源氏太郎の、死。

 

 喜代駒家で発掘した改名の経緯の抜粋

 

 先日、なにげなしにFacebookを見ていると、芸人・源氏太郎の訃報が流れてきた。まさか、と思って投稿主を見ると娘の三増巳也氏であった。

 僕もは思わず手に持っていたケータイを布団の上に落とし、なんともいえない孤独が胸の中に、広がっていくのを感じた。

 以下はTwitterに上げられた訃報である。

 2019年3月26日没、享年90。1月以上前に亡くなっていたことなどつゆ知らず、ぼんやりと東京漫才の本を作っていたのが、なんだか嘘のように思えた。その本の中の証言に、源氏太郎氏が度々出てくるーーそれだけ見ると、まだどこかで源氏太郎が生きていて、今でも電話をすればあの甲高い声で答えてくれそうな気がしてならなかった。

 しかし、そんな気も今日でおしまいである。もう氏はこの世にいない。僕も本の中に出てくる氏を「故人」と書き改めなければならない。

 享年90は長寿の類に入るだろうが、それでも惜別の感は免れない。僕も相応に生きてきて、曾祖母、叔父、叔母といった親類、古今亭志ん馬、三遊亭小円朝、金原亭馬好といった知人の死にも遭遇した。それは人間が生きていく上でのカルマであり、何れは祖父母や父母も見送らねばならない時が、きっと来るはずである。

 仕方ないといえば、それまでであるが、今回ばかりは「仕方ない」でおさめることができない。

 なぜなら、源氏太郎氏は僕にとって恩人だからである。向こうはどう思っているか今となっては知る由もないが、少なくとも僕はそう思っている。

 あの時、源氏太郎氏が手紙の返事をくれなければ、応対をしてくれなければ、僕は東京漫才に出会うこともなければ、東喜代駒にも出会うことはなかった。調べたとしても、一介のファンとして、ちょっと調べてハイ終わり、程度の――青春時代特有の流動的な興味で終わってしまったのではないだろうか。

 こういうと大袈裟かもしれないが、源氏太郎は僕に東京漫才という一つの存在を示してくれた人である。その出会いがキッカケとなり、今に至る。

 かの本居宣長は、賀茂真淵と一夜だけの面会で國學の研究を志し、賀茂真淵に師事することとなった――という逸話と比べるのは、本居宣長に蹴飛ばされるかもしれないが、それでもやはり僕にとって、源氏太郎氏とは、本居宣長における賀茂真淵のような存在なのである。

 曰く、出会った数は少ないが、その影響は侮れない、とでも評するべきか。

 話は10年近く前に遡る。いまや病床でヒンヒンと情けない声を上げながら、サイトや本を製作している僕であるが、かくいう僕にも健康的で、フツーの青春時代はあった。他人から見てどう思われるかまでは判らないが、少なくとも勉学や進路に悩み、友人関係や性的欲求に苦しみ、その中で色々な輝きを見出す――という学生らしい事はやってきたつもりである。

 その頃、僕は土曜学習をサボって、県立図書館に出入りすることが多かった。今思えば勉学が嫌いだった事や進路を見いだせないことに対する現実逃避だったのかも知れない。でも、それが無駄だったとは決して思わない。

 群馬県立図書館は古ぼけてこそいたが、中身までは古ぼけておらず、むしろ、いい本がたくさん置いてあった。中でも郷土資料のコーナーなどは、なかなかの品揃えで、僕の基礎調査力はここで養われた――というのは、言いすぎかもしれないが、ま、そういう事にしておこう。

 ある時、日外アソシエーツの『芸能人事典』か何かを読んでいるとき、東喜代駒という人の存在を知った。ごまんといる芸人の中で、なぜか心を惹かれる事になったのは、僕と同じ「群馬県出身」という因縁に共感したからか、「東京漫才の元祖」というキャッチフレーズに感動したからか、今となってはハッキリとしないが、とにかく感動した。しかし、この日外アソシエーツの本には、生年が書いていなかった。「1977年10月10日没」まで判ったが、それ以上が判らなかった。

 その後、どんなキッカケだったか、喜代駒の生年月日「1899年4月8日」を見つけることに成功したのだが、このときの喜びたるや、テストで高得点を取るよりも嬉しかった。この時走り書きしたメモはまだクリアファイルの中に納まっているはずである。

