Wけんじ(東けんじ・宮城けんじ)
東けんじ(右)・宮城けんじ(左)
眼鏡をしていない東けんじ
Wコント時代(左・玉川良一)
人 物
人 物
東 けんじ
・本 名 大谷 健二
・生没年 1923年12月17日~1999年1月7日
・出身地 東京 尾久
宮城 けんじ
・本 名 寺島 文雄
・生没年 1924年8月20日~2005年10月19日
・出身地 宮城県
来 歴
東けんじの前歴
生まれは東京であるが、国鉄に勤務していた父親の転勤で、生後間もなく栃木県宇都宮市に移住。同地で育つ。そのため、長らく栃木県出身を自称していた。
今泉尋常小学校に進学したが、家族の転勤のため、奥沢尋常小学校へと転校。同校卒業後、大田原中学へと進学。
父親と同じ鉄道員を志し、中学を卒業した1941年、東野鉄道に入社し、黒羽駅駅員として勤務。
1944年、出征し、千葉県の臼井高射砲隊に配備されるが、翌年の終戦と共に復帰。
復員後は駅員の傍ら、素人劇団を結成し、公演やフリーパスを利用して浅草通いをしている内に、観劇や実演に強く惹かれるようになり、仕事そっちのけでのめり込むようになる。
当然、周りから顰蹙を買う結果となり、激怒した駅長から、仕事と演劇の二つに一つを迫られ、東野鉄道を退職。
間もなく巡業に来た歌手の田谷力三と知り合って宇佐美レビュー團に入団――という事が『日本映画人名事典』の中にあるものの、その前後で玉川良一の主宰する「玉川良一とその楽団」に参加していた模様で、共に一人になったら漫才になろうという約束もしていたという。
一座解散後は松前ピリカ楽団、新生お笑い座の座長などを経験する。一時は「ヘンリー東」としてサーカス団のピエロをやっていた事もある。後年、武器となった片足立ちやパントマイムは、ここで覚えたものだというが、ピエロ時代の事は謎が多い。
但し、晩年ピエロに扮してテレビに出たことがあるので、実力はあった模様。
1955年、Wコントを結成。宇佐美劇団にいた時に偶然、玉川良一の名前を見かけ、昔のよしみから手紙を出したのがコンビ結成のきっかけだという。
ただ、それ以前から二人は交友があり、コントや漫才風の掛け合いをやる事もあったため、初対面同士のコンビではなかった。
一方、『美しい十代』(1967年2月号)掲載の『まんが自叙伝』の中で語った話では、「昭和26年玉川良一とコンビをくみ10年間大いに笑わせる」とある。
玉川に勧められる形で上京し、コンビを組んで「Wコント」と名乗る。漫才に転向した直後に、相棒の玉川良一の手引きで東喜代駒の門下に入った。
その現場にいた源氏太郎氏曰く、
「玉川さんが東けんじを連れてきて、こいつに東の名前を挙げてくださいっていう話になって、喜代駒親父もそれを承諾――喜代駒の身内という形で東姓を許されたのですが、後年、東の由来は『栃木出身だから東なんだ』とか言って誤魔化していました」。
なお、真山恵介の『寄席がき話』を覗くと、
大空ヒット、英二・喜美江、玉川良一・東けんじ以下、たくさんな一線級の弟子がいることと、今は音楽教師になったが、歌手の武井津弥子が実娘のことを付け加える。
と、しっかり明記されており、喜代駒の訃報(『読売新聞・夕刊』1977年10月12日号)にも「弟子に都上英二、大空ヒット、東笑児、Wけんじらがいる。」とある。
但し、漫才界の師弟関係というものは希薄であったことを考えると、喜代駒との関係は名前弟子程度のものだったという見解も出来ないこともない。
一方で、喜代駒家に出入りしていたことを考えると、全く無関係とも言えないのである。
コンビ結成後、木馬館や松竹演芸場に出演。新鋭ながらも、芸達者で見事なコンビネーションに注目した会社関係者や俳優たちによって舞台に招聘されるようになり、1956年、松竹ミュージカル『笑う忠臣蔵』『忍術はこれだ』に出演。
