東喜代駒ノート

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Kiyokoma Azuma´s Note

 東喜代駒あずまきよこま、その華麗なる人生~

東喜代駒(右)・東喜代志

放送に出演する二人

漫劇の一コマ

妖艶なる喜代駒姐

テレビに出演する喜代駒

 東 喜代駒

 本 名 武井たけい 喜代次きよし

 生没年 明治32年/1899年4月8日~昭和52年/1977年10月10日

 出生地 群馬県館林市本町(旧・邑楽郡館林町大和田)

 趣 味  諸芸、将棋、買食ひ、バイオリン、浪花節、芝居見物など

 喜代駒、その一生。

・三分でわかる喜代駒

 群馬県館林市生まれ。実家は館林秋元藩の家老の家柄であった。尋常小学校卒業後、上京。神田の米問屋や飯田定次郎という陸仲士のもとで奉公し、自分も米屋を開業するが芸事に凝り始め、震災で店も取引先も潰れたことを幸いに漫才師に転向する。

 初めは村松喜代志という男と組み、喜代駒・喜代志としてスタートを切る。従来の漫才には見られなかった奇抜な発想と戦略の巧さが功を奏し、大正14年には当時の一流劇場であった市村座で独演会を開催する程の成功をおさめ、また東京漫才では初となるレコード吹き込みやラジオ出演を果たすなど、東京漫才の礎を築いた。

 上方漫才の影響を受けつつも、模倣ではない独自の東京風の漫才を模索し続けたのは特筆すべき点であり、円満な性格から、東ヤジロー・キタハチ、大空ヒット、都上英二・東喜美江、Wけんじ、源氏太郎などの優秀な人材を育てた事も見逃せない。「東京漫才の元祖」といっても過言ではないであろう。

 喜代志の後釜として駒千代と組むが、昭和10年頃には漫談を視野に入れ始め、漫才コンビを解散し、後に漫劇、コント、バンド、レビューなど多種多彩な芸にも手を出した。

 戦後は漫才師というよりも、多くの文化人や政治家と交友を深めたり、仲間や家族たちと旅行をしたり、芝居に出かけたりと趣味人的な傾向が強くなった。しかし、芸人を引退する事はなかったようで、頼まれればバイオリン漫談や浪曲漫談などを演じていた。

 1977年10月10日、余興先の三養荘で急逝。最期は温泉につかりながら、静かに往生するという劇的な死を遂げる。今の漫才師やアイドルに引けを取らぬほどの大きな成功をおさめた反面、芸への執着やリーダーシップに欠けるきらいがある事から、未だに評価の位置が定まらない。

――下からが本編である。


・喜代駒の青春

 1899年4月8日 群馬県館林市にて、館林秋元藩々士・武井中衛の次男として出生。喜代次と名付けられる。ご遺族によると、長兄は本家に出ていたそうで、実質の跡取り息子として育ったという。

 1903年、わずか三歳の時に父が亡くなる。喜代駒の壮年期は両親親族に余り恵まれない孤独の時期があったという。東京に出て奉公しに来たのもそういう背景があるのかもしれない。

 その縁戚や関係者などは多々あり、現在も群馬と東京で健在であるが、武井一族には何頭の因縁や事情があるので深くは突っ込めない。これだけの説明かと思われるかもしれないが、何卒ご了承願いたい。

 1913年頃、高等小学校を卒業し、上京。14歳で、神田にあった東京廻米問屋「関商店」に丁稚奉公をする。また、神田川で荷揚運搬をやっていた飯田定次郎の下で軽子(運送業者)としても働いていたそうで、この頃、面識を得たのが、飯田定次郎の親戚にあたる直井巌という青年。後の悠玄亭玉介である。

 当の玉介は自著「たいこもち玉介一代記」の中で、
 

  話は脱線するけど、この後妻のおふくろの叔父さんが飯田定次郎って人で、通称「飯定」っていってね、神田川の荷揚人足、軽子の元締めなんだ(中略)この飯定の叔父さんのところにいたのが、東喜代駒っていう昔の有名な漫才師。駒千代と組んで、昭和五、六年ごろ、漫才ではずいぶん人気が高かった。この人はキヨどん、キヨどんって言われて、叔父さんのとこで軽子で働いていたんだ。器用な人でね、声色を使ったり、いろんなことをしているうちに、とうとう軽子をやめて漫才師になったんだ……

(悠玄亭玉介「たいこもち玉介一代記」 54~55頁)

 と、自分の家族関係を踏まえつつ、こう回顧している。喜代駒の奉公人時分の頃の資料は殆ど残っていないので、軽子であったという過去はこの本で初めて知った。

  残念ながら、これ以上の事は記されていないので労働形態や勤務年数も分からないが、多分関商店と並行して(あるいは関商店から派遣されて)勤務していたのではないか。米問屋に米を入れるためには運送業が欠かせないのは今も昔も変わらない話である。
 追記:その飯田定次郎氏のご遺族より、飯田定次郎の資料及び情報の提供をいただいた。参考資料にしていただけると幸いである。

(提供 E.S.さま)
「昭和六年  飯田家墓供養」の折の集合写真

・図解

 前列中心のお坊さんの左隣、飯田定次郎氏。
 お坊さんの右隣は飯田徳蔵氏といって、定次郎の跡取り。
 そして、お坊さんの左後ろ(定次郎氏とお坊さんの間というべきか)、小柄な割と若い人が提供者様のお祖父様にあたる、菊次郎氏。ご遺族によると、この菊次郎氏の実の姉が玉介さんのお父さんの後妻になったそうである。
 喜代駒の前、定次郎氏の左隣(座っている人)が、定次郎の長女・喜代の夫であった飯田隆四郎氏。跡取の徳蔵氏とは義兄弟の関係だったという。隆四郎氏の子供が日本のウェイトリフティングの先駆けを作った飯田一郎氏。
 お話によると一郎氏と徳蔵氏は仲が良く、一郎氏の作ったバーベルで徳蔵氏は自慢の怪力を鍛えたという。
(喜利彦余録:ご遺族様によると、定次郎の跡取りであった徳蔵は早くからウェイトリフティングに興味を示されたそうで、日本ウェイトリフティング協会が発行した『ウェイトリフティング60年史』にも『 江戸時代より差し石や俵差しを受けついできたグループの一人である飯田一郎の話によると、昭和6年頃同氏が神田の古本屋で英文のウエイトリフティング書を発見、それをもとにバーベルを製作したのが、わが国最初のバーベルであるという。当時、東京神田川近くで運搬業を手広く営んでいた飯田一郎の叔父である飯田徳蔵を中心とした力自慢たちは、力石や米俵の代わりにこのバーベルを使って大いに腕を競いあったのである。』と記されている。また、徳蔵は神田川徳蔵という名前で活躍をしたといい、徳蔵およびその関係者で奉納した「力石」なるものが、秋葉原の柳森神社に残っている。本旨と外れるが大変面白い話なので、ここに明記した。)
 話に戻って喜代駒である。奉公人時代の事は(堅気だったせいか)ほとんど分かっていない。しかし、本人の弁によると、大変芸道楽好きの悪ガキだったという。特に熱を上げたのが浪花節だったそうで、一時は浪花節語りになろうかと考えたほどでもあったという。