 さて生没年を何とか割り出すことが出来たが、それ以上の事が判らない。研究書を出し、ご遺族とお付き合いのある今から見ると、「そんなこともわからなかったのか」――もっとも随分知りすぎていることもあるが――と、お笑い草のようであるが、そのころは本気で分からなかった。

 その内、喜代駒の弟子がまだ生きている事を知り、僕は拙い手紙を書いた。それが源氏太郎氏であった。その手紙の内容までは覚えていないが、「喜代駒氏について教えて下さい」というような文面だったのではなかろうか。

 面識もない一青年の手紙なんざ読んでくれないだろう――と、はなから返事は期待していなかったが、しばらくして、ちゃんとした返事が届いた。文面は物凄い綺麗な楷書体で綴られており、それは多分筆で書かれていた。後ろで見ていた母親が「えー、すごいねー、キレイだねー」などと、呑気な事を言っていたのを覚えている。

 その手紙は今、実家の資料箱の中に入れてあるため、療養先で見る事はかなわないのだが(別に帰ればいつでも見られるのだが)、確か、「お尋ねの件……」というような一文からはじまり、喜代駒の生没年月日、経歴、相方のことなどが、葉書いっぱいに記されていた。

 この手紙を読み終わった後、僕は深い感動と同時に「喜代駒のことをもっと調べよう」という気になった。もし、返事がなければそんな事は思わなかったに違いない。

 その後、アレコレと雑誌や本をあさり、少しずつであるが、喜代駒の偉業が明らかになってきた。然し、本で知るには限度があり、学生風情の調査能力では余りにも手間が多すぎた。

 そこで何を考えたのか、僕は源氏太郎氏を訪ねて、アレコレ伺うことにしよう、と思い立った。若気の至りといえばそれまでだろうが、結果として良い方向に転んだのだから、敢闘賞くらいは貰ってもおかしくはない。

 年が明けて間も無い1月某日、僕は葉書に記された住所を頼りに源氏太郎氏の家を訪ねた。今でもその道順は夢に見るほどハッキリと覚えているが個人情報保護のため省略する。

 兎にも角にも家に辿り着いた。家は年季の入ったアパートで、標札だったかには「源氏太郎」と記されていた。意を決してチャイムを鳴らし、葉書を見せて身の上を説明すると、源氏太郎氏は「まあ、お上がんなさい。夕方から仕事があるからあまり話はできないけど……」と、優しく言ってくれた。

 お言葉に甘えて部屋に入ると、整理整頓が行き届いた部屋が二つ。居間には仏壇がおいてあり、その横にギターやハーモニカといった商売道具が所狭しと置かれていたのが、印象的であった。

 小さなコタツに当たりながら、古い話をあれこれと伺った。話の途中に「これあげる」と差し出されたのは、東喜代駒の千社札であった。

 今でこそ喜代駒の資料を何点か所有し、どう復刻しようか考えている僕であるが、その時には当然、そんなものを持っている筈もなく、知る物見る物皆新鮮であった。

 その中でも千社札は、喜代駒の心の一部を分けてもらったように感じたのは、錯覚ではないだろう。今もその千社札はクリアファイルの中に大切にしまってある。

 源氏太郎氏は喜代駒の話になると、目をランランと輝かせ、いかに師匠が素晴らしかったか、を力説した。不当な評価をされない師匠喜代駒に対して、何か思うところがあったのだろう。

 話は喜代駒から飛躍して、青柳ミチロー・ナナだとか、新山悦朗・艶子というような漫才師にまで発展した。

 その話の中で、「フジヨウコ」「カノーヤヨウゲツ」という名も聞いたことのない漫才師が沢山出てきたが、取り敢えず正直にメモを取った。

 これが後年、巡り巡って役に立つとは、思いも寄らない事であったが、気がついてみると、研究とは大体そんなものが積もった結果なのである。

 話も佳境を過ぎた頃、ふと居間の端に鼓が置いてあることに気がついた。僕は「正月だから萬歳をやるんだな」と来る前に調べたホームページの内容を頭の中に思い描いたが、素知らぬふりをして、「師匠、あの鼓はなんですか?」と尋ねた。