次いで、1957年、市村清や今泉周男の斡旋で国際劇場に出演。
1958年春には、ビクターと専属契約を結び、司会漫才として、ラジオ・テレビ・舞台と、相応の活躍を広げていく。
1959~60年頃には、関西にまで出演圏を拡大。関西圏で人気を博していたコメディドラマや舞台中継に出演。
このころ、嘗ての仲間であった三波伸介を入れて「おとぼけガイズ」を結成。千日前劇場でやっていた『センニチ・コメディ』のレギュラーとして出演し、生中継や当時のコメディドラマなどにも度々出演するほどの人気はあった。
但し、このトリオは結成して1年足らずで空中分解をおこしてしまっている。
理由は、当人たちが多く語らなかったため、謎が残るが、三波伸介が一足先に東京に戻ってしまった事や、玉川良一がピンで売れるようになってしまい、方向の行き違いや仕事の混乱などが原因だった模様。
弟子だった真木淳氏は「三波さんが入ったら途端にダメになっちゃった」と、仰っていた。
大阪時代に溜めた飲み代や借金を返済するため、僅かの間であるが、大阪のコメディアン、白川珍児とコンビを組んでいた事がある。
解散後は、東本人の借金問題に加え、玉川良一の帰京など事情が重なり、開店休業の状態が続いた。
帰京後、玉川良一と「Wコント」を続けていたが、間もなく良一が単独で売れるようになってしまったため、コンビも自然消滅してしまった。玉川良一は自伝『おとぼけ一代』の中で、「五年四ヶ月」のコンビと記している。
宮城けんじの前歴
出身は宮城県。芸名の由来はここからきているのは言うまでもない。7人兄弟の4番目であったという。
3歳の時に、隣人の息子に望まれる形で、養子縁組をし、養父母のいる東京へ転居。斉藤から寺島へと改名をしている。その為、没するまで寺島姓を名乗っていた。
当時住んでいた巣鴨の家の隣に大都映画の撮影所があり、出入りをしている内に映画界隈と親交ができ、請われる形で、7歳の時に映画デビューを果たした。
母親は芸界入りに前向きであったそうだが、父親は後年まで芸人になる事を強く反対していた。その頃の思い出を記したものに『写真集懐しの大都映画』(71頁)がある。後年、関係を持つ東喜代駒の事も記されているので引用する。
私は七歳、八歳の二年間は子役として二、三本の時代劇に出演しましたが、その頃のことは、余り覚えておりませんので省きます。
その後学業のため大都の方は休みをいただき、復帰したのは中学校を卒業してからです。今の高校ではありません。旧制の中学です。私も十七歳になっていたと思います。
その頃は阿部九州男さんの時代で東龍子さんとご一緒の時でした。男の十七歳の年頃は一番役者として、監督が使いにくい年頃でしたので、私自身は泣かずとばずの時代劇で小姓などの役が多かったのです。だからその時代の大都を他人のように見て居たので、その頃のことを思い出しながら書きます。
まず本郷秀雄さんが光川京子さんと松竹から二人で大都にこられた時で、入社間もなくの作品だと思います。お笑いの東きよ駒親子との共演です。「石松の結婚」で主演をなさいました。
この時は一役者同士の出会いだったようだが、渡邊武男は『巣鴨撮影所物語』の中で、
宮城けんじが「本郷秀雄さんが光川京子さんと松竹から二人で大都にこられた時で入社まもない作品」といっている「石松の結婚」は、本郷秀雄も出演した折り、また東喜代駒親子が共演していたのである。そしてもちろん宮城けんじも出演し、お笑いの東喜代駒にいたく思い入れがあったようだ。それは後に宮城がお笑いの世界に足を踏み入れる切っ掛けになった原点のように思われる。前記著書『写真集 懐しの大都映画 もう一つの映画史』の中では単に共演した思い出として取り上げていた。