 その頃を回顧した貴重な資料が私の手元にあるので、紹介することにしよう。

喜代どんのごひいき

 喜代どんは、浅草の初音館に出て居た東家燕山に熱を上げて通つた。熱を上げたのは、カワイコちやんの桃中軒雲奴のほうだが……とにかく東家燕山がたまらなくすきだった。
 フアンとして付合つて居るうちに喜代どんのことを兄ィさん/\と呼ぶようになつた。
 二人で仲見世の大増に上つて相談した。どうだ兄弟分になろうといつたら燕山は喜んで承知した。喜代どんは幟を贈つてやつたり羽織をこしらえてやつたりした。
 喜代べエ、一寸こい!
 大番頭に蔵前へ呼ばれた。
 奉公人のくせに浪花節語りなんかと付き合いやがつてとんでもねえ野郎だ、旦那に知れたらお払い箱だ。
 さんざん、油をしぼられた。
 燕山に話したら、皆私しがわるいんです兄いさんごめんね?
 目に泪を浮べていた。
 喜代どんは考えた。自分一人が芸人を贔屓するからイチャモンをつけられるんだ店中でひいきにしたらどうだろう。
 まさか全部お払い箱には出来まい。いけなければ同盟非行だ! 悪い小僧があるもんで、善どんに話したら、ヤレヤレッてけしかけられた。
 ビリケン、トランべ、サダエモン、茶目、ジゴマ、タンコロ(奉公人の仇名)
 皆んなに話をしたら渋ぶつて居るから、木戸銭と電車賃は喜代どんが出すと云ったら一発でOK。
 燕山の評判をきいて河岸の連中も初音館に行くようになったので、大番頭もニガ笑いをして居た。
 小松亭の下足が大番頭さんは辰雄や清吉が掛ると毎晩来るよといった。
神田川の人足の親分がいいました。
人間は死ぬ迄働けッて死んでからゆつくり休めばいいだろうといつたら洒落れた事いいやがるつて廿銭くれました。仲よしの善どんに話したら、俺は死ぬ迄浪花節をやるんだといつた。

(「東きよこまファン」16号(昭和46年5月15日発行) 1頁)

 何とも落語のような愉快な話である。それと共に、この頃から芸事に溺れ始めており、後年の才覚と芸馬鹿ぶりの片鱗が現れつつあったのではないだろうか。

 21歳の春、關商店を満期退社をし、独立。後年のプロフィールを見ると、

十四歳より神田東京廻米問屋、關商店に商業見習として入り、二十一歳の春満期退社、下谷練塀町に於て獨立し白米卸賣商を営む。

(「レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版」第六編 演藝家 299頁)

 とある。一方で喜代駒の幼馴染であった郷土史家、小川零銭は自著「館林繁昌記 明治・大正編」の中で、

 かねてから好きで好きでたまらなかった浪花節の道に入る決心をして主家をとび出し、その当時浪花節の番付で関東派の三役格東武蔵の門に弟子入りした。
 そして苦しい修業を数年続け、ようやく前座に出られるようになり、東喜代駒と名乗り、地方巡業にも出た。しかし喜代駒は浪花節独特の腹の底からしぼり出す低音が思うように出ない。そのためお客がのってこない。それに悩んでいた。

(小川零銭「館林繁昌記 明治・大正編」 215頁)

 と、喜代駒が店を捨て、浪曲師になった事を示している。しかし、これは確たる証拠がなく、仮に前座生活を3年やったと見積もってみても、喜代駒の経歴とうまく辻褄があわない。

 小川氏は何かと勘違いしている可能性もある。が、「東」の亭号の推測を出した意見はこれくらいなものであろう。もっとも、喜代駒が東武蔵のことを深く敬愛していたのは事実で晩年まで文通や交友などを続けていた。

 後は喜代駒本人が、

 私の生れは上州です。上州と申しましてもいさゝか広うございます。群馬の東部館林の産です。故郷を忘れぬため名前も喜代駒とつけました。

(「週刊読売」より「私の描いた絵」1952年11月24日号 65頁)

 と、語っている程度か。何はともあれ、独立して米屋を開いたことは間違いない事実であろう。

 ・喜代駒と震災と

 關商店から独立する直前で(1919年頃?)、飯塚吉五郎の娘、飯塚波江と結婚。遺族のお話によると、波江は良家のお嬢様の出身(曰く、教師の家庭だったそうである)だったそうで、芸能界とは縁もゆかりもない人物だった。喜代駒とは古い仲で、馴れ初めは波江が武井家に女中奉公をした時に出会ったものであろうか。

 そのためか、後年喜代駒が人気者になった後も、表舞台に立つことはなく、影の功労者に徹し、良き家庭人として収まっていた(もっとも夫の散財ぶりには頭を悩ませていたそうであるが)。

 当時、漫才師の多くがすぐに夫婦関係を結んだり、相方の不足で妻を舞台に連れ出していた事を考えると、家庭は家庭、仕事は仕事で分別していた喜代駒夫妻の態度は実に先見的ではないだろうか。

 1920年4月28日、長女・喜美子誕生。21歳にして、早くも一児のパパになったというのだから、驚きである。

 さて、喜代駒の開いた米屋は、当時、外神田の近くには青果問屋があり、多くの人の往来があった事も幸いしてか、店を上手く軌道に乗せることができた。

 余裕が出ると、人間は行動的になりたがるのか、米屋の旦那として成功し始めた頃から、観劇、寄席通いだけでは飽き足らぬようになり、天狗連(アマチュアの芸人グループ)に参加し始めるようになる。

 その頃、どういう事をやっていたのか、詳細な資料はないが、それでも二、三の資料を覗くと、断片的な記録を伺う事ができる。以下は、当時の様子を示したものである。

 さて関東大震災前に、浅草の御国座(現在の松竹座)へ安来節の一座が参りました。其中へ萬歳が(昔は漫才とは書きませんでした)二組ばかり這入つて来ました。(略)女が男の頭を張り扇でぽか/\ブンナグルのを見て、此奴はキバツだ? 俺も一つあれをアレンヂしてやつて見ようと、生来イカモノ好きの私でしたので早速やり出しました。ところが、困る事に、萬歳は二人でやらなきやア出来ない仕事です。と云つて折角思いついたのだから、兎に角やる事にきめました。

(省略)

吉原土手の古道具で鼓を買つて来て、舞台でバン/\叩いて。当時流行した唄や、怪しげな珍舞踊などを取入れて、最後は一人芝居、日本太郎よろしくの立廻りなどを演つて、寄席に出て居りました。其のため、着物はビリ/\にやぶけて仕舞いましたが、今と違つて、半分お道楽でやつて居る時分だから、そんなことお構いなしでやれました。しかし、どうしても相手のない事には萬歳では通りませんので、其の当時の一流どこの加藤滝子、阪東三光、五條家弁慶なんて云うウルサ方を太夫に頼み、ドテ組を巡つて居りました。