 すると、氏は鼓を持つと、「俺は江戸萬歳もやるんだ。曰く、古い形の漫才だね」と、静かに笑った。

「失礼ながらどんなものか拝見したいのですが……」

 と、うまく誘導すると、相手もその気になったのだろう、鼓を巧みに叩きながら、「徳若に御萬歳とは……」とやり始めたので驚いた。

 80を超えた老人とは思えぬほど切れのある声で、如何にも鄙びた味があった。その声の周辺だけ江戸の初春の風景が浮かび上がるようでーーと評するのは些か大袈裟であるが、淡々としていて飄逸な節回しの中に、かつては風物詩の一つとして数えられていた「萬歳」の姿を見た。

 余談であるが、これは確か録音したはずである。何かの折に出したいとは思ってるが、声変わりが終わったばかりの自分の声が嫌で嫌で、未だに聞く決心がついていない。

 一時間半ばかり話を伺った僕は相手の都合を見計らって、家を辞した。その後、何気なしに娘の巳也氏のブログを見ていたら、『17歳のスーパー演芸高校生 と 83歳の現役芸人 父・源氏太郎』なる記事が出来ていて、これは僕の事だ、とむず痒い気持ちになった。しかし、悪い気はしなかった。

 その後、大学受験や上京等で、没交渉が続いた。電話番号も住所も知っていたのに、どうしても訪ねる気が起きなかった。あの時訪ねておけば――と、後悔を無理やり生み出すことはできなくはないけれど、果たしてあの時の智識で尋ねてみた所で、どれだけの事を吸収できたか、定かではない。

 武智鉄二の評論ではないが、人が話したり演じる中の芸や芸談を理解し、自分の物にするには、それ相当の教養や経験則が必要となる。それが名人や長老になれば尚更であろう――そのせいか、あの頃没交渉だった事をそこまで後悔していない。した所で何が生まれるわけでもなし、別に仕方ない事なのである。

 浅草や国立演芸場の舞台を何度か見たものの、それ以上の交友をするわけでもなく、時は静かに流れていった。

 それから交友が再会したのは3年ほど後のことであった。浅草の東洋館に久方ぶりに出演する――という話を聞きつけて、尋ねる決心をした。その時には少し足を引きずっていたが、初めてあった時の口調と変わる所はなく、元気にリズム漫談を演じていた。

 寄席がハネたあと、東洋館前のドン・キホーテで待ち構えて、源氏太郎氏が出てくるところをうまくつかまえた。相手に事情を話すと、先方も覚えていたらしく、「いいかい、戦後の漫才界はヒット、英二の二人が偉かったんだが、これは喜代駒の弟子だよ。親父はすごかったんだ」と、力説を始め、地下鉄の前で「またゆっくり話をしましょう。電話して頂戴」といって、そのまま階段を降りていった。

 それから何度電話をしたことだろうか。頻繁にかける――というわけではないが、気になる事があったら尋ねるようになった。

 その時聞いた話をメモにとっておいて、今でもそれが手元に残っているが、大きな財産になったのは、漫才師・條アキラのことやマーガレットシスターズのこと、喜代駒門下の人々のことなど――特に條アキラの事などは、源氏太郎氏に聞かなければ、ロクロク書けないまま過ぎ去ってしまった事であろう。アキラが軍隊時代にしばかれて難聴になったこと、スティール・ギターを弾くようになったこと、相方で奥方だったアサコの事……こういう事は当の相方でなければ、わからない事情が多かった。断片的なものであるが、聞いておいて本当に良かった、と思っている。

 また、話しついでにどうでもいいような事を尋ねたこともある。相手に甘えたということになろうか。例えば、「師匠はどうして源氏っていうんですか?」などというお話――それに対して源氏太郎氏は話をはぐらかす事なく真摯に向き合って答えてくれた。曰く、「源氏の名前は遠縁に源氏鶏太がいて、それを仲介者が教えてくれた。その人に頼んで、源氏鶏太から許可をとった」云々。

 一時期「泉ひろ志」(漫才時代)や、「東笑児」と名乗っていた事もあったが、その頃の話も断片的であるが伺った。

「泉ひろ志」は、條アキラと「ひょうたんコンビ」なるコンビを組んでいた頃に名乗っていたそうで、源氏太郎では体裁が悪いので、それらしい名前にしたら、名古屋に同じ名前の芸人がいて、「俺が先駆けだ。金をくれ」と、ゆすりたかりまがいのことを言われて、喧嘩をした――というようなことをいって、笑っていた。