しかし宮城けんじはやがて漫才師となり、同じ漫才師の都上英二、大空ヒットなどと共にWけんじとして東喜代駒の弟子となるのである。
と指摘しているのが興味深い。ただ、宮城けんじは完全な外様で、喜代駒とは面識こそあったものの名前弟子程度の関係だったようである。面識が全くないわけでもないのだが。
駒込中学卒業後(但し『文化人名録』等では駒込高校卒や先代の東北学院中退と書いてある)、俳優を志すが、映画界ではままならず、藻掻いている内に大都映画が合併してしまった。
合併前に勉強と称して奉公に出されたムーラン・ルージュの華麗な芝居を目の当たりにし、軽演劇の俳優へと転向。
転向後、博多の川丈へ引っ越し、森川信等と共に軽演劇の舞台を踏む。しばらく同地で芸を磨いた後、一座を転々とし、静岡までやって来る。
静岡で一座を組み、仙台を訪ねた際に赤紙が届き、19歳で出征する事となる。時に1943年の事であった。
少年兵教育を受けた後に、中国の無錫に配置されて、歩兵教育を三ヶ月受ける。この頃、運転手を志願したが「生意気」という理由で殴られた、と山下勝利『芸バカ列伝』にある。
崑山の分遣隊に配属された後に憲兵に回される。憲兵試験に合格し、上海で憲兵教育を受ける。
当地で憲兵上等兵として配属されている時に終戦を迎え、軍籍を失う。憲兵ながらも心は優しく、現地の人に対しても真摯な対応をしていた事もあって、「先生」のあだ名で慕われていたという。
敗戦後、多くあった地元民の復讐に遭うことも、戦犯として捕まる事なく、帰国者を集めていた上海敷島公園まで送ってもらう恩返しを受けた。
敗戦から1年後に帰国。静岡の劇場に勤務した後、歌舞伎劇団立石や金剛座など、演劇の種類問わずに一座を転々とした。
この時、剣劇の勝見庸太郎一座で漫談の伏見知か志と出会っている。この伏見とも一時期コンビを組んでいたことがあった。
1953年、春日八郎の専属司会者となり、全国を巡業。やっとデビューした春日八郎と共に酸いも甘いも噛み分ける日々を送った。時には、春日八郎と共に楽屋でごろ寝をし、缶詰で夜を明かすこともあったという。
1954年、『お富さん』の大ヒットで春日八郎はブレイクし、宮城の生活も向上。キングレコードの専属司会者にもなった。
1956年、音羽あきらとコンビを結成。漫才コンビのようであるが、青空たのし氏によると、「掛け合いさえできれば、別に正式のコンビでなくともよかったので、こういうのを立体司会といいました」との事である。
このコンビの事は、『読売新聞』(1970年5月7日号)に出ているので引用をする。
地方のステージでは、前座に漫才などのできる司会者が必要だった。一番はじめに春日の公演の司会をしていたのが宮尾たか志、三十一年から音羽あきらと宮城けんじのコンビ。
「宮城けんじは六、七年私の歌の司会をやっていましたが、本格的に漫才をやりたいということだったので、快く送り出しました。Wけんじをみてますと、あの人のよさは今でもかわりませんね」と語っている。
このコンビ結成後まもなく、なぜか漫才研究会にも参加していた模様で、『南千住の風俗 文献資料編』の中に、
会員に紹介する人々
椿マリ子・広太郎[※以下、六組の記載有、ただし省略。また別に欠席一組(音羽あきら・宮城けんじ)の記載有。]
と、ある。長らく春日八郎一座の司会者として奮闘していたが、春日八郎のマネージャーと対立し、松山恵子の司会へと転向。ただ、春日八郎との交友は続き、生涯良好な関係を築いた。
Wけんじの結成