(中丸宣明篇『コレクション・モダン都市文化 第4期 第六七巻 漫才と落語』より「解題・関東漫才おぼえ書き」六五四~五頁)

 また、違う文献には、

地方興行にきた曲馬団、エエ、今のサーカスですね。そのほか、剣舞の物まねなどをして喜んでいたぐらいだから、そもそも商売に身が入りゃしない。で、マゴマゴするうち、震災(大正十二年)でしょう、みんな焼けちまって、商売の〝貸し〟もとれなくなっちゃった。

(「創」昭和四九年四月号 二八九頁)

 と、ある。その他、ご遺族や幼い頃、喜代駒の家の近くに住んでいたという柳家小袁治氏の話などによると、

・宴会を開いては、まだアマチュアだった柳家三亀松を呼んで、一緒に遊んでいた。
・駆け出しだった頃の柳家金語楼とも仲が良く、呼び捨ての仲だったという。
・誰かに会うたびに、祝儀を切ったり、ごちそうをするので、家中の者はやりくりが大変だったという。

 等々、その鷹揚なお旦那ぶりが窺える。特に金語楼と三亀松との関係は深かったと見えて、前者は一緒に演芸会を開いたり、後年の「東きよこまファン」の中で対談などを行っており、後者もまたつかずはなれず長い関係にあったという。

 中でも面白いのが、「東きよこまファン」(13号)に掲載された大空ヒット「先生と私のこと その一」という連載の中で、

人の世話の好きな先生は多くの人の世話をされましたが、そのいずれもがそむいたり、死んだりして、今はいく人ものこってはいませんが、東ヤジローキダハチ、東喜美江、などはもう故人となりました。今は映画会社の重役、近江俊郎さんも私と同期、おどろいたのは、故人柳家三亀松が「喜代駒先輩は俺の師匠だと思ってる人なんだよ」といったことでした。そういう三亀松も偉いと思いましたがそれを口にしない喜代駒先生もまた偉い人だとつくづく思ったことでした。

(「東きよこまファン」第13号 3頁)

 という記録が残っている点である。音曲の三亀松と漫才の喜代駒の領域は少し離れたところにあったものの、この短い中に不思議な関係が描き出されている。

 嘘だとかべんじゃらだとかいう見方もできないこともなさそうであるが、著者の大空ヒットという人は正義感が強く、人を陥れたり、嘘やヨイショをするタイプでもなし、また三亀松に可愛がられていた芸人でもあるので、生の言葉ではないだろうか。

 1923年2月25日、次女・艶子誕生。当時まだ健在だった喜代駒の親が次女の名付け親になったそうであるが、本人はこの名前があまり好きではなかったそうで、通名を「津弥子」にしていた。

 ・芸人・喜代駒

 二児のパパとなり、米屋の旦那としてもそこそこの成功をおさめ、夜な夜な怪しい芸事や芸人とのつるみも増えるようになった中で、喜代駒に有る転機が訪れる――それがいい転機だったのかは、別としても芸人・東喜代駒にとっては大きなターニングポイントであった。

 一九二三年九月一日。数日前に王子のダイマス亭(字不明)という寄席に頼まれて、独演会を開くために準備をしていた。

 十一時五十八分。凄まじい轟音と激しい揺れが帝都に襲い掛かった。歩く人は腰を抜かし、建物や壁はいとも簡単に崩壊し、あちらこちらから様々なものが壊れる音が響き渡った――関東大震災の発生であった。

 多くの建物がつぶれ、圧死者が続出する中、喜代駒一家は何とか命拾いをした。しかし、揺れが収まった直後には火の手が上がり始め、多くの避難民が荒浪の如くに逃げ惑い始めた。

 多くの流言が聞こえてくる中、喜代駒夫婦はまだ幼い喜美子と艶子、それに武井家の重宝である槍と身の回りの品だけ持って、上野の山へと向かった。

 然し、危機に見舞われた時、人間は誰しも同じことを考えると見えて、普段ならば十五分もあれば辿り着く上野の山へ落ち延びる事ができたのは、二時間近く経った後だという。

 上記はご遺族が生前の喜代駒夫妻及び関係者から聞いた話のまとめである。私の聞き漏らしもあるかもしれないが、震災で大いに苦労した、という事を理解していただければ幸いである。

 なんとか助かった喜代駒一家であったものの、家や財産を一瞬にして失った。潰れた家を前にした喜代駒夫婦は何を思ったのか――それは彼らにしか判らない事であろうが、良くも悪くもこの震災がキッカケとなって、武井喜代次は芸の道に入り、東喜代駒と名乗るようになった。

 ただ、『日刊ラヂオ新聞』(1926年8月25日号)などには「廿三の時、家族に店をまかして斯界に身を投じた人」とある。この頃はまだ相方が安定しておらず、加藤滝子、中村種春、太刀村一雄など関西系の人と組んでいた模様である。

 一九二四年六月には、声色の三遊亭三橘と協力して神田の自宅に「喜代駒演藝社」を設立。この事は『都新聞』(1924年6月1日号)にも取り上げられ、

▲東喜代駒 三遊亭三橘は神田松富町十四へ諸演藝に関する事務所を設く

 という記載が残っている。以下は喜代駒家に残っていた紹介状。

 1925年1月5日、三女・松子誕生。この頃、蝶花楼馬の助・柳亭左龍の門下に居た村松清と出会い、コンビを結成。お座敷を中心に活動を広げていく。この年、太刀村一雄とのコンビで初レコード吹込みを行った。『蒐集奇談』に、

●東喜代駒・太刀村一夫 大正14年のパイオニヤに「磯節くずし・滑稽軽口」(未見)がある。喜代駒の初吹き込み版。

『レコードコレクターズ』一九九四年六月号

  と、ある。この頃には睦会にも落語協会にも何処にも所属しない「中立派」という一団に属していた。

 1926年4月1日に市村座で「ハイクラス萬歳 東喜代駒熱演會」を開催。一円五十銭・一円・五十銭という破格の入場料にも関わらず、一円五十銭席は売り切れたという。

 同年8月24日午後8時、JOAKに初出演。「萬歳」の看板は遠慮し、「滑稽掛合噺 東喜代駒・東喜代志」。演題は「難題問答・鴨緑江節・数え歌・越後獅子替歌(五段返へし)」であった。

