東喜代駒ノート

Kiyokoma Azuma´s Note

 東喜代駒あずまきよこま、その華麗なる人生~

放送に出演する二人

東喜代駒(右)・東喜代志

漫劇の一コマ

妖艶なる喜代駒姐

テレビに出演する喜代駒

 

 東 喜代駒

 本 名 武井たけい 喜代次きよし

 生没年 明治32年/1899年4月8日~昭和52年/1977年10月10日

 出生地 群馬県館林市本町(旧・邑楽郡館林町大和田)

 趣 味  諸芸、将棋、買食ひ、バイオリン、浪花節、芝居見物など

 

 

 喜代駒、その一生。

 

・三分でわかる喜代駒

 群馬県館林市生まれ。実家は館林秋元藩の家老の家柄であった。尋常小学校卒業後、上京。神田の米問屋や飯田定次郎という陸仲士のもとで奉公し、自分も米屋を開業するが芸事に凝り始め、震災で店も取引先も潰れたことを幸いに漫才師に転向する。

 初めは村松喜代志という男と組み、喜代駒・喜代志としてスタートを切る。従来の漫才には見られなかった奇抜な発想と戦略の巧さが功を奏し、大正14年には当時の一流劇場であった市村座で独演会を開催する程の成功をおさめ、また東京漫才では初となるレコード吹き込みやラジオ出演を果たすなど、東京漫才の礎を築いた。

 上方漫才の影響を受けつつも、模倣ではない独自の東京風の漫才を模索し続けたのは特筆すべき点であり、円満な性格から、東ヤジロー・キタハチ、大空ヒット、都上英二・東喜美江、Wけんじ、源氏太郎などの優秀な人材を育てた事も見逃せない。「東京漫才の元祖」といっても過言ではないであろう。

 喜代志の後釜として駒千代と組むが、昭和10年頃には漫談を視野に入れ始め、漫才コンビを解散し、後に漫劇、コント、バンド、レビューなど多種多彩な芸にも手を出した。

 戦後は漫才師というよりも、多くの文化人や政治家と交友を深めたり、仲間や家族たちと旅行をしたり、芝居に出かけたりと趣味人的な傾向が強くなった。しかし、芸人を引退する事はなかったようで、頼まれればバイオリン漫談や浪曲漫談などを演じていた。

 1977年10月10日、余興先の三養荘で急逝。最期は温泉につかりながら、静かに往生するという劇的な死を遂げる。今の漫才師やアイドルに引けを取らぬほどの大きな成功をおさめた反面、芸への執着やリーダーシップに欠けるきらいがある事から、未だに評価の位置が定まらない。

 

――下からが本編である。


・喜代駒の青春

 1899年4月8日 群馬県館林市にて、館林秋元藩々士・武井中衛の次男として出生。喜代次と名付けられる。ご遺族によると、長兄は本家に出ていたそうで、実質の跡取り息子として育ったという。

 1903年、わずか三歳の時に父が亡くなる。喜代駒の壮年期は両親親族に余り恵まれない孤独の時期があったという。東京に出て奉公しに来たのもそういう背景があるのかもしれない。

 その縁戚や関係者などは多々あり、現在も群馬と東京で健在であるが、武井一族には何頭の因縁や事情があるので深くは突っ込めない。これだけの説明かと思われるかもしれないが、何卒ご了承願いたい。

 1913年頃、高等小学校を卒業し、上京。14歳で、神田にあった東京廻米問屋「関商店」に丁稚奉公をする。また、神田川で荷揚運搬をやっていた飯田定次郎の下で軽子(運送業者)としても働いていたそうで、この頃、面識を得たのが、飯田定次郎の親戚にあたる直井巌という青年。後の悠玄亭玉介である。

