宮田昇司・陽司

宮田昇司・陽司

宮田昇司・陽司(宮田陽氏・提供)

宮田ダイヤ・モンド時代の陽司(右が陽司?)

人物

 人 物

 宮田みやた 昇司しょうじ
 ・本 名 山崎 安富
 ・生没年 1933年3月19日~2021年6月21日
 ・出生地 東京 北千住

 宮田みやた 陽司ようじ
 ・本 名 岩下 禮次郎
 ・生没年 1930年~2011年以降
 ・出生地 熊本県

 来 歴

 2021年6月24日、宮田章司氏の訃報を知った。21日に老衰のために亡くなったという。享年88歳。

 お年の上とはいえ、やはり哀しいものは哀しい。

 深い交友こそなかったが、数度取材をしたのと、氏のパートナーである松旭齋小天華氏のご協力で、謎の多かった「宮田昇司・陽司」の謎をひも解けた――そうした一期一会の思い出がある。あのメリハリのある声とキリっとした風采を思い出す。

 今はただ、ご冥福をお祈り申し上げる次第である。そして、追悼を含め、「昇司・陽司」時代の知られざる漫才師時代をここに記録しておく事にした。

宮田昇司の前歴

 宮田章司の経歴は、自著『江戸売り声百景』に簡潔ながらも掲載されていて、貴重。

 七人兄弟(男3人・女4人)の次男として出生。実家は当地で魚屋を営んでおり、父親は風采・言葉遣い共に文句なしの江戸っ子だったという。幼い頃から江戸弁や物売り声に囲まれて育つ。

 千住第七小学校(現・千寿桜小学校)に入学後、太平洋戦争が勃発。1944年、長野県湯田中への集団疎開をするも、年明けに、卒業式の為に帰京。その直後東京大空襲に遭遇。3月10日の空襲では焼け残ったものの、14日の空襲で焼き出され、火の海の中を逃げ惑う事となる。

『江戸売り声百景』によると、母と妹弟は茨城県の縁故に疎開、父親は魚の仕入れへ千葉県に行っており、難を逃れた。東京で家を守っていた兄と共にトランク一つ、自転車に乗って千住大橋まで命からがら逃げだして、何とか助かったという。

 卒業式の為に帰京し、焼き出された経験の持ち主に、永六輔などがいる。

 焼け出されたと同時期に小学校を卒業し、地元の中学へ進学するも、空襲や爆撃で校舎が存在せず、また同年の終戦を受けて、すぐさま学校に行かなくなる。

 それから数年間は、弁当を持って学校へ行く振りをしては、千住大橋や浅草を出歩き、口上芸や大道芸を見聞する日々が続いた――と自著『江戸売り声百景』の中で語っている。

 16歳の頃からドラムをはじめ、芸人の卵として、劇場を出入りするようになる。

 18歳の頃、ハッピーボーイズのメンバーだった地下鉄男に声をかけられて、漫才コンビを結成。余談であるが、地下鉄男が在籍していたハッピーボーイズのリーダーは中野四郎で、後年同じ漫才業を歩む事となる。

 この「ハッピーボーイズ」をよく知る青空たのし氏に以前話を聞いた所、「地下鉄男ってのは本名を馬場といって、なかなかひょうきんな男で……みんな、馬場、馬場って呼んでましたね」。

 相方の地下鉄男の紹介で大朝家五二郎の経営する「東京芸能公社」に入社。大朝家五二郎や、五二郎の弟子で、公社の女番頭を勤めていた大朝家富久娘の世話になる。当人から聞いた話では「五二郎さんにはお世話になった。五二郎さんが社長で、富久娘さんが仕事を取ってきては割り当ててくれる。あの二人はやり手だった。五二郎さんは晩年が可哀想だった」云々。

 間もなく地下鉄男が会社から離脱した為(当人やたのし氏の話をすり合わせると「ハッピーボーイズ」を脱退した模様)、多くの芸人たちと臨時コンビを組み、地方巡業や演芸会に出演する日々を過ごした。

 この頃、漫才師時代の坂野比呂志と交友を持ち、ずい分と可愛がられたという。この坂野の芸や死が、後年の売り声に繋がったのだという。

 1953年頃、漫才のコツをつかみ、轟ススムとコンビを結成。ギターとハーモニカーの音曲漫才であった。

 当時を知る青空うれし氏曰く、「ススムさんが汗びっしょりになってハーモニカを吹く漫才でね、迫力があったよ。兎に角ススムさんが熱演型だからか、昇ちゃん(氏は宮田氏をこう呼ぶ)の姿、あんまりその時代の印象ってのがないんだよね」。