 同年8月30日には大森大海水浴場の「納涼花火大會」のゲストとして、ハイクラス萬歳で出演(『日刊ラヂオ新聞』1926年8月30日号)。

 同年9月 名古屋・岐阜地方へ巡業(『読売新聞』1926年9月14日号)。

 同年11月4日から3日間「ラヂオ展」(東京市電気会館)の余興として、「高級萬歳 東喜代駒・喜代志」として出演(『日刊ラヂオ新聞』1926年11月4~6日号)。

 この頃から一龍齋貞山、三升家小勝等が在籍する「東京落語協会」に近づき、定期的に寄席へ出演するようになる。この寄席への定期的進出は、日本チャップリン以来、二組目。

◎両国両国座 圓橘・花蝶・馬の助・馬風・曹漢才・喜代駒・ぎん蝶・小仙小金・可楽・談志・馬楽・圓遊・文治・貞山・金馬

◎牛込牛込亭 圓雀・影山翠・圓楽・圓右・胡蝶斎・小仙小金・ぎん蝶・喜代駒喜代志・曹汗才・小圓朝・小せん・柳朝・文治・可楽

(『都新聞』1926年12月1日号)

 以降、お座敷を中心に、寄席への出演、劇場への進出を行うようになる。

 1927年限りで、喜代志とのコンビを解消し、1928年から弟子の千世子を駒千代と名を改めさせ、「喜代駒・駒千代」を結成。一方で、喜代志との交友は依然として続いており、後年の漫劇や巡業などの手助けなどをしあう関係にあった。

 1930年5月、大阪道頓堀・松竹座「シンサイ祭」に出演。この頃から、レビューやダンスを取り入れていたと見えて、『読売新聞』(1930年5月10日号)の中に、

「私の役は此レヴュウで田舎壮士を勤め、演歌を唄ひ万歳を演り、ダンスを踊るといふ趣向」

 という記載がある。この頃から、新聞の芸能欄に喜代駒の名前が取り上げられるようになる。

 同年、林家染團治と共に『尖端エロ萬歳』を出版。東京漫才の速記本としては初のものではないだろうか。

 1931年3月16日、『読売新聞・夕刊』に、『寄席の色物はどう變るか――力強き萬歳の存在』という記事の中で、

……力強き存在は万歳で、捨丸とか菊春とか喜代駒とか、これ亦有名無名が何十組あるか判らない 最初は浅草だけだつたのが客の受ける儘に市内へも漸次進出して来、落語家連中も圧倒されてゐる形

 と写真入りで紹介される。

 同年12月16日、JOAK午後0時5分よりカケ合ひ話『親父はダー』に出演。末娘のマツ子が若干七歳で出演を果たしている。

 1932年4月8日(喜代駒の誕生日でもある)、JOAK午後8時より『金のなる國』に出演。「笑ひの爆弾投下」と冠され、娘のマツ子、弟子の駒千代、貞水(喜代駒の妻の弟か?)と共に、掛け合い、都々逸、浪曲などを織り交ぜた集団漫才を行った。この頃より後年の漫劇に近い動きを見せるようになる。

 同年12月10日、JOAK午後8時20分より『いいぢゃありませんか』に出演。はじめて「小唄漫劇」と冠され、駒千代も千世子と改名した。ただ、この時の放送は喜代駒・駒千代のコンビでの出演であった。また、1932年頃より、漫談界隈にも出入りするようになり、大辻司郎や徳川夢声と共演している様子が窺える。

 ・志し、漫劇にあり

 1933年1月28日、帝国ホテル演芸場で「東喜代駒の夕」を開催。出演者は喜代駒の他、千世子、ツヤ子、マツ子、駒春、喜代志、伊志井寛、三遊亭金馬、丸山和歌子、東武蔵。

 同年2月3日、『読売新聞・夕刊』に『本役は鬼の方 喜代駒が年男と掛合万歳』という記事が掲載される。その中で、

東喜代駒、先夜お座敷へ急ぐ途中円タクの運ちゃんと口喧嘩までして車に乗ったが、急に江戸っ児気を出して、大枚一圓の料金を投げ出したので運ちゃん、急に恵比須顔になり、流石はハイクラス万歳の家元だけあると褒めたが、喜代駒その万歳の家元の一言に悲観し五日間ばかり考へ込んでいたが、もう万歳時代ではないと運ちゃんの言葉をキッカケに、こんど万歳の万の字を漫にして、「漫劇」をはじめる事に決心したが、鬼が出るか蛇が出るか……

 と、漫劇を始めた理由が出てくるのが興味深い。その言葉の通り、この辺りから漫才との距離を置き、漫談と集団漫才――漫劇に重点を置くようになる。

 同年2月9日、東駒千代改め千世子の話が『都新聞』に掲載される。改名の理由は姓名判断に従い、本名の「千世子」に戻したとの事。

 同年2月17日、喜代駒が漫劇に転向した理由をしたためた記事『東喜代駒と菊五郎と 高級萬歳から漫劇への転向』が『都新聞』に掲載される。上記の『読売新聞』とはまた違った理由になっていて面白い。以下はその記事の引用。

 話は去年の二月十一日から始まる。青山會館で建国祭を祝ふ演藝の夕が催されて、その出演者の一人に加はつてゐたのが当時の高級萬歳東喜代駒だった、数ある出演者の中にもう一枚尾上菊枝を加へるために、會の幹事が先づ菊枝の師匠菊五郎の許を訪ねて、菊枝の出演方を頼み入れたが結局駄目だつた、その幹事が帰つての話に、菊枝がこの演藝會に出ない理由は、仮にも音羽屋門下の俳優が、高級萬歳と一つ舞台に出る事は出来ないといふのだつた、これを聴いた喜代駒は、音羽屋が何んだ、高級萬歳が何故悪いのだ、税金の多寡こそあれ、鑑札を受けて藝で稼いでゐるつまり藝人といふことに音羽屋と自分とどれ程の変りがあるのだ?、菊五郎程の人格者が、まさかそんな事は云はないであらう、その中間に立つ者が云つたセリフではあらうが、いづれにしても菊枝の出ない理由が、喜代駒と同席では……といふのにあることだけは事実だ、そう聞いた以上同席してくれと万一先方から頼まれても、こつちから手を引くと喜代駒は欠演を會の方へ申出たが、その間いろ/\と誤解のあつた事も判り、結局菊枝も喜代駒も、心持よくこの演藝會に出演することになつた、が、喜代駒にして見れば其後相当の悩みがあつた「高級萬歳」「ハイクラス萬歳」たしかに時代に通じた名称ではないことに自分も気がついた、そして菊枝問題から丸一ヶ年後の今日、高級萬歳といふ名を捨てゝ、漫劇といふ新名称の下に、働くことになつた……

 同年3月11日、JOAK午後8時より、掛合噺『ロボット』。千世子、マツ子、ツヤ子、喜代志の他、俳優の関時男が漫劇に参加している。曰く、「関時男は鈴木伝明と共に松竹蒲田を脱退し不二映画にゐたが、これもぽしゃつたので喜代駒の漫劇に参加」(『読売新聞』)とある。なお、川田晴久も喜代駒の一座に出入りしていた事がある。

