青空はるお・あきお

青空はるお・あきお

青空はるお・あきお(右)

デビュー間もない頃の二人

 人 物

 青空あおぞら はるお
 
・本 名 坂上 洋祐
 ・生没年 1937年11月5日~2010年代?
 
・出身地 新潟県 三条市

 青空あおぞら あきお
 ・本 名 横山 孝信
 
・生没年 1930年9月26日~2014年6月20日
 
・出身地 富山県 富山市

 来 歴

 青空あきおは元の大空はるか。大空一門から青空一門へと移籍してきた珍しい例である。

 薬品製造及び薬売り(富山の薬売り)を営む家に生れ。日本大学芸術学部映画科に進学するも中退。

 舞台芸術学院で舞台監督の勉強をしていたところ、周りに漫才を勧められ、1957年12月、大空ヒットの門下に入り、「大空はるか・かなた」してデビュー……というのが通説であるが、舞台監督時代に左翼演劇グループ『海つばめ』に入っていた事がある。

 1957年12月、ケーシー高峰とコンビ結成。栗友亭を中心に若手として注目されるが、数年で解散。その後、弟弟子の大空曇天、大空かんだなどとコンビを組んで、「大空はるか・かなた」を続投したが、訳あって大空一門を破門される。

 あわや廃業という時に、コロムビアトップに拾われ、青空一門に加入。「青空あきお」と名乗り、兄弟子の初代青空月夫――コンビを組んで「はるお・あきお」となったが、これはすぐに別れた。のちに紹介する青空はるおは二代目という事になる。

 青空一門の仲間たちとコンビをとっかえひっかえしているうちに、

 出身は新潟。地元の中学卒業後、集団就職で新潟から上京し、本所の「スター」という洋服屋で勤めていたが、漫才師を志し、1958年ごろ、栗友亭で弟子入りを志願するが断られる。

「一度は夢諦めかけたはるおにトップ・ライトを仲介して、はるおを弟子入りさせたのは自分」とは青空うれし氏の証言。曰く、

 はるおがはじめて栗友亭に来た時、余りに恰幅がいいから皆どこぞの社長か旦那かと思って、ビビったんだ。スーツ着ていたしね。『なんか御用ですか?』って聞いたら、『僕、漫才師になりたいんです』って、弟子入り願い出たもんだから、楽屋中ひっくり返ったのを覚えているよ。でもその時は、師匠総出で『この稼業は食えないからやめなさい』って体よく追い返したんだよな。

 断られてしょんぼりと帰っていく坂上青年に同情したうれし氏は近くの喫茶店でやる気を問うた上で、1年間米屋に奉公することを条件に弟子入りさせたとの事で、

「本当に漫才師になりたいか、と聞いたら、『ハイ』っていうもんだから、こっちも引けなくなっちゃった。『(師匠に)すぐに口を聞いてもいいが、トップさんは中途半端が嫌いだ』とか何といって、どこかで一年働いて直ぐに辞めない自信がある事を信用させて、それからトップさんの元に連れて行ったことがある。」

 ちなみに入門直前まで田園調布にあった武田健三(2代目たのし)の家に居候をしていた、という。

 その真面目さが認められ、約束通り、青空一門に入門。弟子としての下積みを積んだ後、1962年、青空あきおとコンビを組んで、「青空はるお」となる。名前の由来は「春秋」であるのはいうまでもない。

 恰幅のいい体格といかさま外国語を武器に徹底的なボケ役に徹し、あきおを煙に巻く漫才を確立。

 1965年、NHK漫才コンクールに初出場。この時には入選できなかったという。 

 1966年2月、「ぼくは芝居通」なるネタで第3位。

 1967年、『私の献立』というネタで第15回NHK新人漫才コンクール優勝を果たし、一躍スターダムに躍り出た。特に中国語の真似が得意で、舌足らずの中国語は爆笑を誘った。

 当時のパンフレットがあるので引用する。

「わたしの献立」青空はるお 青空 あきお 

 コロムビアトップさんの門下生。 昭和37年にコンビ結成。今年で三度目の出場である。
 身体中どこもかしこもまん丸で、色あくまでも白いはるおさんは越後の産。
 細くて顔あくまでも長く、手足も長く鼻下に美髭(?)をたくわえたあきおさんは越中の産。
 コロムビアの専属として司会業の長かったお二人だが、今年こそ司会業の方を整理して漫才に本腰を入れてとり組んでみたいとのこと。

 凸凹で個性的なキャラクターからCMやメディアにも積極的に出演。師匠の紹介で都はるみの専属歌手を務めていた。

 1968年4月、当時の漫才協団の若手達と結束をして、「グループ21」を結成。あした順子・ひろし、東京大坊・小坊、大空みつる・ひろし、松鶴家千とせ・宮田羊かんなどと技芸を競い合った。