1961年4月、相方を失った東けんじは、松山恵子の司会として浅草国際劇場に出ている宮城けんじをスカウトし、コンビ結成を求める。宮城とはそれ以前から、司会漫才や漫才大会などで旧知の関係であったという。
そのスカウトの裏には、口下手な東でも引き立ててくれる相方が欲しいという緻密な計画があった、と『芸バカ列伝』にある。
宮城けんじは、コンビ結成と司会業の間で悩むこととなるが、春日八郎の激励に一念発起、司会業を捨てて、コンビを組むことになった。
遅咲きのデビュー故に少しでも早く売り出さんとばかりに巡業や仕事を重ね、木馬館や松竹演芸場のみならず、キャバレーや祭の余興など、休みなく働き続けた。その背景は、中年での新規参入ゆえの焦りと自信を求めていたようである。
当初はキャバレーの客に蹴られてばかりいたが、アドリブと所作のうまい東けんじに対し、畳み込むような話術と鋭いツッコミで応対するスタイルを生み出した。
その努力が実を結んでか、1962年の漫才コンクールで早くも準優勝を獲得。その時、審査員の徳川夢声に「芸は枯れていて面白いし、本来なら優勝のはずだが、これはラジオ向けだから」と評価されたのが励みとなった、と後年、『新潮』(1999年9月号 158頁)の中で語っている。
翌年の第11回NHK漫才コンクールに出場し、神津友好作『自由時間表』というネタを披露して、優勝。以下は、その出場者。
第11回 1963.2.23
優勝「時間割」Wけんじ
準優勝「お笑い歌で行きましょう」若葉茂・高山登
三位「僕は読書家」青空うれし・たのし
特別賞「お笑い花嫁学校」都上竜夫・東竜子都上秀二・西秀一、東晴々・谷朗々、南賢児・伸児、京美智子・西美佐子
マキノ葉子・ヤマト菊栄、新山ノリロー・トリロー
「スピードとおどけのコンビの味を十分生かした」話芸が高く評価されたという。
この優勝を機に、テレビラジオの引っ張りだことなり、東京漫才のスターとして君臨。『愛染かつら』や『調子いい物語』などといった作品や「馬鹿だなー!」「やんなっ!」などのギャグを生かし、八面六臂の活躍をする。『愛染かつら』の当てぶりや時折披露する黒田節などは特に評価の高いものであった。
その人気は凄まじく、寝る暇もないほどの多くのレギュラー番組や公演を抱え、最盛期にはヘリコプターをチャーターして現場を移動する程であった。一方で浅草を愛し、暇さえあれば松竹演芸場に出演する義理堅さもあった。
1966年6月、そんな激務生活に草臥れた東けんじは、ふとした失敗から錯乱し、出演をすべて放棄して、失踪。この事件は人気者の失踪として、話題となる。
以下は失踪を報じた『読売新聞』(6月15日号)の記事。
漫才の東けんじ失踪
漫才の東けんじ(本名・大谷健二さん(四〇)東京都台東区浅草三の二七の一六、みどり荘内)が行方不明になり、家族や関係者たちを心配させている。
東けんじの所属する一映プロの話によると、十三日朝、自宅を出たまま、同日、大阪・ABCホールで出演する予定の朝日テレビの「今週の花嫁、花婿」の司会、東京・渋谷の東急文化寄席でのNETテレビの「テレビ寄席」十四日大阪日立ホールでの毎日テレビ「お笑いスター劇場」の公開録画を無断休演し、15日午前零時現在、全く行方がわからない。
失踪の原因が思い当たらず、まだ警察への捜索願いは出していないが、性格は小心だという。
同日夕刊で、故郷栃木県太田原に逃げていた事が判明し、保護された。
この一連の失踪事件はマスコミの手によってクローズアップされ、「計画的失踪」「無責任」などとなじる声、「テレビ時代の弊害」「激務ゆえの錯乱」などとかばう声など、多くの賛否両論が飛び交った。その一方で、地元大田原では東けんじを激励するために後援会が出来るなど、大きな波紋を残した事件となった。