 同年4月20日、レッキス演芸大会に木村重友、松旭斎天雷・天菊、丸一時次郎らとともに出演。「漫劇」の他にジャズも演じていた。

 同年7月2日、JOAK午後3時10分より、掛合噺『ジキルとハイド』。ジキルとハイドを喜代駒、千世子が笛子、ツヤ子がアナウンサー役を務めている。

 同年12月3日、JOAK午後7時30分より、掛合噺『キングコング』。千世子、マツ子、ツヤ子、喜美子、千枝子、天洲が出演。キングコングは同年9月に上映されたばかりなので、流行の最先端だったと言えよう。

 1934年1月、『演芸画報』の記事『日出丸と大洋』にその名前が出ているが、冷やかされたような書き方をされている。この頃、東ヤジロー・キタハチなどが弟子入りする。

 1935年1月28日、京橋明治製菓ビルで「ヘッポコ芝居公演」を開催。『忠臣蔵』大序から7段目まで、『河内山』、『め組の喧嘩』を出し、正岡容、燕枝、桂小春団治らも出演。

配役は、千世子(由良之助、道行勘平、大膳、辰五郎)、千枝子(かほよ、おかる、女房お仲)、ツヤ子(直義、伴内、郷右衛門、藤松)、マツ子(判官、彌五郎、四ツ車、鳶)、キミ子(若狭之助、早野勘平、亀右衛門)、喜代駒(師直、力弥、河内山、九龍山)。

『都新聞』(1月24日号)

 

 同年2月4日、芝増上寺で行われた節分豆まきに参加。ほかの参加者に朝倉文夫、入江たか子、岡田静江、井口静波など。

 同年3月4日、JOAK午後0時5分より掛合噺『ポケット・シヨウ』。喜代駒、千世子、キミ子、ツヤ子、マツ子、千枝子。漫才の中にジャズを取り入れるという斬新な演目であった。

 同年3月15日、丸の内蚕糸会館で行われた「保険奨励演芸の夕」に「キヨ・ジャズバンド」として出演。他にもキミ子、ツヤ子、千世子による舞踊、漫劇の仲間、池田一郎の漫談、燕枝『富久』、燕平『藤堂高虎』と関係者が集った。

 同年3月29日、東宝小劇場で「第二回ヘッポコ芝居」を開催。

 同年4月、遠州浜松へと巡業。同行は藤本二三吉、尾上栄次郎、中野忠晴、河上鈴子、伏見直江、丸山和歌子、御門きん子。『都新聞』(1935年4月14日号)によると、少女にサインをねだられ、ふと紙を見たら「約束手形」だった、とぼやいている。

 同年5月に、神田日活館で「第三回ヘッポコ芝居」を開催。キミ子の板割浅太郎、ツヤ子の巖鉄、千世子の国定忠治、マツ子の定八、喜代駒の藤造、千枝子の傅吉で「国定忠治」を披露。

 『都新聞』(5月29日号)によると、6月1日、芝大門青年団会館で、私淑する浪曲師、東武蔵と二人会を開催。

 同年7月、東宝小劇場で開催されている「東宝名人會」に初出演。漫劇『?』という珍なる作品で、漫才師として初めて東宝名人会に出演した。

 同年9月10日、九段小劇場で「ヘッポコ芝居」を開催。『神崎東下り』、『森の石松』、『鼠小僧』を演じる。

配役は、喜代駒(お熊)、千世子(次郎長、鼠小僧)、智恵子(森の石松、松山太夫)、キミ子(婆、客人)、マツ子(神崎与五郎、蜆売り)、ツヤ子(丑五郎、岡っ引)の他。

『都新聞』(9月7日号)

 同年9月16日、『都新聞』に『インテリ漫才を嫌ふ』を掲載。喜代駒が漫才をやっていた時分と現在の流行との差異を指摘し、いつまでも暴力的で一向に変わらない下品な笑いや漫才を強く批判している。

 1936年「漫才新興連盟」創設に参加。ヤジロー・キタハチ、桂喜代楽、叶家洋月など。ただし、キタハチの出征や派閥争いにより、自然解消した。

 同年7月、蕁麻疹に罹患して苦しむ。『都新聞』(7月9日号)

 同年11月14日、館林に帰郷。館林富貴座で「皇軍慰問の夕」を開催。翌15日は高﨑衛戍病院を慰問し、「傷病兵慰問演芸會」を開催。『都新聞』(11月11日号)より。

 同年11月29日、軍人会館で「モダン浪曲ナヤマシ會」を開催。出演者は喜代駒、井口静波、上田五万楽、花柳貞奴、東千世子、女猫造、東喜代惠、高津戸俊、筑波雲、山口喬。『都新聞』(11月27日号)

 同年12月23日、芝愛宕キネマで「モダン浪曲ナヤマシ會」を開催。喜代駒、井口静波、林伯猿、上田五万楽、花柳貞奴、桂一奴、東喜代惠、池田一郎、筑波雲、山口喬。『都新聞』(12月13日号)

 1937年1月13日、JOAK午後0時5分より掛合噺『ハリキリ社長』。出演者は、喜代駒、千世子、喜美子、ツヤ子、マツ子、柳生一郎、東天洲、東弥次郎、東喜多八。門下生の東ヤジロー・キタハチが「マンザイ」という役で出演しているのが、貴重。

 同年1月31日、日比谷公会堂で「群馬県の夕」に出演。司会役を務めた。出演者は喜代駒、宮田東峰、静田錦波、渡辺篤、毛利幸尚、林きむ子、結城道子、町田佳聲、東家小樂燕など。『都新聞』(1月28日号)のインタビューで「群馬は親不孝の産地と見えます」で答えている。喜代駒、親不孝説。

 同年7月17日、『読売新聞』の記事、『わしの花嫁さん デパートでの見たて』に「芸界人気者」の一人として載る。他には、香島ラッキー・御園セブン、柳家三語楼、渡辺篤、曾我廼家五九郎など。

 ・戦争と喜代駒

 1938年7月5日、伊勢丹ホールで「モダン浪曲ナヤマシ會」を開催。出演者は、喜代駒、井口静波、林伯猿、上田五万楽、花柳貞奴、池田一郎、酒井清、一龍齋貞鏡、中山呑海など。

 同年9~10月、「群馬県民代表皇軍慰問使」に任命され、9月19日より10月10日まで中国へ慰問。群馬会館での壮行会、八幡宮参拝の後、東京へと移動し、皇居遥拝、明治神宮、靖国神社を参拝して、夜行列車で北京へと向かった。朝鮮、奉天を経て、北京に到着後、喜代駒は第一班に編入され、前線の県民兵士たちを慰問した。

「第一班」のメンバーは右の通り。菅谷、小林両県議、大國社寺兵事課長、東喜代駒、酒井潔、楠木繁子。『上毛及上毛人』(10月号)より抜粋。

同年11月4日、『都新聞』に『大陸で拾った“笑” 東喜代駒の漫劇部隊』を掲載。3歳、21歳の時に種痘を打った以来、予防接種をしたことのなかった喜代駒の苦労談や、天津の町で拾った話を紹介している。この土産話は、上記の「群馬県民代表皇軍慰問使」のついでであろう。