 当の玉介は自著「たいこもち玉介一代記」の中で、

  話は脱線するけど、この後妻のおふくろの叔父さんが飯田定次郎って人で、通称「飯定」っていってね、神田川の荷揚人足、軽子の元締めなんだ(中略)この飯定の叔父さんのところにいたのが、東喜代駒っていう昔の有名な漫才師。駒千代と組んで、昭和五、六年ごろ、漫才ではずいぶん人気が高かった。この人はキヨどん、キヨどんって言われて、叔父さんのとこで軽子で働いていたんだ。器用な人でね、声色を使ったり、いろんなことをしているうちに、とうとう軽子をやめて漫才師になったんだ……

(悠玄亭玉介「たいこもち玉介一代記」 54~55頁)

 

 と、自分の家族関係を踏まえつつ、こう回顧している。喜代駒の奉公人時分の頃の資料は殆ど残っていないので、軽子であったという過去はこの本で初めて知った。

  残念ながら、これ以上の事は記されていないので労働形態や勤務年数も分からないが、多分関商店と並行して(あるいは関商店から派遣されて)勤務していたのではないか。米問屋に米を入れるためには運送業が欠かせないのは今も昔も変わらない話である。
 追記:その飯田定次郎氏のご遺族より、飯田定次郎の資料及び情報の提供をいただいた。参考資料にしていただけると幸いである。

(提供 E.S.さま)
「昭和六年  飯田家墓供養」の折の集合写真

・図解

 前列中心のお坊さんの左隣、飯田定次郎氏。
 お坊さんの右隣は飯田徳蔵氏といって、定次郎の跡取り。
 そして、お坊さんの左後ろ(定次郎氏とお坊さんの間というべきか)、小柄な割と若い人が提供者様のお祖父様にあたる、菊次郎氏。ご遺族によると、この菊次郎氏の実の姉が玉介さんのお父さんの後妻になったそうである。
 喜代駒の前、定次郎氏の左隣(座っている人)が、定次郎の長女・喜代の夫であった飯田隆四郎氏。跡取の徳蔵氏とは義兄弟の関係だったという。隆四郎氏の子供が日本のウェイトリフティングの先駆けを作った飯田一郎氏。
 お話によると一郎氏と徳蔵氏は仲が良く、一郎氏の作ったバーベルで徳蔵氏は自慢の怪力を鍛えたという。
(喜利彦余録:ご遺族様によると、定次郎の跡取りであった徳蔵は早くからウェイトリフティングに興味を示されたそうで、日本ウェイトリフティング協会が発行した『ウェイトリフティング60年史』にも『 江戸時代より差し石や俵差しを受けついできたグループの一人である飯田一郎の話によると、昭和6年頃同氏が神田の古本屋で英文のウエイトリフティング書を発見、それをもとにバーベルを製作したのが、わが国最初のバーベルであるという。当時、東京神田川近くで運搬業を手広く営んでいた飯田一郎の叔父である飯田徳蔵を中心とした力自慢たちは、力石や米俵の代わりにこのバーベルを使って大いに腕を競いあったのである。』と記されている。また、徳蔵は神田川徳蔵という名前で活躍をしたといい、徳蔵およびその関係者で奉納した「力石」なるものが、秋葉原の柳森神社に残っている。本旨と外れるが大変面白い話なので、ここに明記した。)
 話に戻って喜代駒である。奉公人時代の事は(堅気だったせいか)ほとんど分かっていない。しかし、本人の弁によると、大変芸道楽好きの悪ガキだったという。特に熱を上げたのが浪花節だったそうで、一時は浪花節語りになろうかと考えたほどでもあったという。

