橘エンジロ・宮川美智子

橘エンジロ・宮川美智子

  

 たちばな エンジロ

 ・本 名 斎藤 久七
 ・生没年 1898年4月14日~1976年5月10日 
 ・出身地 埼玉県 比企郡

 宮川みやかわ 美智子みちこ
 ・本 名 斎藤 千代菊
 ・生没年 1908年11月30日~没
 ・出身地 北海道

 来 歴

 エンジロは埼玉の郊外に生まれる。片田舎の出身ゆえか、生活は決していいものではなかったらしく、幼い頃は相当の苦労を重ねたという。

 苦労を重ねた末に都会に出、職を転々としたそうであるが、20歳ごろ、芸能界入り。初めは噺家で、「橘円次郎」と名乗っていた。

 師匠は明らかではないが、後述する都々逸仲間やエンジロの甥によると、橘ノ圓かその関係者ではないか、との事。もしそうだとするならば、

 圓の門下からは、橘ノ圓十郎を筆頭に、優秀な漫才師が多く旅立っていることとなる。

 若い頃より落語よりも都々逸や作詞の方面に才能を示し、柳家三亀松の「新婚箱根一夜」をはじめとする都々逸の文句を提供していたそうで、柳家三亀松の自伝『御存じ三亀松色ざんげ』の中にも、

 少し話が古くなるが、わたしの一番はじめのレコードに「新婚箱根の一夜」ってのがあるでしょう。
 アレをつくったとき、漫才の橘エンジロ(はじめ落語で橘円次郎。現・亀屋忠兵衛)と、それに、ボクの一番古い弟子だった三亀夫(柳家三亀夫)てえのを連れて、箱根の環翠楼へ行った。あれは大正から昭和にかわることじゃァなかったかな。浴衣がけで出かけたから、夏だったね。
わしらみたいな客もいるが、新婚旅行の客も多いや。シンネコで風呂へはいったりしてるでしょう。みんなで座敷へ寝っころがって、助平なことなんぞいってるうちに、あのネタが、自然に出来ちまったんだね。

 と、いう記載がある。暫く三亀松の座付き作家をしながら噺家業をやっていたようである。長らく「エンジログループ」なる一座を率いて、東京の寄席や地方に進出。以下は『都新聞』に記載された広告の一例である

▲エンヂログループ 廿二日夜より本所安津橋倶楽部に
圓次郎、圓雀、天晴、星子、市丸、辰奴、三亀夫、越榮太夫、染五郎、圓十郎、馬生出演

(1931年6月21日号)

▲圓次郎グループ 七日より深川常盤亭に、出演者は
圓次郎、圓の助、右圓次、小圓次、圓雀、小俊、とし松、やつこ、辰奴、市丸、三亀夫

(1931年8月7日号)

 この頃、剣劇の女優と仲良くなり、駆け落ち。この女性が後年の妻、宮川美智子である。『内外タイムス』(1954年10月6日号)に面白い記載があるのでこれを引用しよう。

 学者肌の江戸っ子、橘エンジロは亀屋忠兵衛の名で故平山蘆江とも親しかった都々逸の名手だが、帝京座(いまの公園劇場)時代にある桃色事件で関西落ちした時に結ばれたのが美人で聞えた今の細君、何しろ女剣劇出身だけに、ちょいと浮気しようものならコツンとくるので彼氏温和しくみせかけているが、この間も某誌に意味シンな桃色実験?唄を書いたりしてまだまだ健在だ

 ゴシップ臭い所はあるものの、資料としては馬鹿にできない一文である。この駆け落ちしたと思しき記事が、『都新聞』(1933年9月2日号)に出ているので、これを引用しよう。