「東笑児」は、喜代駒門下時代に名乗っていたもので、色々あって源氏太郎からこの名前を名乗ることになった。

 なお、喜代駒門下に入ったのは、若い頃キャンプ回りでハーモニカとギターの曲弾をやっていた所、都上英二からクレームを入れられた。それに腹を立てて、この人の弟弟子になれば文句言われまい、と人を頼って喜代駒門弟になった、と本人の弁。

 その後、「英二さんは世話になったからあまり悪くは言いたくないが、この横槍はナンセンスだと思った」と、マルクス兄弟から今のコメディアン、ミュージシャンが同じことを継承してやって人気を博している事を力説していた。

 これは本人の問題のみならず、芸能界の問題でもあるな、と考えたりした。

 別に相当の腕があるなら真似て結構なのである。それを真似と呼ばれるのは未熟だからで、本当に芸があればそれを消化できるはずである。現に奇術や曲芸などやってる事はその繰り返しで発展してきたと言えよう。

 脱線したので話を戻す。東笑児の襲名披露パーティーは派手に行われて、喜代駒の人脈と顔で多くの著名人が参加した。この改名の時に喜代駒の友人で歌舞伎役者の中村翫右衛門が、

「源氏の旗揚げ、東にござる」

 という祝辞を贈ってくれた、そのフレーズを懐かしそうに語っていたのが耳に残っている。

 先日、喜代駒家からその時の写真が出てきて、贈ろうかと思っていた時にはもうこの世の人ではなかった――と言うことを考えると、仕方ない事ではあるけれども、やはり遣る瀬無さを感じる。そういえば、喜代駒の家に行かなくなった理由も尋ねたっけ。

 最後に会ったのは2年前である。その時は青空うれし氏も一緒であった。うれし氏に源氏太郎氏と交友があって色々聞いている――と話した所、「そうか、俺も会いてえなあ」という流れになって、また最寄りの駅近くの喫茶店で会う事になった。

 その時には自転車を杖代わりに押し、「ちょっと足が悪くて」といっていたが、うれし氏も足が悪いので「お互い様だよねえ」といって、ゲラゲラ笑っていたのには驚いた。

 うれし氏と源氏太郎氏、年齢もそこまで離れていないこともあり、話も弾んで、多くの芸人の逸話や悪口をあれこれと言っていた。中には強烈な下ネタまで飛び出したりもした。

 その時、源氏太郎氏がなぜか「メモ」と称した原稿を持ってきていた。「差し上げられないがコピーをとっていいよ」というので、中座をして近くのスーパーで何枚もコピーを刷った。思えばあれが最後の置き土産だったのではないだろうか。

 さんざん喋り倒して、源氏太郎氏は自転車をえっちらほっちら押しながら帰っていった。その後ろ姿を眺めながらうれし氏が「いや楽しかった。でもよ、俺が喜代駒さんの女弟子とできていた、なんていえねえよなあ」と、照れ隠しに笑っていたのが、とても不思議な光景であった。

 その年の暮れ、僕が漫才の本を出す事になったので、その承諾を求める為に電話したのが多分最後だったと思う。その時、マーガレットシスターズの確認もとったのだが、電話口で「最近トイレが近くて眠れない」「俺は年をとった」と、いつになく弱音を吐いていたのが心配であった。その後、気にかかる事こそあったものの、もう90近いおじいさんの事もあり――と言う自制心から電話をすることはなかった。

 そして、この度の訃報である。こればかりは寿命であるし、仕方ない事である。惜別の二文字がいつまでも頭の中を漂っている。然し、この人に会えたことは僕の人生の中でも決して無駄ではないと思う。むしろ、小さいながらも見事なターニングポイントだったのではないだろうか。

 

 お疲れさまでした。
ありがとうございました。
あなたに会えて幸せでした。

 

 今頃天国で何をしているだろうか。喜代駒御大のバイオリンにあわせて、ガチャガチャと音楽漫談をやっているだろうか。都上英二と「どっちがうまいか」とギターハーモニカの吹き比べをしているだろうか。妻と一緒に「徳若に萬歳とは……」と、鼓を鳴らしているだろうか。

 なにはともあれ、僕はこの人を忘れないだろう。忘れずに東京漫才を調べ続けることが、一つの追善になると思っている。

 