 1968年10月7日から1969年3月24日にかけて、日本テレビで放映された『怪盗ラレロ』の主役に抜擢される。あきお扮する怪しい怪盗・ラレロと、はるお扮するおとぼけ探偵・ポポポの役が見事にハマり、大人気作品となったほか、児童雑誌にも漫画が掲載された。

 長らく東京漫才のスター分として、活躍を続けたが、徐々にコンビ仲や芸の行き詰まりを起こすようになった。

 1970年1月、角座「松竹創立75周年記念特別興行」の下席に特別出演。

 他の出演は、ワカサひろし、東文章・こま代、加茂川かもめ・ちどり、浅田家ニット・エミコ、捨丸・春代、春野百合子(浪曲)、古川二三子・一郎、ゼンジー中村・美香(奇術)、桂春蝶(落語)、宮川左近ショー、吾妻ひな子(女放談)、ジョウサンズ、中村三津徳(河内音頭)。

 1972年10月4日、新宿朝日生命ホールで開催された『日ノ本村の村祭り 漫才バラエティー』に出演。同会の模様は、録画され、10日に放映されたものの、この打ち上げではるおは二人の関係が限界に達していることが判明し、事実上これが最後の仕事となった。

 1972年10月31日付でコンビ解散。この解散には悶着があったというが、両人共に解散理由を深く語る事はなかった。

 ただ、遠藤佳三氏から直接伺った話+氏の著作『東京漫才うらばな史』によると、1971年に作られた真打制度に原因があったという。以下はその引用。

 この回はNHKがテレビカメラを持ちこんで、一時間番組、塚田茂構成 「日の本村の夏祭」を制作した。漫才バラエティーと銘打ち、全員に出演の機会が与えられたが、 事実上は、てんや・わんや、晴夫・あきら、ノリロー・トリロー、はるお・あきお、上方から来演の海原お浜・小浜の五組の漫才をクローズアップするものだった。
 大会は成功したが、そのあとの打ち上げパーティーの席で雰囲気がおかしくなった。 翌年の真打は青空はるお・あきおの予定だったが、彼らにはコンビ解散の噂が流れていて、当夜のパーティーが、ノリロー・トリローを祝福する一方で、はるお・あきおに真相を確かめる会 になってしまったのである。そして彼らの不仲が抜きさしならぬものであることを知って、関係者は頭をかかえたのである。そればかりか、はるお自身が、自分たちがもとでパーティーがもやもやしはじめたのを知って、マイクの前で詫びながら、
「はっきりさせないと、来年の大会にご迷惑をかけるので、ここで申しあげます。私たちは解散します。もう気持ちは変わりません」
 と宣言してしまったのである。真打 問題がなければ、はるお・あきおの仲はもう少し続いただろう。コンビ解散のないようにと作った真打制度が、かえって解散を早めてしまったのは皮肉だった。

 コンビ解消後、あきおの活躍は前述したとおり。 個性派俳優として長らく堅実な活躍を示した。 

 はるおは、タレント路線に進み、バラエティー番組や喜劇映画への出演のほか、「ウィークエンダー」のレポーターとしても活躍した。ウィークエンダーでは、兄弟子の青空うれしと共演しており、よくいじられたという。

 ウィークエンダー終了後は風俗リポーターや風俗ライターとして活躍。いろいろな店を見聞し、出入りしていた強みを生かして、全国の風俗店の運営指導や客を喜ばせるテクニック講習のような事を開催して、なかなか稼いでいたそうで、うれし氏によると、

 当時は景気も良かったし、風俗も盛んだったから新規参入なんて業者が結構いたんだな。でも、相当のやり手じゃなきゃ、普通はどういう接客やプレイを行えばいいかなんてわかりゃしない。はるおは、そこに目を付けたんだな。なんせタレントとしての実績もあるし、風俗ライターとしても人気がある。そこで、風俗嬢や関係者の前で実戦や経営の良し悪しを話していたそうなんだよ。こうすると客が喜ぶ、これは客が嫌がる――と手取り足取り教える。当人の実戦経験が裏打ちされているから、そこで成功した店も多かったと聞くぜ。で、当人も色々よくして貰って、「兄さん、風俗の極意を手取り足取り教えて、がっぽりもらえるんだからこんないい仕事はない」なんて、吹聴していたのを思い出すよ。

 晩年は埼玉県越谷の方に引っ越し、闘病に当たっていたそうであるが、2010年代に亡くなられたと聞く。

 うれし氏曰く、「確か、トップさんの葬儀に行く行けないとかなんとかそんな話があって、それからしばらくして、奥さんだったか、子供だったからか『亡くなりました』なんて話を聞いた。例の震災前後だとは記憶しているが……」

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