 その頃を回顧した貴重な資料が私の手元にあるので、紹介することにしよう。

喜代どんのごひいき

 喜代どんは、浅草の初音館に出て居た東家燕山に熱を上げて通つた。熱を上げたのは、カワイコちやんの桃中軒雲奴のほうだが……とにかく東家燕山がたまらなくすきだった。
 フアンとして付合つて居るうちに喜代どんのことを兄ィさん/\と呼ぶようになつた。
 二人で仲見世の大増に上つて相談した。どうだ兄弟分になろうといつたら燕山は喜んで承知した。喜代どんは幟を贈つてやつたり羽織をこしらえてやつたりした。
 喜代べエ、一寸こい!
 大番頭に蔵前へ呼ばれた。
 奉公人のくせに浪花節語りなんかと付き合いやがつてとんでもねえ野郎だ、旦那に知れたらお払い箱だ。
 さんざん、油をしぼられた。
 燕山に話したら、皆私しがわるいんです兄いさんごめんね?
 目に泪を浮べていた。
 喜代どんは考えた。自分一人が芸人を贔屓するからイチャモンをつけられるんだ店中でひいきにしたらどうだろう。
 まさか全部お払い箱には出来まい。いけなければ同盟非行だ! 悪い小僧があるもんで、善どんに話したら、ヤレヤレッてけしかけられた。
 ビリケン、トランべ、サダエモン、茶目、ジゴマ、タンコロ(奉公人の仇名)
 皆んなに話をしたら渋ぶつて居るから、木戸銭と電車賃は喜代どんが出すと云ったら一発でOK。
 燕山の評判をきいて河岸の連中も初音館に行くようになったので、大番頭もニガ笑いをして居た。
 小松亭の下足が大番頭さんは辰雄や清吉が掛ると毎晩来るよといった。
神田川の人足の親分がいいました。
人間は死ぬ迄働けッて死んでからゆつくり休めばいいだろうといつたら洒落れた事いいやがるつて廿銭くれました。仲よしの善どんに話したら、俺は死ぬ迄浪花節をやるんだといつた。

(「東きよこまファン」16号(昭和46年5月15日発行) 1頁)

 何とも落語のような愉快な話である。それと共に、この頃から芸事に溺れ始めており、後年の才覚と芸馬鹿ぶりの片鱗が現れつつあったのではないだろうか。

 21歳の春、關商店を満期退社をし、独立。後年のプロフィールを見ると、

十四歳より神田東京廻米問屋、關商店に商業見習として入り、二十一歳の春満期退社、下谷練塀町に於て獨立し白米卸賣商を営む。

(「レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版」第六編 演藝家 299頁)

 とある。一方で喜代駒の幼馴染であった郷土史家、小川零銭は自著「館林繁昌記 明治・大正編」の中で、

 かねてから好きで好きでたまらなかった浪花節の道に入る決心をして主家をとび出し、その当時浪花節の番付で関東派の三役格東武蔵の門に弟子入りした。
 そして苦しい修業を数年続け、ようやく前座に出られるようになり、東喜代駒と名乗り、地方巡業にも出た。しかし喜代駒は浪花節独特の腹の底からしぼり出す低音が思うように出ない。そのためお客がのってこない。それに悩んでいた。

(小川零銭「館林繁昌記 明治・大正編」 215頁)

 と、喜代駒が店を捨て、浪曲師になった事を示している。しかし、これは確たる証拠がなく、仮に前座生活を3年やったと見積もってみても、喜代駒の経歴とうまく辻褄があわない。

 小川氏は何かと勘違いしている可能性もある。が、「東」の亭号の推測を出した意見はこれくらいなものであろう。もっとも、喜代駒が東武蔵のことを深く敬愛していたのは事実で晩年まで文通や交友などを続けていた。

 後は喜代駒本人が、

 私の生れは上州です。上州と申しましてもいさゝか広うございます。群馬の東部館林の産です。故郷を忘れぬため名前も喜代駒とつけました。

(「週刊読売」より「私の描いた絵」1952年11月24日号 65頁)

 と、語っている程度か。何はともあれ、独立して米屋を開いたことは間違いない事実であろう。

 

