くしゃおじさんのこと

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 くしゃおじさん――と聞いて、ピンとくる人はある程度の年齢層か、相当なテレビ芸能好きな人であろう。

 顔に力を入れると、クシャっと顔がつぶれる――下の動画からその様子を伺う事ができるが、この珍芸?で、1970年~80年代の人気者となった。

 こういう人間離れした体や奇妙な行動は、古来より注目の的となっており――古くは小人や鳥娘という類のものもあった――いつの世も絶える事はない。その背景には、自分たちには持ちえない物を見せてもらうという、見世物的な要素が強いのだろうと、切り口を上げれば様々な視点で論じる事ができるだろうが、今回はそういう奇人超人を紹介するつもりではなく、この、くしゃおじさんこと、成田幸雄氏――特異な芸人の正体を探りたいと思っている。

 さて、くしゃおじさん、こと、成田幸雄氏は、やはり一時代を築いただけあってか、Wikipediaにも記事が作られている。2018年10月現在のWikipediaの記事は以下の通りである。

クシャおじさん(本名:成田 幸雄(なりた こうゆう)[2]1920年 – 1993年[2]は、日本のタレント。顔が一瞬で短くなる一発芸で1970年代のテレビ界で活躍した。

桃中軒雲右衛門[1]の直弟子で桃中軒白雲という芸名の浪曲師でもあり、[要出典]群馬県水上温泉で妻と漫才コンビ「東ひょっとこ・おかめ」をやっていたこともある[3]

Wikipediaより

  これだけでも、一応のプロフィールとしては成立していない物でもないが、それでも要出典が求められていたり、リンク先が切れていたりしていて、決していい記事とはいいがたい。もっとも、資料が少ないので語り得ぬものとなっている、という側面も免れないのは、仕方がない事なのかもしれないが。

 少し気になることがあったので、私の研究の傍ら、幾つかの資料を検討してみた(そんな事している暇があったら他の漫才師を書けよとか言わない)。やはり一時代を築いたとだけあって、出る所には出るものである。

 本日の演題は題して「くしゃおじさん一代記」、不弁携え、事実明らかな説明にゃならないけれど、学びましたお粗末を悪文ながらも伺いましょう。

 変な浪花節の真似をしてしまったが――結論からいうと、くしゃおじさんは浪曲師・桃中軒白雲で間違いない。しかも、雲右衛門の弟子であったのも事実である。ただ、ここには「但し」をつけねばならない。それを語るには、くしゃおじさんが生まれる少し前、初代雲右衛門の死から語らねばならない。

 一九一六年、浪花節中興の祖、桃中軒雲右衛門は零落の末に息を引き取った。この最期は余りにも有名なので省略するが、困ったのが後継者の事である。当然、大御所である雲右衛門には沢山の弟子がおり、有名無名問わず、桃中軒一門を形成していた。

 談志が死んだ――ならぬ、雲が星となった。そうなると、雲右衛門という大名跡を求める弟子が出てくるのは当然である。残念なことに雲右衛門には三遊亭円朝における藤浦三周の如き、よきパトロン兼名跡預かり人がいなかった。それが故に名跡が暴れだし、次から次へと雲右衛門が生まれるようになった。

 余談であるが、雲のライバル的存在であった吉田奈良丸は、この醜聞を反面教師にして、弟子の一若に奈良丸の名を継承させ、吉田宗家の威光を誇示しようとしていたのではないだろうか。それはさておき。

 白雲、雲州、雲大丞、武力、野口洋々(神童子)を筆頭に、ドサ回りの浪曲師まで、雲右衛門という名前を襲名し、それで全国を回るようになってしまった。特に野口洋々などは戦後まで健在で、弟子に桃中軒を与えていたというのだから、呆れた話である。

 しかし、正規の襲名や推薦も受けずに、そういう名前に頼るような芸人が大きくなれないのはいつの世も同じことである。

 結局、雲右衛門の名前に頼らなかった雲太夫(後年、東家に戻って東家楽燕と改名し、東京浪曲界のボスになった)、如雲(長らく九州を中心に活躍し、後年九州芸能界の親玉になった。大空かんだ氏は彼の弟子である)、浪右衛門(後年渡米し、ちょん髷と映画説明の浪曲師という不思議な肩書で長らく人気を保った。めりけんじゃっぷ物ではないが、この人の話を書いたら面白いと思う)、酒井雲などの方が大看板となり、雲右衛門たちは地方巡業や場末の寄席で、浪曲師たちの目を避けるように生きねばならなかった。

 浪曲師からしても勝手に大名跡を名乗っている芸人などとは仕事もしたくなかったのではないだろうか。

 白雲雲右衛門もまた、そんな一人であった。白雲時代には些か人気があり、京都の劇場や御園座などにも出演していた、とその手の出演記録を探ると出てくるが、雲右衛門を名乗った後はどうもパッとせず、地方巡業の身に零落した模様である。