 1954年、宮田洋容門下に入り、翌年、「宮田」の屋号を貰う。それから間もなくして、宮田陽司とコンビを結成。「昇司・陽司」を結成した――というのが、定説であるが、『芸能画報』(1956年4月号)の写真に、宮田陽司が「ダイヤ・モンド」名義でやっている所から、本格的にコンビを結成するのはもう少し後のようである。

 また、宮田羊かん氏は、「あの二人は洋容先生の名前弟子みたいな形で、早くから独立してやっていたよ」と証言しておられたが――ただ、「宮田」の屋号を生涯手放す事なく、名乗り続け、弟子たちにも継承させたのは大きい。

宮田陽司の経歴

 宮田陽司は、宮田洋容の親戚であったという。兄弟弟子にあたる宮田羊かん氏によると、「陽司は、師匠洋容の甥で、床屋の倅だよ。師匠頼って上京してきてね、漫才師になった」とのことであるが、第17回NHK漫才コンクールのパンフレットの中には、

「陽司は九州の熊本出身、羊容のイトコに当る。かつては歌手を志したこともある。」

 とあり、詳細は不明。筆者としては、長く親交のあった羊かん氏の話を取る。どちらにせよ血縁関係のある親戚だというのは確かなようである。

 熊本から親戚の洋容を頼って上京。当初は歌手志望であったが、まもなく親戚の洋容を頼って、漫才へ転向。昇司とコンビを組む前は「宮田ダイヤ・モンド」という名前で漫才をやっていたという。

 当時を知る宮田羊かん氏曰く、「(上の写真を見ながら)ダイヤ・モンドのどちらかが、陽司なんだよ。もう片方は、マジマっていうやつだった。大空曇天とは違う、また違う別人だったよね」。

昇司・陽司売り出す。

 このコンビはすぐに別れ、1955年に同門の宮田昇司とコンビを結成。「宮田陽司・昇司」となった――というのが定説であるが、前述の通り、経歴には若干齟齬がある。

 また、1969年に行われたNHK漫才コンクールの中のパンフレットに「コンビすでに十三年。」とある所から、本格的なコンビ結成はもう少し後だった模様。

 コンビ結成後、栗友亭などに出演するようになる傍ら、司会漫才の勉強をはじめるようになる。 1958年、宮田洋容が漫才研究会から脱会した際には師匠に同行。東京漫才協会の設立に関与した。 1963年、こまどり姉妹の専属司会となる。この時一緒に専属を結んだのが新山ノリロー・トリロー、ダーク大和であった。

 1964年に三沢あけみの専属司会になってから司会漫才のホープとして売り出す。

 1965年に『11PM』の準レギュラーとなり、番組内で行われるプチ漫才などを担当した。

 同年春、第17回NHK漫才コンクールに出場。『今とむかし』を披露した。 入賞には至らなかったものの、漫才協団派閥ではない、洋容一派の出演という事で、ちょっとした話題になった。

 ただ、矢野誠一からは「発想は、なんとも素人っぽく、貧困な手の内をさらけ出した感じ。」とボロカス貶されている(もっとも矢野氏の好き嫌いが激しすぎ、言葉がきついのでどこまで信用していいのやら)。

 また、この頃、星夫・月夫、順子・ひろし、京太・京二などによって結成された『グループ 21』に、少し遅れながらも、参加している。

 1968年、『ひばりはひばり』に出演。伴淳三郎や坂野比呂志などに可愛がられ、多くの歌謡ショーや喜劇などに出演。

 1970年ころ、諸事情の為、コンビを解消。陽司は一線を退いた。ただ、不仲での解散ではなく、コンビ解消後も両人の交友は続いたという。

陽司のその後

 宮田羊かん氏によると、陽司は、性格はおとなしく、虚弱体質だったという。そういった事情も引退に繋がったもっようか。

 漫才界から引退した陽司は、司会漫才時代に知り合った歌手の並木路子が経営していた歌謡パブ「BlueSpot」の店員になったという。

 青空うれし氏によると、「道玄坂に並木路子さんの店があって、そこにちょくちょく遊びに行っていたんだが、そこで陽司が働いていたんだよなあ。結構長く働いていた気がするが……」との事である。