 この10日後の、11月14日に軍人会館で「東喜代駒○○報告會」を開催しているが、部隊名が伏せられているのが時局をよく示している。

 1939年1月21日、大久保キネマにて、東家燕左衛門、服部伸と共に「三人会」を開催。

 同年3月、名古屋へ巡業。『都新聞』(3月23日号)によると、24日に帰京。

 同年4月1日より、珍しく上野鈴本に出演。小さん、柳枝、左楽、柳好が看板で、色物にたぬき家連、結城孫三郎など。この月の後半、松本へ巡業。

 同年7月7日、『都新聞』に『二十年振に対面したら旦那は漫劇でした 喜代駒と燕左衛門の奇縁奇遇』が掲載される。

 浪曲師の東家燕左衛門は、「大利根太郎」改名披露の会を開く事となったが、応援出演に出てくれる人がおらず困っていた。それを見かねた贔屓の親分が「喜代駒に頼んだら、きっと世話をしてくれるだろう」と、手紙を書いてくれた。喜んだ燕左衛門は勇んで喜代駒を尋ねると、喜代駒は二十年も昔、駆け出しの時分を贔屓にしてくれた米屋の旦那「武井喜代次」だと判明してビックリ。その奇縁奇遇に二人とも驚いた。

 同年9月15日午前9時より神田明神で「武運長久祈願祭」を開催。陸軍軍医々学校に在籍中の負傷兵120名と共に祈願を行ったという。『都新聞』(9月13日号)によると、以前にも亀戸天満宮で祈願祭を行ったことがあるとの事。

同年10月12日、軍人会館で「東喜代駒の夕」を開催。出演者は喜代駒、井口静波、西村楽天、木村重行、大利根太郎、春風亭柳好、小金井蘆洲、貞子、正子他。『都新聞』(10月10日号)

 1939年11月、奉天で当時、人気絶頂に達していた女優・李香蘭と出会う。

 奉天の駅で某高官に李香蘭に紹介された際、喜代駒は饅頭をむしゃむしゃとやっており、口に饅頭をほおばりながら、李香蘭と握手をした。翌年の8月、友人の西村楽天が慰問に行く事となったので、東京駅まで見送りに行くと、李香蘭も楽天の見送りにやってきており、鉢合わせをした。楽天が李香蘭を紹介しようとすると、李香蘭は「よく存じております」と答え、楽天を驚かせると同時に、「今日はお饅頭を召し上がっておられませんの?」と李香蘭に尋ねられ、流石の喜代駒も笑うより他がなかった。

『都新聞』(1940年8月14日号)

 1940年1月29日、「東喜代駒演芸報国の夕」を開催。出演者は喜代駒、井口静波、丸山和歌子、大利根太郎、一龍齋貞鏡、ニュース他。戦時中の時局色が強くなり始めている。『都新聞』(1月25日号)

 同年5月20日、『都新聞』に『漫才の裏表』が掲載される。その中に、漫才界の功労者として喜代駒の活動と嘗ての人気ぶり、その思い付きと行き方がボーイズやシヨウに影響を与えたことなどが紹介されている。

 同年6月1~2日、深川会館で朝日日出丸と共に、「漫芸の夕」を開催。出演者は喜代駒、朝日日出丸・日出夫・日出若・日出子・日出坊、吉原家〆吉・〆坊、喜代子・小喜代、喜美子・喜代若。二組の大御所が顔合わせしたというのが、珍しい。『都新聞』(6月1日号)

 同年6月2日、喜代駒の三人娘が二十四圓六十銭を、桜献金(軍部への献金)をして『都新聞』に取り上げられる。戦時中はこのようなことが美談とされており、臣民のあるべき姿であったことを考えると、戦時中の動向を強く感じさせる。

 同年8月、珍しく上野鈴本に出演。『都新聞』(8月8日号)

 同年12月22日、1時6時の二回、日本青年館で「演芸報国会」を開催。出演者は喜代駒、高勢實乗、西村楽天、神田伯龍、春風亭柳橋、東ヤジロー・キタハチ、大空ヒット・東駒千代など。

 1941年2月1日、「漫才と漫劇の夕」を開催。『都新聞』(2月1日号)

 以降は戦局の悪化に伴い、紙面や物資が減少し、長らくゴシップを報じ続けてきた『都新聞』も統合廃刊の運命を辿った。僅かに残された資料や写真を見る限り、慰問や余興、寄席への出演、地方巡業などを続けていた。

 1945年、度重なる空襲により、神田の住居をはじめ、思い出の場所や物、知人・友人を失う。東京大空襲の罹災者の中には、中国奇術の李彩や講談の一龍齋貞山がおり、かつて出演した寄席や劇場も悉く焼き尽くされた。

 ・敗戦と喜代駒

 戦後は、娘三人に楽器を持たせ、「シャンスイングプレアーズ」を結成。娘たちに歌謡曲と演奏を行わせ、自分はリズム漫談やヴァイオリン演歌などに挑戦した。また、この頃から巣鴨拘置所へ慰問に度々出かけるようになる。その様子は『日本占領スガモプリズン資料』や『すがも新聞』などから窺い知ることができる。

 1947年2月21日、『演藝新聞』に「東喜代駒と其一団」の広告が載る。まだこの頃には漫劇をやっており、中村与吉の経営する「中与演芸社」と提携を結んでいた。

 1947年6月、『新演芸』(6月号)に自らの芸歴を振り返った『關東漫才おぼえ書』を掲載。結果として、喜代駒本人が執筆した数少ない自伝的読み物となる。

 1948年、『川柳祭』(2月号)の『萬花集』に、川柳を寄稿。

 同年10月、『川柳祭』(10月号)の『萬花集』に、川柳を寄稿。

 この頃、孫娘を授かる。この人が現在、喜代駒の関係資料を大切に守っている。余談であるが、この人の同級生が柳家小袁治。天国の喜代駒もさぞ驚いたことであろう。

 1952年9月23日、帝国劇場で開催された『大辻司郎を偲ぶ會』に出演。出演者は、

司会(陽気な喫茶店コンビ)松井翠声 内海突破
一、漫才 リーガル千太・万吉 

一、歌ふ声帯模写 ワタナベ正美 

一、落語 桂文楽
一、トンチ教室 青木先生 石黒敬七 玉川一郎 春風亭柳橋 西崎緑 桂三木助 長崎抜天
一、時局ノンキ節 石田一松
一、大辻司郎のコトバ 古川緑波
一、大辻を偲ぶ座談会
司会 一龍斎貞丈 生駒雷遊 櫻緋紗子 山野一郎 東喜代駒 染井三郎 泉天嶺 井口静波 伊志井寛 昔々亭桃太郎 伴淳三郎
一、胸像贈呈式 辻寛一 柳家金語楼 林弘高
一、ジェスチアーゲーム
 審判 松井翠声
  紅組    白組
 水の江瀧子 柳家金語楼
 丹下キヨ子 志村 立美
 市川 紅梅 小野佐世男
 櫻 緋紗子 佐野 周二
 三木のり平 市川段四郎
 一、名コンビ漫才 内海突破・並木一路
 一、歌と音楽 指揮 服部良一
 藤山一郎 東海林太郎 丹下キヨ子 赤坂小梅