□橘の圓次郎 旅へ出ました、名古屋の新守座を振り出しに岐阜から伊勢の山田へ参りました、巴家寅子、私、千葉琴月などに万歳歌劇を加へた浅草色物の混成四十名程の一群ですどつちかと云へば御難に近い旅です、楽屋裏でそろ/\地蟲が鳴き始めました、里心がついてゐます、ウヰスキーに酔ひつぶれて物干に寝ころんでゐた万歳連中もようやく掛布團が戀しくなつて来ました

 その後、しばらく関西に居た模様で『都新聞』(1934年3月15日号)の消息欄に、

□橘の圓次郎 中央公會堂出演を機に關西へ捕虜になつた形です、でも酒が美味いので、やせる事もなく胃袋の運動を續けてゐます、京都では近藤勇の氣持になつて團栗橋の上で震へて見ました、加茂川の風は底冷えがします「あんさん風邪引まつせ」舞妓はんが心配して呉れます

という記載がある。その後、漫才になったようだが、この辺りの謎は多い。

 戦時中は慰問団として活躍。1943年11月、母を失いながらも慰問に出るという悲しい芸人のサガを味わったという。『大東亜資源』(1943年12月5日号)に――

山神祭を迎へた豊炭田の産業戰士その家族の人たちへ帝都に於ける一流藝能人を網羅した「新寄席藝術の粋」「東京名人會」を以つて慰問したがその一行十二名は十二日間の巡演を終了するや、直ちに十九日出の北海道地方重要工場山の産報慰安會へ出演と 去る十一月四日、十七日間の巡演を了へて帰京、引いて去る十八日上野駅二三時一〇分新潟行の列車で上越線夜行へ乗り翌十九日は初雪の降る長 岡市公會堂で晝夜二回の公演、一行は(声帯模写)鳥弘一、(奇術)松旭齋小菊、ふく子、(浪曲)筑波雲。(漫才)橘エンジロ、美智子、(歌謡曲)ポリドール専属の若草かほると云ふ颯爽たる顔触れ、當日長岡産報部主催の慰安會を終つて翌二十日は小長谷産報友部主催で片貝の慰安會、二十一日は再び長岡の長盛座に帰った、ところが花形若草かほるの許へ東京の留守をしてゐる母親より「従姉死んだ直ぐ帰れ」 の電報、明二十二日は理研柏崎製作所慰安の仕事を終へて、どうするかといふ話になった。すると橘エンジ口が曰く「舞人は舞豪が戦場、実は私も此の旅立ちの二日前に母親が死んだが、葬式は兄まかせで仕事に来てしまつた」との話、若草も涙ながらに舞台人の苦しさを必々思ひ、そのまゝ京延期して日程を無事終了、舞臺一行の熱意を裏書もした大好評に去る二十三日崎京した。(櫻田)

 敗戦後、浅草を拠点に活躍。1950年頃、日赤芸能奉仕団に加入し、後年副委員長になった、と『産経新聞夕刊』(1960年7月22日号)にある。

 美智子は北海道の生まれで、元は家事手伝いをしていたそうであるが、上京し、剣劇一座に入ったのが芸界入りのキッカケ。後年、エンジロと結婚し、夫婦漫才となるが、コンビ結成年は不詳。

 主に浅草を拠点に活動し、木馬館や浅草の諸劇場で淡々と舞台を勤めていた。漫才としてはあまりうまくなかったらしく、松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年5月2週号)では、

宮川美智子 橘エンジロー

戦後も世相も変り人心もかわったので、あるいはこの人の名前を知らない向きもあるかも知れない。関西の方にナジミがあるはず。
先代奈良丸さんの小屋で神戸の大正座に色物ばかり集った中心会というサークルがあって、その大看板だったといえば「はーあそうか」とうなづく人もあると思う。まあ大先輩の一人であろう。昨年あたり文化放送できいたような気がする。年配向きの主体。
最近見かけないが元気かな。

