もう死のうと思ってたんじゃないかな。
子どもが「お父ちゃんどうしてるかな」と思って訪ねてきたら死んでいたらしい。
それが死んだ次の日だっていうよ。
かわいそうな死に方だよ。
破滅型芸人の末路を象徴してるね。
たけしはこうした貧乏ネタを膨らませ、「アメ横で1本1000円のクラブと何やら含めて8000円のゴルフセットを買い、ボールはゴルフ場から盗み、朝4時にゴルフ場に忍び込んで無断プレイしていた」「酒飲んでゴルフホールの中にゲロを吐いた」「なるみさんは貧乏をこじらせて死んだ」と散々茶化していた。
ただ、実際のなるみはすごく優しい、大人しい人だったそうで、はたけんじ氏などからは「とにかくいい人だったし、いい人だけに最期が可哀想だった」「大酒飲みで、それが命取りになったのは事実だけど、普段は兎に角いい人で、率先して破滅をやる人ではない」と伺った。
ビートたけしの語る貧乏伝説や逸話は虚構や話の盛りもあるのだろう。
仲の良かった美田健のご家族によると「山口百恵の引退報道(1980年10月15日正式引退)と重なっていて訃報もほんの小さかった。その週の水曜日に告別式に行った」との由。
10月14日前後(死亡推定日にはなるが)に亡くなり、それから葬儀をあげられた模様か。
Wけんじや三波伸介からも花輪が届き、最後は華々しく見送られたというが、内藤陳はその死に対し、無念と悲しみをむけた追悼を残している。エッセイ集『読まずに死ねるか』の中で――
ナルミ信が死んだ。
どれほど記憶の方がいるだろうか、トリオ・ザ・パンチ初期の名脇役である。あの馬鹿が死にやがった。女にふられたぐらいで大酒くらって、団地の片隅でひとりぽっちで……。
三平師匠や小円遊さんのとは対照的な、ガランとしたお通夜の席で、口先だけは、みな、故人をほめたたえている。やれソーレツな芸人の最後だ、やれ人間的な死に方だ――何いってやんでぇ、死んじまったら何にもならねえんだ!! お通夜にも来ない有名(いい)芸人たちの何本かの花輪が寒々しくて。奴の死顔も口惜しそうだった。そして俺も……。
いずみ太朗改メ泉ワ輔
解散後、泉はコント界に移籍。この頃、「泉小太郎」と名前を戻した模様。
1975年3月、「二代目泉わ助」を襲名。ただ当人は「畏れ多い」とあえて「わ助」と一文字変えた上での襲名。『週刊平凡』(1975年4月17日号)に――
コメディアン、泉小太郎が二代目泉わ助を襲名、その披露パーティーが東京・六本木のテンダラーセブンで開催された。発起人の三波伸介をはじめ、はかま満緒、佐山俊二ら喜劇人がお祝いにかけつけ、わ助を激励「早く先代の”和”になるよう努力します」とわ助は感動――。
1976年頃、ナンセンストリオに加入。翌年には漫才協団に入会し、トリオとして認められている。
しばらくトリオとして活動し、それ相応の人気を集めてはいたものの、ナンセンストリオ自体が既に落ち着いていた事やトリオ内でのゴタゴタもあり、あまりうまくはいかなかった。
1978年にナンセンストリオを脱退。コメディアンの愛うえおと「サンシャインツー」なるコントコンビを結成するも1年で解散している。
1979年7月、宮田昇司と別れた宮島一茶とコンビを組み、「コント・ケイとアイ」を結成。当時の松竹演芸場のパンフレットに右のようなことが書かれている。
泉ワ輔・宮島一輔 新コンビに栄えあれ
コンビと云うのは縁と運がないと続かないものだ、泉ワ輔がその見本のような男、面白い味と、ぼけがあるのにどうもめぐまれないナンセンストリオと別れて愛うえおとサンシャインツーのコンビを組みこれも一年で解散、つい先日はコント切られ与三郎とお富のコミック芝居をやったばかり、その第二弾が意地悪サットンおやじと題するお芝居、その中に出演する宮島一輔、彼は前は漫才でコンビを組んでいた宮田昇二と別れた一人だ、こんどは泉ワ輔、宮島一輔、タイトルもコント・ケイとアイ宮島一輔が泉ワ輔の持ち味をいかに引き出すか、長く続いてほしい楽屋雀では”いつまでもつか”なんて声も聞える。
漫才風のコントを目指したが半年で解散している。
1979年12月、浅草松竹演芸場にて「二代目泉ワ輔一座旗上公演」を実施。以降は喜劇俳優として復帰し、浅草喜劇の復活に力を注いだ。
1981年頃には浪曲出身のコメディアン・ハナ太郎とコンビを組み「コント爺&爺」を結成。浅草を飛び越え、バラエティやドラマなどにも出演した。
1995年9月には、新宿の小劇場永谷ホールにおいて「笑群」なる喜劇一座を旗揚げし『家なき婆』を上演。若手コメディアンを集めて育成を試みている。
2000年代まで健在で、飯田一雄率いる「浅草にんげん座」に出ていたが、その後の消息は不明。没したといううわさは聞くが、確定はできない。