この顛末が、3号でつぶれた雑誌『寄席fan』の創刊号に掲載された『逃げる――人騒がせの記――』に出ている。同雑誌は入手がなかなか癖有りなので、全文引用する。問題あれば消します。
さきごろ、テレビ出演をすっぽかして どこか遠くへ酒を飲みにいってしまった 東けんじは……と、いまだに逃亡の責任を責められつづけで、まことにどうも、その節はおさわがせして申しわけございませんでした。
計画的逃亡とか売名的失跡だとか、どう云われましてもごもっともで、とにかく逃げたのはまずかったです。
じつはあの日(六月十三日)の予定は 「東京駅発、午前九時の新幹線で大阪朝日テレビの「今週の花嫁花婿」の司会をやりすぐ飛行機で東京へ折りかえして、NET「テレビ寄席」出演のために渋谷東急文化にかけこむという予定になっていたわけですが……。
前の晩、仕事が意外と早くあがったので家でちょいと一ぱい、友だちから電話で呼び出されて浅草から上野のバーをはしごして、駒込のファンの家にころがりこんで、そのまままぐっすり、目がさめたら十三日のお昼すぎで、「オオ!」とばかりにはねおきたが、もういけません。きめられた列車にのりおくれた。番組にアナをあけた。オレはもうダメだ。 どうしよう。酒をのみすぎてこれは寝すぎたしくじった。カメと競争したウサギじゃあるまいし、いまさら赤い目をしてどこへあらわれたらいいんだ……そうだ、逃げよう! そう思ったらまるで追われる殺人犯のような心持ちになって、 とにかく上野から汽車に乗りました。乗ってから「ああオレは故郷へ逃げるんだな」と気がつきました。
汽車のなかで二、三の人から「あれは東けんじじゃないか?」とゆびさされて背なかにドッと汗がながれた。デッキへ行ってそとの景色ばかりながめていまし た。「どうしてオレはこんなバカなことをしでかしたのか」汽車の窓から見えるたんぼで、働いている人たちの姿が平和で幸福そうで、うらやましくってタメ息が出ました。
宇都宮、西那須そして故郷の大田原市についたのは夜の七時ごろでした。追いまくられるような毎日のくらしのなかでまるっきり思い出しもしなかった故郷の町は、数えてみると八年ぶりでした。
いまごろ大阪では相棒の宮城君はどうしてるだろうか、みんなにとりまかれてあやまっているだろう。「すまない宮城君、カンベンしてくれ」
もうそれは考えないことにして、大田原駅に顔を出すと「いよう!」というんで、みんながビックリした。私はこの町で生れて、戦争中この大田原駅で小荷物係をやっていた。そして当時の同僚がこの駅の助役に出世していた。早速あっちこっち電話して、昔の友だちがみんな集ってきた。ファンが駅の窓に鈴なりに顔をならべてなかをのぞきこんでいる。
「よくきたな、けんちゃんさァとにかく一ぱいやっぺ、乾杯!」「オー!」
飲んでいるうちに気が大きくなった。
(これだから、オレはどこかオカしいんじゃないかな)
「けんちゃんよ、有名になったもんだ、 いまじゃおめェもテレビのスターちゅうもんだべ」「大田原の名士だよな、よく昔の仲間忘れねェでけえってきてくれたよなァ」
じつはコレコレで逃げてきたなんと云えなくなっちまって、「オレ休みとれたもんだから……」とかなんとか、さすがにいくらのんでも酔った気分にはなれませんでした。
翌る日に黒羽町へいくと、さあ大変なことがもちあがっていました。地元ではいま東北線西那須と黒羽をむすぶ東野線が赤字路線のために廃止されようとしているので、町ぐるみの「撤去反対」猛運動のまっさいちゅうだったのです。