 並木路子が店を閉める平成一桁頃まで健在だった。また1987年頃より、章司とのコンビを復活。松旭斎小天華氏によると「洒落でコンビを復活しました」との事である。

「司会漫談」として、コンビで仲良く東京演芸協会に入会。1994年頃まで、時折活動をしていた。

 その後も宮田章司との交友は続いたが、2011年の東日本大震災前後に消息不明となってしまったという。

昇司のその後、「章司」と改名、売り声漫談。

 宮島一茶とコンビを組んで浅草の松竹演芸場や放送などに出演。若手のホープとして注目されたが、息が合わず(当人から聞いた話では、一茶の粗暴な性格が嫌だったとか)、このコンビは長くは続かず、1976年頃解散している。

 漫才界から一線を退いた後は姓名判断に従って、「宮田章司」と改名した。ただ、表記には結構ずれがあり、その前から変えていたのではないか――というのもある。

 以降は司会漫談の道に進むようになり、多くの大御所歌手と共演。

 1981年には「和田弘とマヒナスターズ」の専属司会として長らく舞台を支えた。 司会者の傍ら、新山ノリローのノリロー劇団への参加をするなど、旧知との交友もあった。

 1985年ころから数年間、新山ノリローとシャレでコンビを組んだことがある。

 新山ノリロー氏いわく、「別にコンビ結成と表明したわけじゃないけども、テレビやラジオにも出たからまあコンビっちゃコンビだよねえ」。

 また、陽司ともコンビを復活させて、司会漫才として東京演芸協会に入会するなど、独自の路線を歩んだ。

 1990年、長年可愛がってもらった坂野比呂志の死を受けて、大道芸漫談と売り声への興味を深め、勉強をはじめるようになる。子供の頃聞き覚えた売り声や漫才時代のネタをうまく絡み合わせた「売り声漫談」を創始。

 司会漫談や公演の傍らで、話術や技芸を磨き上げ、落語会などにも出演するようになる。

 話術やスタイルが出来上がったのを機に、売り声漫談を中心にシフトチェンジ。

 後年、落語芸術協会に出入りするようになり、定席へ出るようになる。本格的な参入は2002年頃か。この協会の先輩には妻の松旭齋小天華氏がいた。

 以来、寄席を中心にテレビやラジオで活躍。寄席のお馴染みの顔となった。

 2000年4月、宮田小介が入門。幼馴染と組んで「大介・小介」を結成。これを解消し、「ざっくばらん」を経て、今は「左利き」として活躍。

 2001年5月、漫才コンビの「コックローチ」が一門に入門。「宮田陽・昇」と改名する。その活躍はご存じの通り。芸名は、宮田陽司・昇司から名付けた物か。宮田一門への入門は小介より少し遅いが、陽・昇コンビの方が経歴が長いため、「兄弟子」として表記されている場合が多い。

 この2組は実に仲がいいが、どういう風に捉えればいいのか、ちょっと伺いたい所ではある。

 2003年には半生と売り声のアレコレをまとめた『江戸売り声百景』を発表。

 この頃から寄席出演の傍ら、売り声の実演や講演にも力を入れるようになり、その研究や実演の成果は『江戸売り声百景』や『台東芸能文庫』で見る事が出来る。

 2005年7月、ストレート松浦入門。他業種の弟子であるが、色々と面倒を見たと聞く。後年、落語協会に入会して、今の活躍に至る。

 2012年には売り声をまとめた『いいねぇ江戸売り声』を発表。

 何度か病気に倒れるものの、一線を退くことなく、矍鑠と舞台に上がり続けた。売り声の啓蒙に取り組み、「売り声」を寄席芸として確立させた功績は大きい。 

 2018年8月絵本『江戸の長屋の朝・昼・晩』、同年12月に絵本『江戸の春、夏、秋、冬』を出版。

 2019年頃まで矍鑠と舞台に出ていたが、老年や病気の為に一線を退いた。最後の舞台は、2019年7月、新宿末広亭中席だろうか。

 宮田小介氏の記事を見ると、「昨年心筋梗塞で倒れた」とある。

 コロナ禍もあって長らく静養をしつつ、復帰の機会を待っていたが、2021年6月、88歳で逝去。「東京漫才協会」の生き残りとして、色々と聞いておきたい事もあったが、こればかりは仕方ない事である。

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