晴乃チック・タック

晴乃チック・タック(左)
人 物
晴乃 チック
・本 名 杉浦 純一郎
・生没年 1942年3月18日~1986年9月29日
・出身地 東京 中野
晴乃 タック
・本 名 高松 茂雄
・生没年 1943年11月18日~ご健在
・出身地 東京 墨田区
来 歴
1960年代、「チック・タック」のコンビで一世を風靡した元祖タレント漫才師。「いいじゃなあ~い」「どったの」といったギャグと明るい漫才ですさまじい人気を獲得した。
チックの前歴
チックの出身は浅草で、実家は鼻緒問屋をやっていた。祖父は旅回りの役者をしており、タック自身も小学6年から数年間日本舞踊の稽古に通っていた。そのため、体が柔らかく女形の所作もできた。
幼い頃は「おちょこ」と渾名され、ちょこちょこと動き回るのがクセで、ひょうきんな子供だった。
なお、学校では「教科書を逆さに読んだり、わざと浪花節で唄ったりと先生を怒らせるような悪ガキだった」という。
地元の小中学校を卒業し、帝京商工高校電力科に進学。この頃から芸人を志すようになる。
踊りの稽古先で仲良くなった娘の叔父が興行師をやっており、その人から音楽教室を勧められるが、入学後すぐに挫折し、歌手にはならなかった。
次いでドラマーを志したが、先輩から「給料も少ないし、仕事ばかり多くてやりがいはないよ」と暴露され、また挫折。
続いて松竹大船撮影所の俳優として志願をするが、大部屋俳優が嫌ですぐに退所した。
その後、漫才にあこがれるようになり、その人の紹介で1960年、晴乃ピーチクに入門。高校は2年で中退している。
高校退学後、晴乃ピーチクに入門して、半年ばかり前座修行をした後にコロムビア・ローズの鞄持ちをするようになった――と以上の経歴『師匠を語る』の中でタック本人が語っている。
以来、浅草の劇場や歌謡ショーの前座として出演をつづけ、腕を磨いた。
タックの前歴
出身は中野。実家は印刷屋を営んでいた。
元々芸事が好きで落語や浪曲の真似事をしていたが、家業を継ぐべく都立工業高校印刷科へ入学。在学中に肋膜炎を患い、退学。しばらく入院をしていたという。
回復後は学校に戻らず、晴乃ピーチクの門下となる。ピーチクの門下になった理由は「家が近かったから」――と『大正テレビ寄席の芸人たち』の中にあるが、詳細は不明。
以来、ピーチクの鞄持ちとして歌謡ショーや漫才大会の楽屋に出入りするようになる。
チック・タックの結成とブレイク
1960年、巡業先の青森県八戸市で二人は出逢い、意気投合。高松がピーチクに入門したのを機に、「晴乃チック・タック」を結成した。
芸名は師匠がつけてくれたそうで、当人は「時計の針がチックタックと動くように精進する」とうそぶいていたが、実際はピーチク・パーチクがオサム・ミツル時代の改名候補にしておいて、結局名乗らなかったおさがりであったという。
同年9月、松竹演芸場で初舞台を踏む。以来、歌謡ショーの前座や浅草の劇場で腕を磨いた。
1962年頃より漫才コンクールに出場するようになり、1964年、第12回漫才コンクールで『唄えば楽し』を演じ準優勝。
1965年、第13回漫才コンクールでも準優勝を授賞している。
しかし、優勝させようとレギュラー番組まで持たせて応援してくれたNHKを「ここまでお膳立てして優勝しないとは」としくじり、1年間出場停止を命じられることとなる。
1966年、第14回漫才コンクールで『花の武士道』を演じ、悲願の優勝。
この時には「いいじゃなーい」や「どったの」というような、甘い声でチックを煙に巻く芸風を確立していた。この優勝を機に売り出し、テレビ・ラジオの寵児となった。
そして、1966年4月、フジテレビの『しろうと寄席』の司会者に抜擢される。
同年夏には日テレの『お笑いカラー寄席』、フジテレビの『日曜お好み寄席』の司会者に抜擢される。
1966年8月、歌舞伎座で行われた「三波春夫歌謡生活十周年記念公演」のゲストとして呼ばれ、国民的歌手や俳優と共演。
同年9月、東横ホールで「チック·タックのいいじゃない珍商売」と称した喜劇を主宰し、客を集めた。
同年12月、東横ホールで行われた「年忘れ・松竹喜劇まつり」に出演し、花柳啓之の指導演出で「二人道成寺」を披露している。
1967年3月、スパイ映画『フライマン』の声優に挑戦し、成功をおさめた。その他にも数多くの映画にゲスト出演し、寄席、劇場、テレビ、撮影現場、地方巡業と寝る暇もない日々を送った。
フレッシュで甘いマスクと声がヤング世代に大受けし、これまでの観客層とは違うファンを形成。その人気は凄まじく、アイドルのような扱いを受けた。
誕生日やクリスマスには大量のプレゼントが送られ、ファンレターも山のように届いたという。
タックがカマトトの口調で放つ「どったの」「いいじゃなーい」は流行語となり、芸能誌のみならず、少年誌や漫画雑誌に連載を持つほどの人気を博した。
プロデューサーの山下武は「若くて独身だったのが最大の武器」と『大正テレビ寄席の芸人たち』で絶賛をしている。
その存在は社会現象までになり、連日雑誌や投書欄に賛否両論の記事が載せられた。Wけんじやてんぷくトリオなどと共に流行語の急先鋒として批判されたこともあった。
一方、虫明亜呂無などは――