「いいとこへきてくれたでねェか、けんちゃんョ、あしたは反対期成同盟の大会だ、それに出て大いにやってくれるっぺ」 「うん、ともなんとも、云わないうちに 『オー!東けんじ来る』と書いたビラが町のなかにベタベタはられ、反対期成同盟の士気はおおいにあがった。ビールの栓がジャンジャンぬかれ、いつのまにかオレも、そのつもりになって、「撤廃反対! オー! やんな!」てなことをさかんに叫んだらしい(すみません無責任なハナシです)。
そしてその晩、所属する一映プロの大木マネジャーがとうとう居場所をつきとめて、スッとんできた追手に、あっ気なく「御用」になってしまったのです。す ぐに東京につれもどされたわけで、次の日の反対大会に六百人ほどの町の人が集ったそれをまたスッぽかした結果になってしまった。「フッと湧いたようにきて、 パーツと蒸発しちまっただ」反対同盟の会長さんは呆れてそう云ったそうで、すみません、といってもすむこっちゃない。 ペテンにかけようと思ってしたことじゃないんです。カンベンして下さい。
それから銀座のレストランでおわびの記者会見をするというんで行ってみたら五六十人の記者団、こりゃいかん、殺される!と思ったら、足がすくんで歩けなくなりました。
もう二度と芸能界へは復帰できないと覚悟をしていたのですが、ありがたいことで、その後どこからもシメ出しをされず、なんとかやらせてもらっています。
四方八方あやまりにまわって、舞台の上からもお客さんにあやまって、それでなんとか逃亡事件は帳消しにしてもらいましたが、どうも気にかかってならないのは、生れ故郷の人たちをスッぽかしたことです。
八月十一日、ふたたび故郷の大田原にゆけることになった。こんどは逃亡者としてでなく、堂々とWけんじ後援会の招きで、劇場を二ツあけるためです。お詫びの公演です。一行はアチャラカ爆笑隊鹿島ファーミリ、玉川スミ、松島えんじ、桜井長一郎、桂米丸、さえずり姉妹。超満員の劇場で、しみじみと故郷のよさをかみしめました。
ふるさとは遠きにありて思うもの……というのはありゃウソですね。旗をたてた十数台の自動車パレードで、久しぶりに晴れがましい気持にさせてもらって、 正直、故郷に錦をかざらせてもらいました。
大田原の町の朝空にドカンドカンと花火がこだました。「なんだっぺや?」と外に出た人たちの耳に、パレードに加わった放送車からのアナウンスが聞えた。『Wけんじさん一行がただ今到着いたしました、Wけんじが本当にまいりました』町じゅうの人にまたウソだろうと思われるといけないので、主催者側も気をきかせたのにちがいない。
東京をドロンして逃げた大田原をまたドロン、Wドロンをした私を故郷の町ではあたたかくむかえてくれたのです。
「よく故郷を忘れずに逃げてきてくれた」そういって小学校の同級生一同がWけんじ後援会をつくってくれました。昔の職場の同僚たちも集って、もう一つ後援会をつくってくれました。
この前逃げてきたときは、たんぼにホタルがとび、蛙の声がいっぱい、敗残者のみじめさでした。その同じたんぼにもう稲の穂が出て、パレードの道中はせみ しぐれのなかをゆきました。そして帰りの車に後援会の連中がモギたてのとうもろこしを積んでくれました。昔の友だちってものはいいねえ、気持がさっぱり変らない。夢のように楽しかった一日の公演でした。
それにつけても迷惑のかけっぱなしをしたうえ、私の故郷までつきあってくれた相棒の宮城君、ありがとう、心からお礼を云います。
そのほか、かげでいろいろとかばって下さった先生がたや先輩、ついでで、すみませんが、ここでひとことお礼を申しあげておきます。
もう、仕事から逃げるようなことはしません。と、いって酒をやめる、といってはウソになるんで、こればかりはどうも、ほかになんの楽しみもないもんでし て……いえ、ほんとですよ、そうですか、それじゃ呑んでもいいんですね。じゃ早速今夜も……どうもすみませんね、いただきます。
