勝昌介

勝昌介

在りし日の勝昌介(扇家勝利と)

 人 物

 かつ 昌介しょうすけ
 ・本 名 市川 富一
 ・生没年 1897年~戦後
 ・出生地 東京?

 来 歴

 勝昌介は、戦前に流行した兵隊漫才を得意とした漫才師。相当な売れっ子であったそうで、戦時中は帝都漫才協会の評議員となった。内海好江の両親と仲が良く、好江とも面識があった。

 生年は、慰問名簿から見つけ出した。目下調査中なので、また追々追記する。

 前歴は不明。1930年代初頭より、東京の劇場に現れるようになる。本格的な漫才進出は、1934年のことで、『都新聞』(9月6日号)に、

▲恩赦記念司法保護デーの集ひ 東京保護事業聨合會主催で十二日午前十時より上野松坂屋、浅草松屋両ホールに

映畫「二郎とその母」「一粒の麦」琵琶講談(水也田呑洲)曲藝萬歳(マストン、小マストン)ベビー萬歳(天の操、金茶久)スポーツ萬歳(春之輔、逸郎)兵隊萬歳(次郎、昌介)漫藝(日出夫、日出丸

 とあるのが確認できる。それ以前の公演記録も目下解析中、さらに遡れるかもしれない。

 相方は宮古次郎という人物。このコンビは比較的長く続いたという。

 浅草を中心に堅実な活躍を展開し、当時、兵役や軍隊生活の悲哀が常識として通じた事もあってか、兵隊漫才で人気を集めるようになった。

 1935年1月には、ポリドールから『営庭の巻』というレコードを吹き込んでいる。

 次郎とのコンビ解消後は、扇家勝利とコンビを結成。引き続き、戦況や世相の悪化に従い、兵隊漫才としての人気は渋るようになったため、後年は静川徳三郎や丘みどり、娘のすゞめとコンビを組んで、時局漫才をやっていた、という。

 1940年に帝都漫才協会が結成された際、理事の一人に選出されている様子が『レコード音楽技芸家銘鑑 昭和十五年版』にある名簿から、確認できる。

 『都新聞』などによると、1940年6月、陸軍恤兵部の依頼で、中支方面へ赴き、皇軍慰問の一団に加入した。戦地慰問ではころころ相方を変えていた模様。

 1941年5月上席、東宝名人会の昼の部「笑和会」に出演。以下はその出演者。

音曲漫才 春の家金糸・銀糸
ユーモラス漫才 林勝巳・小山慶太郎
小奇術 松旭斎天菊一行
音曲漫才 松島家色香・円太郎
支那見物記 勝昌介・丘みどり
曲技アクロバット 李金来・愛子
珍浪曲模写 荒川千枝子・芳夫
私の見た世界 牧タンゴ・山路はるみ
歌謡問答 大谷ノボル・羽衣小夜子
民謡滑稽 東奈歌三・榎本笑楽

 同年11月上席、「笑和会」に出演。相方は晴彦という人物。詳細は不明。

正美・漫作
美代子・文子
日出奴・貞丸
晴彦・昌介
曲藝 新坊・時二郎
富久娘・白鶴
ジャズ漫才 光菊・光児
歌謡漫才 せん子・南海男
シゲオ・マンマル

 私生活では、長らく浅草田原町に住んでおり、近所には荒川小芳夫妻が住んでいた。

 そんな事情もあってか、二人が巡業などに出る際などには娘の内海好江を預かっていたそうで、その家で好江さんと遊んだ事がある、とやはり近所に住んでいた林家染太郎の子息、崎本仁彦氏より伺った。

 1943年、帝都漫才協会再編に伴い、評議員に選出される。以下はそのメンバー。

評議員(順不同敬称略)

小山慶司 寺島玉章 小櫻金之助 天津城逸郎 浮世亭銀猫
前田勝之助 橘家太郎 勝昌介 柳家三亀松 鈴木義豊 松尾六郎

 戦後も健在だったそうだが、物資不足なので開店休業状態だったという。波多野栄一によると、大のタバコ好きだったとかで、自著『ぼくの人生、百面相』の中でも

また、タバコにも不自由しました。漫才の勝昌介(娘のすゞめとコンビ)は、これがヘビィの上に”超”の字が付くスモーカーで、タバコがないと芸も満足にできない。切れるとメシも喰わずに寝ている。「おい、メシだよ」では起きないが、「タバコだよ」だとガバッと起きる。一方、ハーモニカの葉茂狂児は漫画がうまい。汽車の中なんぞで進駐軍の兵隊を見つけると「ハロー」といいなから近寄って、サラサラと似顔絵を描いてやる。向うは感心して、タバコをくれる。本人は喫わないから、「ノー・サンキュー」ともらわない。こちらでは勝昌介が「なぜもらわないんだ」とくやしがっている。

 という逸話を紹介している。結局、本格的に復帰する事もなく、廃業をしてしまった模様。

 崎本氏等の話では「すずめさんが結構立派な人だった」「大きくなって嫁いだとか何とか」「俺が高校くらいの時にはもう成人していた」との由。楽隠居だったのかもしれない。

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