叶家洋月・春木艶子

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叶家洋月・春木艶子

洋月(右)・艶子

 人 物

叶家かのうや 洋月ようげつ

 ・本 名 丸山 平一郎
 ・生没年 1905年~1980年代?
 ・出身地 ??

春木はるき 艶子つやこ

 ・本 名 渡辺 ヤマ子
 ・生没年 1907年11月25日~1970年2月24日
 ・出身地 神奈川県 横浜市

 来 歴

 洋月の前歴は謎が多く、よく判っていない。僅かに『読売新聞 都民版』(1972年1月25日号)に掲載された記事で、

「なくなった伯父貴にメジロ気違いで、その影響を受けたんでしょうなあ、子供のころから好きで好きで。昭和十年ごろになると、忙しい舞台の合い間をぬって、筑波山、飯能、秩父……声のきれいなメジロな求めて山野を歩くようになった。メスはその場で放し、オスだけ持って帰る。さえずりの訓練がまた楽しくてねえ」

(『読売新聞 都民版』)

 にある程度。昭和一桁代には早くも漫才師として寄席に登場しており、色物として出演している様子が確認できる。

 一方の艶子も謎が多いが、横浜の出身で非常に苦労の多い幼少期を過ごしたのちに、芸人となり、1921年に初舞台を踏んで以来、またもや苦労を重ねたという事が、『芸能画報』(1959年2月号)にある。以下はその引用。

艶子 ①渡辺ヤマ子②大正元年1月③横浜市④大正10年より種々の苦労の末、演芸を志し漫才界に入る。

 戦前に春木艶子と結婚、1930年代初頭に、漫才に転向。1933年にはもう漫才をやっており、『読売新聞神奈川版』(1933年7月20日号)の中に、

読者慰安演藝大會 
吉川興行部

△高級万歳叶家洋月艶子△音曲万歳RボンベーR百合子△漫藝日本チャップリン△滑稽万歳小櫻金之助桃家セメンダル

 と、あるのが確認できる。東京に進出したのは、1934年頃で、『都新聞』(1934年3月21日号)の広告に、

 ▲義太夫座 廿一日より
万歳(六郎、和歌子、金茶久、春之助、逸郎、源一、一丸、花橘、光子、洋月、つや子、月子、友衛)

 とあるのが確認できる。以来、義太夫座のレギュラーとして、定期的に出演。長短かっぽれや舞踊を得意とした。1939年頃には、新興演芸部に所属し、一枚看板として活躍。京阪の劇場にも出演するようになる。

 1945年6月には、息子の丸山勝司が誕生。幸せな家庭を築き上げた矢先、戦争で家を焼き出された新山悦朗が二人の家に仮住まいをするようになる。悦朗と洋月夫妻は新興演芸部時代に縁が出来たものと思われる。

 その後、艶子と悦朗がなさぬ仲となり、関係が悪化。洋月は、喜代駒をはじめとする関係者を回って、とりなしを求めたというが、1949年に離婚が成立。艶子は新山悦朗と結ばれ、洋月は息子を抱えて、別居する羽目になった。

 結果として、勝司は一時期荒れに荒れたという。この息子の狼藉ぶりに手を焼いて、曲芸師・豊来家宝楽と相談して、息子を宝楽の門下に入れた。この勝司青年が成人した後に、三浦勝二、更に叶家勝二と名を改めた。

 艶子は悦朗と組んで、落語協会に所属し、寄席の漫才として活躍。一方、洋月は先輩の漫才師、「冨士蓉子」と組んだり、再婚相手の花井雪子と組んだりした。引退したわけではない。富士蓉子とのコンビはなかなかのものだったらしく、松浦善三郎は『関東漫才斬捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1953年11月1週号)の中で、

蓉子の三味線と唄、洋月の踊り、更には対話術の妙など音曲漫才としては斯界の最たるもの。蓉子が戦後、家の問題コンビの点等でスタートが遅れたので大分損をした形だが、今日では蓉子洋月で其の位置は確たるものがあり。既に放送でもなじみ深い。往年の「新興」時代、女としては三味線を持たせて実力日本一をうたわれた大看板の蓉子も、戦後は一人息子も大きくなってくるし、大分いけた左の方も全然やらずに、まずは名よりも実と地道に稼いでいる。「江戸風」を本当に感じさせるスッキリした舞台。浅草の小屋で蓉子がビン/\三味線をひゞかせて都々逸でも唄うと必ず大向うから「日本一ッ」と声がくるからお客と云うものはうれしいもの。名古屋あたりでも人気はよろしい。洋月の娘さんが病気ときいて大分久しいかどうしたか。

 と、激賞している。

 春木艶子は「一九七〇年二月二四日」に没。没年は1971年発行の『著作権台帳』(第十六篇)に記載有り。なお、財産や著作権は長男・春夫が相続した模様である。余談であるが、春夫は養子。

 悦朗に関しては、「新山悦朗」の頁を参照。

 かつての相方であった洋月は艶子亡き後も健在で、妻の雪子と松竹演芸場などに出演する傍ら、メジロの鳴き合わせを余生の趣味にして暮らした。その腕前は達人だったらしく、『読売新聞 都民版』(1972年1月25日号)に、

メジロに春遠し ”鳴き合わせ”競う相手なく

メジロのさえずりの美しさを競う、優雅な”鳴き合わせ”の行事が、最近ではほとんど行われなくなった。黄緑の小さなからだ、目のまわりが美しい銀白色の、このかれんな小鳥を愛して、四十年近くも鳴き合わせを楽しんできた浅草の老漫才師、叶(かのう)屋洋月(六七)は「最近は、とんと鳴き合わせの相手に恵まれなくて」と嘆く。世の中忙しくなりすぎたのか、人の心が荒廃したのかーー江戸時代から伝えられた、伝統の遊戯が滅びようとしている。

 なる記載がある。その後、没した模様か。

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