 また、副業で寄席もやっていたそうで、三の輪に「三遊亭」という小屋を持っていた。この舞台で初舞台を踏み、やんやの喝采を受けたのが、東若武蔵の娘、百合子――後の二葉百合子である。

 随分くさしてみたものの、地方へ行けば雲右衛門という看板はやはり大きいと見えて、信頼もそこそこにあったそうである。こういう事例は数限りなくあるが、ここでは雲右衛門論についてを論じるわけではないので、そろそろ、くしゃおじさんの登場を願う事にしよう。

くしゃおじさん――成田幸雄を大々的に取り上げ、彼の半生を取材した第一陣は一九七四年七月二十三日の「東スポ」であった。色々言われる新聞故、その信憑性はムムム、と川平慈英が出てきそうであるが、それでもプロフィールなどは信頼できそうである。

珍芸アゴはずしで候 成田幸雄

◆メモ◆ なりた ゆきお

 アゴの骨をはずし、顔を半分ないしは三分の一に縮めることのできる特技の持ち主。
 本職は浪曲師。桃中軒雲右衛門の直弟子で桃中軒白雲の芸名を持っている。
浪曲とアゴはずしの特技をかわれて現在水上温泉の蒼海ホテル専属。奥さんのイヨさんと東ひょっとこ・おかめの芸名で漫才コンビを組んでいる。
世界でたった一人の特技の持ち主ということで「世界ビックリ・アワー」(東京12チャンネル)「必殺仕事人」(TBSテレビ系)「木曜スペシャル」(日本テレビ系)などに出演している。大正8年12月10日、青森県北津軽郡生まれ。

 生年月日などは、Wikipediaに書かれていないので、これだけでも貴重な資料ではないだろうか。ただ、この生年月日は資料によってマチマチである。『週刊明星』(1974年10月20日号)の記事では、

成田幸雄さんは、大正5年の12月、青森県弘前市の在で生まれた。家業は建築業で、幸夫さんは次男。

「クシャおじさん骨ヌキ百面相」

 と、あり、偶然、同月に発表された『サンデー毎日』(1974年10月20日号)では、

本名 成田幸雄 55歳。もとはいえば芸名でおわかりのとおりの浪曲師

「顔に歴史あり アゴはずし芸人 桃中軒白雲」

 と、ある。どれが正しいのか、目下判別がつかない。昔の芸人ゆえのずぼらさといえば、それまでかも知れないが、困ったものである。が、少なくとも誕生日は合致している事であろう。

 さて、この浪曲師がどのような運命を辿って、くしゃおじさんとして人気を集めるようになったのか。幸い人気絶頂だった当時に雑誌の取材を受けており、その特異な半生を垣間見ることができる。

 生まれは前述の通り、青森で、実家は建築業を営んでいたという。生まれだけでいけば、田舎の職人の次男坊という、何の変哲もない平凡な子供だったと言えよう。

 そんな彼が芸能界に入るきっかけとなったのは、青森名物の津軽民謡と脳震盪であった。前者はまだしも後者はおかしいじゃないか、と言われそうであるが、事実なのだから仕方がない。『週刊明星』の中で、彼は大いに語る。

小学校時代は田舎のふつうの腕白小僧であったが、2年生と6年生のとき、彼の人生にとって記念すべき事件が起こった。
ひとつは、県下の民謡大会で町予選、郡予選を勝ち抜き、県大会に出場して、ここでも晴れて入賞の栄に輝いたこと。3位までの入賞者にはレコードを吹き込ませるという規定にもとづき、仙台市の小さなレコード会社で『津軽じょんがら節』のレコードを作ってもらった。これがそもそも芸能界とのご縁の始まりで、後年、浪曲師になる下地にもなっている。津軽民謡は、ナニワ節と節回しが似ているのだ。これが小学六年の春で……

 これが第一の津軽民謡である。かの高橋竹山もほんの一時期、浪花節の曲師をやっていたことを考えると、案外、津軽民謡は浪花節に近いのかもしれない。そして第二の理由。

2年生の夏の終りごろ、台風で、家の近くの岩木川が氾濫した。台風一過のあと、成田さんたち腕白小僧は、いつものように岩木川に泳ぎに行った。淵があって、飛び込み用の岩がある。成田さんは一番槍でその岩から飛び込んだ。思いがけないことに、脳天をズシンという衝撃があった。台風による氾濫で川底が上がっていたのだ。
脳震盪を起こし、あやうく溺れそうになったが、必死に川岸の草の根につかまって顔を上げた。

 すると、アゴがつぶれており、上のような顔になってしまっていたというのである。こちらは浪曲師になるきっかけではなく、くしゃおじさんになったきっかけというべきであろうか。しかし、『サンデー毎日』では「小学三年のとき川底にアゴをぶっつけ」とあり、どちらが正しいのか判らない。