 と書かれる始末である。

 漫才研究会設立にも関与したが、1955年設立当時は参加しておらず、不思議な関係のまま、関与をし続けたという。

 晩年は浅草の「みどり荘」というアパートに暮らし、一時はその一階を借りて、「しぐれ」というバーを開業。主に美智子と娘が切り盛りをしていたそうで、エンジロは都々逸へと打ち込んだ。娘の一人は橘蔦枝という名で芸界にいたが、後年、ホノルルへと移住した。

 前述の通り、エンジロは漫才よりも都々逸や作詞の才能があり、「亀屋忠兵衛」という筆名で、先述の三亀松の都々逸提供のほか、浅草の「しぐれ吟社」「情歌二六会」の運営や「忠連」なる弟子のグループを作り、都々逸界隈の指導者として活躍。多くの人から尊敬を集め、高い評価を受けた。

 弟子には鳶頭や旦那も居たそうで、晩年の1967年には都々逸を記念する「都々逸塚」を浅草の弁天山に設置し、その揮毫も行った。この都々逸塚は長らく弁天山の麓にあったが、先年の改修工事で移動した。

 三亀松に提供した都々逸として有名なのは、

あたしゃ深川荒浜育ち、貝の柱に牡蠣の屋根、あだな浅蜊と添うよりもやっぱりあなたの青柳がいい

三日待っては思案の半ば ちょっと待ってはいい証拠

ちょっとした意地っ張りだが泪にもろく 一皮むいたら意気地なし

浮かぬ顔して 下うつむいて どうすりゃ気がすむアマノジャク

添うも添わぬも二人の気持ち 他人の世話にはならぬ意地

このことは立川談志も『談志楽屋噺』の中で触れており、

♪あたしゃ深川荒浜育ち、ここで清元、♪貝の柱に牡蠣の屋根、あだな浅蜊と添うよりも……都々逸になって、♪やっぱりーあなたのー青柳がいい
 これは音曲師がよくやる文句で、池之端の師匠こと柳家三亀松も唄った。この三亀松の都々逸やさのさの文句は、橘エンジローさんが多くつくったというのを、エンジローさん当人からきいた。

(立川談志『談志楽屋噺』103頁)

 と、言っている。

 また、純粋な代表作は『下町』という歌集の中に収められており、現在でも読むことができる。ここでは管理人お気に入りのものをいくつか並べておくことにする。

このまま死んでもいい極楽の夢を埋める雨の音

十二階影を落して江川ののぼりゆれる瓢箪池の面

海のひろさは男のこころ波はをんなの小さな胸

呉越同舟めでたく酔って無事に別れる春の宴

夢でもめつたに逢へない人とほんとに出会つた曲り角

独りぼつちの炬燵と知らず降るかしづかに春の雪

投げた銀貨の出たとこ勝負買って見る気のうらおもて

青い備後にプツリと音を立てて春呼ぶ畳針

流れ一と筋道ひとすじの侘しさを行く旅がらす

あの頃は苦労しました泣かされました誰に語らふすべもなく

堅くちかつたこころの鍵はあなたにあづけてその日まで

男後生楽お天と様に申訳ないことばかり

待ってましたハ今出た言葉焦れてましたはさっきから

おなじ十九の初恋だつたそして綺麗な恋だつた

開く蛇の目が柳の雨に濡れて寄り添ふ肩と肩

二枚合はせてチョキンと切った切符へのどかな里の春

所詮は悟れぬ観音さまの亡者で恋住む六区の灯

のり巻きひと折り子の遠足の夢へととけ込む枕もと

柳さくらに祇園の塔もかすむ夜となる先斗町

地から湯の湧く月漏る宿にらしいとらしいの二人連れ

後のまつりと言ふだけ野暮さこれが浮世と云ふものさ

 なんとも、粋でこざっぱりとしながらも、不思議な愛嬌と哀愁を漂わせる――江戸好みの風情があって素晴らしい作品群である。

コメント

無断コピー・無断転載はおやめください。資料使用や転載する場合はご一報ください。

タイトルとURLをコピーしました