「チック・タックの”いいじゃなーい”にしても、てんぷくトリオのびっくりしたな、もう” にしても、ギャグではなく一種の符丁でしょう。意味もなく、それを聞いた瞬間、条件反射的にくすぐられる。それだけのことではないだろうか」
と評している。
1966年頃より雑誌やメディアの出演が激増し、多い時は月に十数本の記事が出ることもあった。
また、若くして人気者になった事により、幕内の反発や批判は強かったという。特にチックは傲慢だという批判もあった。コロムビアトップなどはチックの生意気さを嫌っていたそうで、楽屋で喧嘩をすることもあったという。
一方で、立川談志はこの人気と人柄を高く買っており、『読売新聞』(1967年7月6日号)の連載の中で――
チック・タックはもう一度、流行語をつくり、映画を当て、若き笑いのスターになるように努力すべきである。チック・タックは、スターであって、漫才師でなくていいのだ。
素顔の二人は、”サラッ”としたいい男で、タックは如才がないし、チックは骨がある。酒に勝負ごとに、また飲みっぷりに、根性がある。
”チックは生意気である”、なんてのはまるでウソ。「もしキミの悪口を言う奴がいたら、オレが全面的に否定してやらァ」など、酔って言ったこともあったくらい。チック・タックよ、スターになれヨ。
と、見事なタンカと激励を送っている。
1968年4月より、NHK教育の『歌は友達』のレギュラーに就任。
1968年5月、渋谷区の一日警察署長に就任し、交通安全運動を説いた。
しかし、演芸ブームが沈静化するとともに人気も失ったこと、当人間の話し合いなどもあり、1969年6月、コンビ解消。この時の解散劇もニュースになった。
チックのその後
チックは漫才協会に残留し、漫才を続投。
そのかたわらで1969年7月、北千住におにぎり屋「はるの」を開店。母親・杉浦キチの副業として開業したものであったが、一部マスコミから「おにぎり屋へ転向」とデマを流された。
コンビ解消後、小谷プロとの関係を悪化させ、仕事が貰えない日々が続いたため、1970年1月、松竹演劇部へと移籍している。
しばらく喜劇系の仕事をこなしていたが、漫才への未練断ち難く、妹の旦那(本名・新井豊)とコンビを組んで、「晴乃ロマン・チック」を結成。
さらに1971年には、師匠ピーチクとコンビを組んで再スタートを切る。
『読売新聞』(1971年9月16日号)には「チック、がんばれ」というような激励の投書が送られたが、1年で別れた。師匠・ピーチクが依然として不倫問題で思うような仕事を得られなかったことや漫才のイキが違うこともあったという。
その後は「晴乃ロマン・チック」コンビを復活させる。
後年は松竹演芸場を拠点に漫才師として活躍。かつての人気を頼りに美空ひばりショーの司会や歌謡ショーなどに出演していたが、人気は取り戻せなかった。
1976年、決心をして、芸能界から引退。漫才協団もやめている。
北千住のおにぎり屋を改装して、スナック「俺の店」を開業し、没するまで店主として奮闘を続けた。
大空みつるをはじめとするかつての仲間の贔屓もあり、相応の成功をおさめた。
漫才師時代に結婚した妻とも相応にうまくいき、子供にも恵まれた。晩年はよきパパであり、娘の成長を楽しみにしていたという。
経営も家庭も安定した矢先の1986年10月、脳溢血に倒れ、急逝。最期の様子は『週刊読売』(1986年10月19日号)に詳しい。
買い物から帰った妻明子さん、仕事がら遅く起きるチックさんの寝室をのぞいたのが二十九日午前十一時。
チックさんはベッドの脇に崩れるように倒れていた。死亡推定時刻は午前二時。脳溢血である。
「さわった瞬間、もうダメだと分かりました」。泣きつかれ、憔悴し切ったように明子さんは語った。
前日には長女(小六)の運動会に行ってはしゃいでいたというから、あまりにも突然の死である。
その死は週刊誌やメディアによってクローズアップされ、「元人気タレントの零落」として色々と脚色されて報道された。
ただし、当時の仲間や関係者に話を伺うと、普通に家には収入もあり、家庭もうまくいっていたこともあり、マスコミが騒ぐほどの零落ぶりではなかったという。
戒名は「晴純漫道居士」。
チックのその後
解散後、タックは本名を崩した「高松しげお」と改名、漫才界から一線を退き、俳優と漫談路線に転身。漫才協団を離れた。
1969年7月、『意地悪ばあさん』の三代目ばあさんに抜擢される。
これを機に以降、『いじわるばあさん』や『若大将シリーズ』といった映画やドラマ、『なんでもやりまショー』などの司会などで活躍。特にコメディでは独特な味わいを見せた。
俳優・司会稼業のかたわらで、演芸番組にも出演。漫才時代に鍛えた話芸を元に、漫談家としても活躍した。
1978年10月、テレビの企画で久方ぶりに「チック・タック」コンビを組んで、漫才を披露。その後も相方との付き合いがあり、チックが脳溢血で夭折した際は弔問に駆け付けている。
1980年8月からはNHK教育のアニメ『ポパイ』の声優として抜擢され、4年ほど声優として活躍をした。
平成以降も『日曜バラエティー』や『真打競演』に出演して、漫談や喜劇を見せるなど第一線で活躍した。70すぎまで高座に出ていた記憶がある。
最近はあまり表に出ないものの、2026年現在もご健在である。