1952年11月、『週刊読売』(11月24日号)に『私の絵』を掲載。特徴のある馬の絵と共に、以下のような事をしたためた。

私の生れは上州です。上州と申しましてもいさゝか広うございます。群馬の東部館林の産です。故郷を忘れぬため名前も喜代駒とつけました。

 自身の名前および「東」の亭号について触れているのが、珍しい。

 1953年頃、声の郵便に「漫才」を吹き込む。相方は東まゆみで、「スポーツの巻」、「ラブレターの巻」という軽いコント風の漫才を入れた。

 1953年7月、弟子の東ヤジローが脳溢血で倒れる。11月13日、相方のキタハチは病と貧窮に苦しむヤジローのためにチャリティー公演を行い、喜代駒へ出演依頼をした。

 公演には、喜代駒をはじめ、松井翠声、内海突破、春風亭柳橋、並木一路、牧野周一、一龍齋貞丈、山野一郎、前田勝之助、都上英二・東喜美江、林家染團治、宮田洋容、隆の家栄龍・万龍、東京リード・フレンド、楠木繁夫、三原純子など名士名人が集って、無報酬出演を果たした。これは芸界の美談として、『アサヒ芸能新聞』(1953年11月5週号)に取り上げられた。

それ以降は、ヴァイオリン演歌、浪曲漫談と漫劇を中心に浅草や演芸会などに出演。また、この頃より贔屓筋が「東喜代駒後援会」を作り、以降は芸能活動よりも文化的な活動の方が目立つようになる。

 1956年、源氏太郎が入門。後に東笑児と名乗る。改名の折には中村翫右衛門から「源氏の旗揚げ、東でござる」という祝言が来たという。

 1957年2月、『経済往来』(2月号)に、『老優は消えるのみ』を掲載。娘たちに恵まれながらも自分の老いや時代の流れの残酷さを知った喜代駒の悲痛な胸の内が綴られている。

 1958年6月1日、東若丸死去。大空ヒットのように密接な師弟関係はなく、「東」の亭号を名乗るために仁義を通しただけの――いわば、身内であったが、東喜美江や東和子を育てた功績はデカかった。陰の功労者と言えよう。

 1962年10月14日、弟子筋に当たる東喜美江が36歳の若さで死去。都上英二・東喜美江で一世を風靡したコンビであった。

 1963年頃、「シャンスイングプレアーズ」解散。

 1963年7月15日、館林市庁舎落成記念式典に出席。『両毛春秋』(7月18日号)を見ると、市長室に招かれ、お歴々と膝を合わせた。

 同年11月28日、アヅマビル竣工式が開催される。『両毛春秋』(12月12日号)に大きく報道された。このビルが喜代駒の終の棲家となった。

 ・喜代駒の晩年

 1964年11月28日、コロムビアトップ・ライトが主催・演出をした『東京漫才変遷史』に出演。同番組はサンケイホールで開催され、収録された。この番組には、荒川清丸、林家染團治、松鶴家日の一、大津検花奴、菊川時之助など古参の漫才師が集結。なお、この模様は12月6日より、約一月にわたって、フジテレビで連続放映された。

 1967年5月26日、東君子死去。若丸と同じく「東」の亭号を名乗る承諾を交わしただけの関係であったが、東を名乗る漫才師がまた一人居なくなった時であった。

 同年9月20日、『東きよこまファン』を刊行。以後、10年間発刊され続ける。

 同年11月2日、紀伊國屋ホールで行われた「第5回貞丈の会 芸能東京百年」に出演。浪花節の東家菊燕、太神楽の丸一小仙社中、日本手品の一徳斎美蝶、活弁の竹本嘯虎、落語の柳家小さん、声色・手踊りの悠玄亭玉介、講談の一龍齋貞丈に交じって出演。

 1969年7月8日、上野本牧亭で行われた「明治・大正の芸を聴く会」に出演。
企画・制作 藤浦敦、永井啓夫、小沢昭一 顧問・藤浦富太郎という豪華メンバー監修の会であった。出演者は、

「一、木村長門守 田辺南洲」
「一、強情灸 三遊亭万遊」
「一、野狐三次 東家楽浦」
「一、関の弥太っぺ 服部伸」
「一、浪花節見本 東喜代駒」
仲入り
「一、中村仲蔵 三遊亭円楽」
「一、道中づけ 服部伸」
「一、外題づけ 東家楽浦」
「一、対談 東家楽浦 服部伸」
「曲師 木村八重子」

 余談であるが、この時まだ二十代だった岡田則夫氏が録音係を務めており、

「最後の座談会でね、テープがもう切れそうって時に、出演者一同が、服部伸さんに『三遊亭円朝はどんな人だったんですか!』って聞いたんですよ。大丈夫か、大丈夫か、と思っていると、服部伸さん『忘れました!』って答えて、ワッーと笑いと拍手が起きて、そこでテープがきちんと終わったのをね、未だに憶えていますよ」。

 1971年2月、『政界往来』(2月号)に、瀬戸口寅雄『漫才師と旧軍人』が掲載される。瀬戸口が喜代駒の旧友で、この中に喜代駒が戦地とスガモプリズンに慰問していた時代の話と、戦時中に交遊を結んだ田中光次少佐という軍人との関係が発表されている。田中少佐の手紙が引用されている他、戦時中の喜代駒の動向を探れる数少ない資料の一つ。

 1974年4月、『潮』に、聞書き『芸人なんて業が深いですよ』を発表。喜代駒独自のストイックな観点や芸に対する視点が垣間見えていて、貴重。

 1976年、LPレコード『東京漫才のすべて』の企画に招聘され、コロムビアトップと対談する。明治大正期の漫才の面影を偲ばせる貴重な資料である。この時、東笑児が後見として付いていった――と源氏太郎氏本人より伺った。

 1977年、曾孫を授かる。喜代駒は生涯にわたって家族には恵まれた人物だったといえよう。曾孫の顔まで見られた漫才師というのも珍しいものである。

 ・喜代駒の、死

 1977年10月10日夜、旅行先の伊豆長岡温泉「三養荘」で急逝。その日は知人の議員(共産党だったか)が主催する宴会に呼ばれていた。本当は東笑児が行く予定であったが、急用で行くことが出来ず、急遽喜代駒に代演を頼んだ――と笑児氏本人から伺った。