 最後に、源氏太郎氏から見聞した不思議な芸人――春風亭小柳三について、記しておこうと思う。追悼だけで終わらせるのも湿っぽいので、最後は派手に打ち出す事にしよう。

 春風亭小柳三は本名「西宮吉ノ助」。源氏太郎氏のメモによると、「明治31年(1898)」の生まれだという。Wikipediaでは「1900年」になっているが、多分前者の方が正しいのではないだろうか。

 春風亭柳枝の門下となり、青枝から小柳三――と、これは『古今東西落語家事典』の受け売りであるが、名前の通り、当初は落語家であった。当時の都新聞などを読むと、「声色落語」として出ている様子が確認できる――もっとも、色物的な要素があったのは否定できず、落語家というよりかは色物の芸人的な所があったようだ。

 戦前は柳派に属し、春風亭柳枝や柳橋などについて歩いていたが、関東大震災を機に関西に移住(?)したとみえて、『芸能懇話』や芸能懇話の連載をまとめた『上方落語史料集成』などを見ると、1924年頃より、京都富貴を中心に活躍をするようになる。

 1927年、「小柳三芸能企画」なる会社を設立。これが生涯に渡る稼業となった――と、源氏太郎氏本人から聞いた。源氏太郎氏は小柳三から直接聞いた、と言っていた。

 その頃から台頭してきた吉本興業に出入りするようになり、花月や紅梅亭などに出演。中々の人気があったとみえて、1928年9月席などは、3件も掛け持ちしている。この頃にはもう色物の芸人になっていたようで、『上方落語資料集成』の中にも「◇小柳三の沢正実演 一日から春風亭小柳三が南地、北新地、松島の花月に出演して名優声色物真似百種を演続、特に沢田正二郎得意の当り狂言数種熱演すると。」(1929年5月)なる記事が記されている。その活躍は1931年ころまで続くが、漫才が台頭すると共にいつしか吉本興業を離れ、芸人としての人気も落ち目となったようだ。

 その後はなぜか名古屋へ行き、芸能社を発展させる事に力を入れた。この辺の事情をもっと聞いておけば、と思わない事もないが、本人がどれほど知っていたか判らない。

 この小柳三は昔の芸人らしく、やはり交友関係も派手だったそうで、何回か結婚していた、という。最初の妻は長唄の師匠で、子供もいた。その内の一人は後年、コロムビアに入って「川路みどり」という名前で歌手をやっていたが、外国人と結ばれ、寿引退をした。もうひとりの娘は、名前を聞きそびれたが、上野で「ふくしま」という飲み屋をやっていて、山喜和朗という腹話術の芸人と結ばれた。

 ちなみに最初の妻は色々あって離縁をし、その妻は東京へと戻り、根津の弥生ハウスに住んでいた――この弥生ハウスの同居人が音曲師の春風亭枝雀夫妻だった、というのはなにかの奇縁であろうか。

 戦後、名古屋で成功をおさめた小柳三はテイチク所属の歌手、千鶴美代子と再婚。この千鶴美代子は芸者歌手で『うちの女房にゃ髭がある』『あゝそれなのに』などを歌った美ち奴の妹分として、期待された人物であった――という。結婚のために本格的な歌手としての活躍はなくなったが、後年名古屋で名古屋歌謡学院を設立し、多くの人材を育てることになった。小柳三はこの千鶴との間にも2児儲けている。その筋の人は健在かもしれない。

 源氏太郎氏はこの小柳三門下に入り、「小柳五」と名乗っていた。当時は知識がなかったので、それ以上のことを問い詰めなかったが、そこを聞いておけばよかったかしらん。1952年10月から1954年4月までの約2年間、小柳三門下の芸人として活動をしていた、と本人曰くであった。

 その後、東京へと戻り、小柳三の元を離れたが、交友はその後も続いていたそうで、喜代駒と共に困った時はよく相談をしていたそうで、源氏太郎氏が三遊亭円歌(歌奴)事務所に入った際も、彼を叱責し、やめるように諭した――と本人から聞いた。

 余談であるが、小柳三は麻雀が好きで、名古屋にいた桂喜代楽などとよく卓を囲んでいたという。今の一矢氏くらいまではぎりぎり面識があるのではないだろうか。

 1970年8月1日、72歳で没。奇人小柳三一代、斯くの如し。

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