 ・喜代駒と震災と

 關商店から独立する直前で(1919年頃?)、飯塚吉五郎の娘、飯塚波江と結婚。遺族のお話によると、波江は良家のお嬢様の出身(曰く、教師の家庭だったそうである)だったそうで、芸能界とは縁もゆかりもない人物だった。喜代駒とは古い仲で、馴れ初めは波江が武井家に女中奉公をした時に出会ったものであろうか。

 そのためか、後年喜代駒が人気者になった後も、表舞台に立つことはなく、影の功労者に徹し、良き家庭人として収まっていた(もっとも夫の散財ぶりには頭を悩ませていたそうであるが)。

 当時、漫才師の多くがすぐに夫婦関係を結んだり、相方の不足で妻を舞台に連れ出していた事を考えると、家庭は家庭、仕事は仕事で分別していた喜代駒夫妻の態度は実に先見的ではないだろうか。

 1920年4月28日、長女・喜美子誕生。21歳にして、早くも一児のパパになったというのだから、驚きである。

 さて、喜代駒の開いた米屋は、当時、外神田の近くには青果問屋があり、多くの人の往来があった事も幸いしてか、店を上手く軌道に乗せることができた。

 余裕が出ると、人間は行動的になりたがるのか、米屋の旦那として成功し始めた頃から、観劇、寄席通いだけでは飽き足らぬようになり、天狗連(アマチュアの芸人グループ)に参加し始めるようになる。

 その頃、どういう事をやっていたのか、詳細な資料はないが、それでも二、三の資料を覗くと、断片的な記録を伺う事ができる。以下は、当時の様子を示したものである。

 さて関東大震災前に、浅草の御国座(現在の松竹座)へ安来節の一座が参りました。其中へ萬歳が(昔は漫才とは書きませんでした)二組ばかり這入つて来ました。(略)女が男の頭を張り扇でぽか/\ブンナグルのを見て、此奴はキバツだ? 俺も一つあれをアレンヂしてやつて見ようと、生来イカモノ好きの私でしたので早速やり出しました。ところが、困る事に、萬歳は二人でやらなきやア出来ない仕事です。と云つて折角思いついたのだから、兎に角やる事にきめました。

(省略)

吉原土手の古道具で鼓を買つて来て、舞台でバン/\叩いて。当時流行した唄や、怪しげな珍舞踊などを取入れて、最後は一人芝居、日本太郎よろしくの立廻りなどを演つて、寄席に出て居りました。其のため、着物はビリ/\にやぶけて仕舞いましたが、今と違つて、半分お道楽でやつて居る時分だから、そんなことお構いなしでやれました。しかし、どうしても相手のない事には萬歳では通りませんので、其の当時の一流どこの加藤滝子、阪東三光、五條家弁慶なんて云うウルサ方を太夫に頼み、ドテ組を巡つて居りました。

(中丸宣明篇『コレクション・モダン都市文化 第4期 第六七巻 漫才と落語』より「解題・関東漫才おぼえ書き」六五四~五頁)

 また、違う文献には、

地方興行にきた曲馬団、エエ、今のサーカスですね。そのほか、剣舞の物まねなどをして喜んでいたぐらいだから、そもそも商売に身が入りゃしない。で、マゴマゴするうち、震災(大正十二年)でしょう、みんな焼けちまって、商売の〝貸し〟もとれなくなっちゃった。

(「創」昭和四九年四月号 二八九頁)

 と、ある。その他、ご遺族や幼い頃、喜代駒の家の近くに住んでいたという柳家小袁治氏の話などによると、

・宴会を開いては、まだアマチュアだった柳家三亀松を呼んで、一緒に遊んでいた。
・駆け出しだった頃の柳家金語楼とも仲が良く、呼び捨ての仲だったという。
・誰かに会うたびに、祝儀を切ったり、ごちそうをするので、家中の者はやりくりが大変だったという。

 等々、その鷹揚なお旦那ぶりが窺える。特に金語楼と三亀松との関係は深かったと見えて、前者は一緒に演芸会を開いたり、後年の「東きよこまファン」の中で対談などを行っており、後者もまたつかずはなれず長い関係にあったという。