 当日は少し風邪気味であったが、特に異変はなく、いつものように機嫌よく歌って喋って宴会を盛り上げていた。宴会がたけなわになった後、廊下で宴会にいた人と廊下ですれ違い、「少し風邪気味だから風呂に行って温まって来るよ」というような事をいって、浴場へと消えていったのが、喜代駒生前最後の姿となった。

 23時55分ごろ、浴場の中で倒れているのを発見され、手当てを受けたが既に息を引き取っていた。喜代駒の亡骸は三養荘が丁重に弔い、布団や着物などを身に着けさせた上で、神田の遺族の許へと送り届けた。

 同年10月17日、上野護国院で遺族、山屋八万雄葬儀委員長、友人代表・林家彦六列席の下で厳かに葬儀が執り行われた。葬儀の司会は東笑児が務め、大空ヒットや都上英二、天野竜二・お駒といった門弟筋や都家歌六、太地喜和子、嵐芳三郎、交友のあった議員、作家など、各界から三千人近い人物がお別れに駆け付けた。

 その死は新聞や週刊誌などにも掲載され、地元館林の新聞『両毛春秋』では一頁の殆どが追悼に充てられた。以下は『両毛春秋』(10月13日号)に載せられた追悼文。

 伊豆長岡温泉に雲垂れて 東喜代駒師大往生
=悲しみ越えて喜代駒会を存続=

館林出身の芸能家、東京漫才の始祖東喜代駒師(本名武井喜代次氏=七八才)が十日午後十一時五十五分、雲低く垂れた伊豆長岡温泉で急逝された。

義理固い喜代駒師は顧客の招待を受けたので、数日来の風邪気味をおして十日朝単身伊豆長岡温泉に向ったが、まさかこれが死出の旅路になろうとは誰も予想しなかった。

詳しい情報はまだはいつていないが、宴会ではいつもの通り秘芸を披露していたことであろう。

夜更けて一人温泉につかり心臓麻痺で眠るように大往生を遂げるまで誰も気がつかなかったという位だからその直前までは、いつもと全く変らなかったのではないかと想像される。

翌十一日、急報を受けた夫人らが早速長岡へ飛ぶとともに後援会幹部や門弟たちが続々と私宅に集まってきた、午前五時過ぎには本社にも寝耳に水の訃報がもたらされた。

葬儀は十七日上野護国院で執行、埋骨式(館林市法輪寺)の日程などは未定で遺族や後援会で追ってきめられるが、後援会の荒井清二郎幹事によれば「私たちの敬愛する笑いの王者喜代駒師は亡くなったが、喜代駒師の芸をなつかしむとともにその人柄に惚れて集まった人々の和は消えない。後援会はこの後も何かの形で存続し、喜代駒師に遺徳をいつまでも偲びたい」

とのことであった。

 もう一つ引用。

芸能一と筋 美しき生涯

館林市大名小路(現在の大手町=市教委事務局前)に生まれた喜代駒師の家柄は元藩士、家業を継ぐつもりで上京し米屋にでつち奉公をしたが、元来が芸ごと好きで飛び込んだ芸の世界。

河合キネマ(大都映画の前身)で森の石松などを演じた写真が残っている。

浪曲もやった、漫談もやった、喜代駒漫劇団を結成して東京劇場や明治座を借切っての公演、これは今でいうリサイタルの皮切りだ。そして生み出したのが東京漫才である。

それまで漫才といえば関西にきまっていた。

扇子ようなもので男が女にパチパチと叩かれるあの古いなつかしい漫才で、これは文字でも万才と書いた。

それを関東風になおしたのが今の漫才即ち東京漫才である。

門弟の中からも多くの有名漫才を生み出している。

都上英二や故東喜美江、大空ヒット、ますみ、ダブルケンジなど数えきれない。

第一線から身を退いてからは後進育成につとめ上州人らしい義侠心と無欲で世話好きな性格が人をひきつけて多くの人々が教えを乞うた。

喜代駒師の積み重ねた貴重な芸を惜しむ人々によって後援会が結成されてもう二十数年になるだろう。

顔も広い、政治家、経済学の大立物、芸能家、学者とその範囲も広かった。

誰もが喜代駒師を愛し心から慕っていた。四月八日生まれの喜代駒師はオシャカ(こわす)にしてしまう」とよく話していたようにあまり金銭を残す方ではなかった、はいればはいっただけ使う、宵越しのゼニを持たねえといった気風が、また人に好かれた。

「俺は館林の不名誉市民の代表だ」

というが、JOAK時代に花山小唄(喜代駒作)を放送するなど、館林のために随分身銭を切って尽している。これは正に大偉業というべきで、古い芸者衆なら誰でも知っていることだ。

「なあに、幡随院長兵衛みたいに、お風呂で死んだなんて思わないでくれ、俺は自分で湯灌をしたつもりなんだ、ハハ、のんきだねえ」

と、今でもほゝえみかけてくるような気のする真の上州芸能家東喜代駒師の大往生、その死は何ものにも変えがたく悲しいが、最後の演技に涙をふり払って拍手を送りたい。

林家正蔵さんも「芸人としては最高の極楽往生だ」といっているように…………

”喜代駒師よ、あなたの肉体を例え土に還るとも、演歌を奏でるヴァイオリンの音は、いつまでもいつまでも人々に安らぎと追憶を残すことでしょう今はたゞ、あなたのご冥福をひたすら祈るのみ”

 また、『サンデー毎日』(10月30日号)に大空ヒットの追悼記事『火事とケンカと漫才と』が、『朝日新聞』、『読売新聞』にも喜代駒の追悼文が写真入りで掲載された。

 大空ヒットの追悼文は、喜代駒の性格や趣味を絡め、人物批評を行った上で追悼をしてみせるという、なかなか理知的なものである。中でも、喜代駒を絶賛するだけではなく、ちゃんと欠点や人間的な弱さにも触れているのが、理論家・大空ヒットらしくて面白い。

 葬儀後、喜代駒の亡骸は荼毘され、骨壺に納められた。喜代駒の遺骨は立派なものであったそうで、骨上げの際に、綺麗な喉仏が姿を現したという。

 同年11月23日、菩提寺である館林市法輪寺にて埋骨式が行われ、武井家代々のお墓に納められた。以下は『両毛春秋』(12月8日号)からの引用。

東喜代駒氏の埋骨式で身碍者に二十万円贈る

故東喜代駒(武井喜代次氏)斎月院洲涯東喜代駒居士=の埋骨式は二十三日館林市法輪寺で地元友人知人五十余名が参列してしめやかに行われたあと、本町三丁目第五で追悼昼食会を行ない、愛用のヴァイオリンを弾きながら歌う在りし日の八ミリ映画を上映、参列者に感動を与えた。

この日波江未亡人は本社に「肢体不自由児や身碍者など恵まれない人のために故人の意志によつて寄附させていたゞきたい」と金二十万円を託した。

 本社では早速市福祉事務所を通じてこれを市の社会福祉事業関係に寄贈した。

2018年現在も、東喜代駒は故郷・館林の地で静かに眠っている。墓所は館林法輪寺である。

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