高等小学校卒業後、「しばらくは家の建築業を手伝ったり、分教場の代用教員をしたり」(『週刊明星』)していたという。『サンデー毎日』によると、代用教員時代に、

昭和恐慌のさ中 「共産党は悪くない」と生徒にいって 小学校の教壇を追われ

 との事であるが、これも眉唾。よくも憲兵にしょっ引かれなかったものである事よ。

 放校後、二代目桃中軒雲右衛門に弟子入り。『週刊明星』によると、「昭和11年、数えの21才のとき」だったという。

実家を勘当され、厳しい稽古に明け暮れたが、1939年に「桃中軒白雲」を名乗る。この名前から見ても、初代白雲の弟子だったのであろう。独立後、実家に帰った所、勘当はどこへやら、村を挙げての歓迎だったという。

 戦時中、慰問芸人として、満鉄の嘱託となる。そのお陰で本召集こそ逃れたが、教育召集は何度か受けた。そこで落馬をし、子供のころに落ちたアゴが再び落ち、クシャおじさんが出来上がった。この経緯ばかりは、『週刊明星』『サンデー毎日』共に合致している。以下は『週刊明星』の取材に対する答え。

自分でアゴを外したりはめたりの訓練をしているとき、手加減をまちがえて、下アゴが上アゴにペシャっとくっついちゃった。なにか顔がつぶれたような感じがして、あわてて鏡を見て2度びっくりですよ。自分の顔とは思えませんでしたネ。

 敗戦後も白雲名義で巡業を続けていたが、浪曲不振のため、苦しい思いをしたという。その頃、師匠との一座で、アゴを外した百面相をやってみたところ、大受け。客には受けたものの、師匠からは「お前は浪曲師だ。喜劇役者じゃない。バカげたことをして人を笑わせるもんじゃない」とこっぴどく叱られた、と『東スポ』にある。

 1956年、師匠の雲右衛門が死去。三代目として桃中軒雲右衛門を襲名したというが、これもまた正式な襲名ではなかったのではないだろうか。この頃、野口洋々が健在だったので、二人雲右衛門が居たということになる。もっともいたとしても、認められないに等しい状況だったのかもしれないが。

 一応襲名こそしたものの、当然認められるはずもなく、巡業を続けていたが、1958年頃、一座を解散。『週刊明星』の取材では「成田さんは雲右衛門の名跡を協会に返上し、もとの白雲に戻った。」と口にしているが、そもそも正式な襲名ではなかったはずなので、協会も当惑したのではないだろうか。

 その後は、三門順子やディックミネの司会をやった、と『サンデー毎日』にあるが、司会者としての格はそこまで上ではなかったはずである。前唄の司会か何かを誇張している可能性がある。

 1969年頃、水上の興行師を頼って、水上に移住し、ホテルの所属芸人となる。浪花節や浪曲コント、安来節をはじめ、嫁の成田イヨと「東ひょっとこ・おかめ」という漫才をやっていたという。イヨも元々は浪曲師だったとかで、1958年頃に一座を解散したと『サンデー毎日』『東スポ』に出ているが、微妙に齟齬がある。

 また、漫才師になったというが、これもテキトーな話で、宴会の芸人とだけあってか、請われればなんでもやるような感じだったという。当時、東喜代駒が健在で「東」を名乗るには、一応の仁義が必要だったそうであるが、その関係は確認されていない。勝手に名乗っていた可能性が非常に高い。

1973年頃、贔屓のお客がテレビ番組に投書をしたのをきっかけに、その存在が知られるようになり、『びっくりアワー』に出演。その珍なる姿と芸でたちまち注目された。一方、『読売新聞』(1974年9月28日号)などでは、浪曲師として水上温泉で舞台に立っていた成田を番組プロデューサが見出して出演させた」とあり、はっきりとしない。

以降は、「マチャアキのガンバレ9時まで!!」を筆頭に、「必殺仕掛人」やクイズ番組に出演。その珍妙不可思議なる顔芸で一世を風靡した。この辺りは各自で調べてどうぞ。

 晩年は孫にも恵まれ、比較的安泰だったようである。

 1993年に亡くなったと「死去ネット」にあるが、詳細は不明。また所属していた蒼海ホテルも、2005年に廃業しており、関係者の行方も判らない状態にある。

 ただ、くしゃおじさんには子供もあり、「あゆみちゃん」という孫娘も居た。1974年頃、彼女が3~4歳だったことを考えると、今年で48歳くらいか。ご健在である可能性が非常に高く、まだまだ子孫筋からは何か証言が出てくる可能性がある。

 誰かが探してくれればありがたいのだが、大体こういう事は、私がやる羽目になる(他力本願)。

 本業よりも持って生まれた特異な体の動きで一世を風靡したというのも、皮肉な話であるけれども、逆の見解をすれば、これの芸で全国区の人気を得て、テレビ進出まで果たしたのだから、幸運の女神のおこぼれを授かったということになろう。

 少なくとも、雲右衛門という名前を継いで苦労をし、ニセ芸人として扱われるよりは、ずっといい。

 変なものでもどこかで受け容れてもらえる――そんなよき時代を生きていた「愛すべきヘンテコおじさん」の集大成が、このくしゃおじさんだったのかもしれない。

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