事件以後も人気を保ち、古巣の浅草で相変わらずの人気を集める。
東京漫才の幹部として
1966年7月9日、初のリサイタルをサンケイホールで開催。
第一部には神津友好のコメディー『東京見物』を出して、米丸、円鏡、三平、談志、トップライト、ピーチクパーチクなどと共演。第二部には漫才三題を持ってきて、秋田實の新作を披露。助演には、てんやわんや、洋介喜多代。(『読売新聞夕刊』6月28日号より)
1975年、NHK漫才コンクールで、弟子のWモアモア「沖田総司」で最優秀賞を受賞。
しかし、1970年代より、東けんじが体調不良に苦しむようになり、活動が思うようにならなくなる。
そんな心労や不摂生が祟る形で、1977年3月3日、東けんじが病に倒れ、日本医科大学附属病院に入院。検査の結果、胃潰瘍、慢性肝炎、糖尿病、上行結腸憩室を患っていることが判明。
手術や治療で一命はとりとめたものの、このころから病気に悩まされるようになり、ネタや舞台のキレが一時的に悪くなったこともあって、人気も低迷。
しかし、東けんじはリハビリと断酒の末にかつての覇気を取り戻し、宮城けんじとともに、新たな話術を模索。これまでの鋭い話芸とアクションの多い漫才から、程よいテンポと間を活かした円熟の話術へと転換し、独特の味のある漫才を作り上げた。
但し、当たりネタを封印したというわけではなく、調子が良ければ、相変わらず曲技風の所作を見せることはあった。
1977年10月31日、浅草公会堂落成記念式典の『浅草喜劇祭』に出演。由利徹、長門勇などと共に共演し、浅草公会堂の華を飾った。(『読売新聞』10月25日号より)
回復後は、1979年に始まった『花王名人劇場』を筆頭に、『笑点』、『ひるのプレゼント』、『お好み演芸会』などに出演。
1980年3月23日に放映された『花王名人劇場 漫才決定版』で演じた『愛染かつら』は、特に強い注目を集めたという。
その勤勉さと人気を買われる形で、1980年4月上席より落語芸術協会に入会し、寄席の定席に出られるようになった。
このような地道な活躍と鍛錬によって、再び人気を取り戻し、名実ともに東京漫才の大御所として君臨するようになる。
1980年10月、Wエースが真打昇進。
1984年3月8日、宮城けんじは関敬六等とともに喜劇一座「浅草笑友会」を結成。同月26日、木馬亭で旗揚げ公演。 (『読売新聞夕刊』3月14日号より)
70歳を過ぎると東けんじが病に伏せるようになり、休演や入退院などを繰り返すようになったが、それでも舞台を放棄する事はなく、体調と相談しながら精力的に出演を続けていた。
1998年11月20日、東けんじは重い病身を押して、浅草公会堂で行われた漫才大会へ出演。十八番の『娘の誕生日』を披露した。これがWけんじとしての最後の仕事となり、再び入院。舞台へ戻ってくることはなかった。
最後の舞台を終えた時、東けんじは自分が着ていた服を名残惜しそうに見つめ、「脱ぎたくないね」と感慨深げに呟いたという。
1999年1月、東けんじの死去により、Wけんじは永遠の解消となり、宮城けんじは司会漫談に戻った。但し、当人の老いや相方を失った事情もあり、活動は少しずつ停滞していった。後年、個人活動の傍らで新宿にバー『宮城』を開業し、こちらの経営が主流になっていった。
晩年は店の切り盛りをしながら、時折舞台や総会に出る日々を過ごし、宮城けんじ名義で落語芸術協会と漫才協団に籍を置き続けた。
2003年10月12日には、会津坂下町で開催された春日八郎の十三回忌追悼式典に参加、建立された銅像披露の場に並び、かつての恩人を偲んだ。
2005年春に肺癌のために入院。快復に努めたものの、10月19日に相方東けんじの下へと旅立った。
コメント