桂光一・光二

桂光一・光二

桂光一・光二(左)

 人 物

 かつら 光一こういち
 ・本 名 関根 清一
 ・生没年 
1953年6月16日~ご健在?
 ・出身地 東京 北区

 かつら 光二こうじ
 ・本 名 関根 次郎
 ・生没年 
1961年1月26日~没
 ・出身地 東京 北区

 来 歴

 桂光一・光二は戦後活躍した漫才師。父は桂竜夫、母は桂竜子。桂ひろみは姉妹にあたる。そっくりな風貌と息の合ったしゃべくり漫才で人気を集めたが、早くに別れた。

 父は桂竜夫、母は桂竜子。桂ひろみは姉妹。母方の祖父は片岡幸昇という太神楽の芸人で、三代続く名門の家柄であり、東京漫才では珍しい親子二代での漫才師であった。

 幼い頃から楽屋に出入りをして、漫才師や落語家たちに可愛がられた。

 兄・光一は授業参観で漫才を演じ、桂竜夫・竜子の目を白黒させたなどという逸話も残したという。

 両親は息子の芸人志望を聞き、関西の人気漫才師、若井はんじ・けんじを斡旋している。

 1967年、弟子分となった光一は「若井こういち・こうじ」と名乗る。中学卒業後、本格的に漫才師となり、若井はんじ・けんじに同行。3年ほど少年漫才師として腕を磨いた。

 1970年頃、妹の関根喜代美とコンビを組み、「桂光一・ひろみ」。

 1974年2月には、第22回漫才コンクールにも出場。

 1975年には父母の斡旋で落語芸術協会にも所属している。

 数年ほど漫才をやっていたが、ひろみの一身上の都合や弟・次郎が「漫才をやりたい」と申し出たことによりコンビ解消。

 1976年、弟とコンビを組み、「桂光一・光二」を結成。

 弟も両親や兄姉の存在もあり、幼い頃から演芸に囲まれて育ち、早くからお笑いの道を志すようになった。

 中学卒業後、父母の門下ということでデビュー。1976年、正式にデビュー。

 兄弟そっくりの風貌を生かした面白さと、オーソドックスなしゃべくり漫才を展開し、若手漫才師として認められるようになった。

 若いころは芸の虫として知られ、親も驚くほどの器用な芸取得をみせた。落語芸術協会所属という肩書もあり、落語家たちとも仲が良かったという。寄席漫才のしゃべくりとして期待された時期もあった。

 1977年3月、第25回漫才コンクールに出場し、「家」を披露。わずか16歳での出場であった。

 1978年3月、第26回漫才コンクールに出場、「漫才誕生」を披露。

 1979年3月、第27回漫才コンクールに出場、「どうなってんの?」を披露。

 1979年、「光一・光二とパック」なるロックバンドを組み、50曲以上の作品を自作していたという。異色の漫才師としても注目を集めた。

 1980年2月、第28回漫才コンクールに出場、「お笑い‘80」を披露。

 1981年2月、第29回漫才コンクールに出場、「ことわざ問答」を披露。

 1982年2月、第30回漫才コンクールに出場、「夢を持とう」を披露。

 1983年2月、第31回漫才コンクールに出場、「通信論争」を披露。

 1984年度は仕事の関係か、出場が出来なかった。

 1985年2月、第33回漫才コンクールに出場、「もちつもたれつ」で悲願の優勝。

 1985年2月、「もちつもたれつ」で第33回漫才コンクールを優勝。さらに同年10月、国立演芸場花形新人銀賞を受賞。

 1986年2月20日、父・竜夫を失う。

 コンクール優勝・銀賞という威光もあり、メディアや寄席などで活躍。次世代の寄席漫才師として前途を期待された。一方、光二には良くも悪くも芸人気質のやんちゃ・無茶があったそうで、心身の波や不安定が付きまとったという。

 長らく自分たちの事務所「光一・光二事務所」を持っていたが、平成改元と共に閉鎖。

 1989年4月、サワズカンパニーへ移籍。

 所属先の社長のすすめや自分たちの心機一転の気持ちもあり、1990年8月「凸凹一番・二番」と改名。

『国立劇場演芸場』(1991年5月号)によると、三波伸介の人気番組『三波伸介の凸凹大学』からヒントを得たという。

凸凹一番二番の旧名は桂光一・光二。いまはなつかしい桂竜夫・東竜子の実子で漫才生活も十七年、本会でも銀賞を受賞しています。改名したのは「心機一転したかった」からで、凸凹は故三波伸介の人気番組だった「凸凹大学」にあやかったもの。テレビのレポーターや地方巡演で寄席にはご無沙汰ですが、「出演するからには金賞を狙います」と。激戦の花形演芸会になりそうです。

 1994年頃には身体を壊し、2年近くにわたる闘病生活を送っている。

 その間、若手の三田和矢とコンビを組み「光一&和矢」として弟の復活を待った。

 1996年から半年ほど、「凸凹一番・三番」と名乗って高座に上がっている。

 1996年頃に弟は復帰したものの、どういうわけか芸術協会を退会。漫才師として活動しながらも、籍は一番しかない――という複雑な状況にあった。

 2000年8月、国立演芸場出演を最後にコンビ解消。

 2003年春に芸術協会も退会。事実上の引退となった。

 轟夏美氏の話では、光一は轟ススムの次女をめとったそうで、舅も漫才師であったという。

 光二は引退して間もなく夭折したと聞く。

 2019年頃、轟氏にお話を伺った際には、芸人こそやめたものの健在であるような事をおっしゃっていたが――楽屋話では一般職に転職し、そこで生計を立てていたという話であるが、どこまで信用していいのやら。

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