 中でも面白いのが、「東きよこまファン」(13号)に掲載された大空ヒット「先生と私のこと その一」という連載の中で、

人の世話の好きな先生は多くの人の世話をされましたが、そのいずれもがそむいたり、死んだりして、今はいく人ものこってはいませんが、東ヤジローキダハチ、東喜美江、などはもう故人となりました。今は映画会社の重役、近江俊郎さんも私と同期、おどろいたのは、故人柳家三亀松が「喜代駒先輩は俺の師匠だと思ってる人なんだよ」といったことでした。そういう三亀松も偉いと思いましたがそれを口にしない喜代駒先生もまた偉い人だとつくづく思ったことでした。

(「東きよこまファン」第13号 3頁)

 という記録が残っている点である。音曲の三亀松と漫才の喜代駒の領域は少し離れたところにあったものの、この短い中に不思議な関係が描き出されている。

 嘘だとかべんじゃらだとかいう見方もできないこともなさそうであるが、著者の大空ヒットという人は正義感が強く、人を陥れたり、嘘やヨイショをするタイプでもなし、また三亀松に可愛がられていた芸人でもあるので、生の言葉ではないだろうか。

 1923年2月25日、次女・艶子誕生。当時まだ健在だった喜代駒の親が次女の名付け親になったそうであるが、本人はこの名前があまり好きではなかったそうで、通名を「津弥子」にしていた。

 

 ・芸人・喜代駒

 二児のパパとなり、米屋の旦那としてもそこそこの成功をおさめ、夜な夜な怪しい芸事や芸人とのつるみも増えるようになった中で、喜代駒に有る転機が訪れる――それがいい転機だったのかは、別としても芸人・東喜代駒にとっては大きなターニングポイントであった。

 1923年9月1日。数日前に王子のダイマス亭(字不明)という寄席に頼まれて、独演会を開くために準備をしていた。

 11時58分。凄まじい轟音と激しい揺れが帝都に襲い掛かった。歩く人は腰を抜かし、建物や壁はいとも簡単に崩壊し、あちらこちらから様々なものが壊れる音が響き渡った――関東大震災の発生であった。

 多くの建物がつぶれ、圧死者が続出する中、喜代駒一家は何とか命拾いをした。しかし、揺れが収まった直後には火の手が上がり始め、多くの避難民が荒浪の如くに逃げ惑い始めた。

 多くの流言が聞こえてくる中、喜代駒夫婦はまだ幼い喜美子と艶子、それに武井家の重宝である槍と身の回りの品だけ持って、上野の山へと向かった。

 然し、危機に見舞われた時、人間は誰しも同じことを考えると見えて、普段ならば15分もあれば辿り着く上野の山へ落ち延びる事ができたのは、2時間近く経った後だという。

 上記はご遺族が生前の喜代駒夫妻及び関係者から聞いた話のまとめである。私の聞き漏らしもあるかもしれないが、震災で大いに苦労した、という事を理解していただければ幸いである。

 なんとか助かった喜代駒一家であったものの、家や財産を一瞬にして失った。潰れた家を前にした喜代駒夫婦は何を思ったのか――それは彼らにしか判らない事であろうが、良くも悪くもこの震災がキッカケとなって、武井喜代次は芸の道に入り、東喜代駒と名乗るようになった。

 ただ、『日刊ラヂオ新聞』(1926年8月25日号)などには「廿三の時、家族に店をまかして斯界に身を投じた人」とある。この頃はまだ相方が安定しておらず、加藤滝子、中村種春、太刀村一雄など関西系の人と組んでいた模様である。

 1924年5月1日、『都新聞』に取り上げられる。以来、『都新聞』の常連として、多くの記事や出演を掲載する。

▲東喜代駒 一日より白金演藝館へ安来節宮野家一座と出演、新案聲色入滑稽汽車旅行を演ず

 5月5日、近所の外神田警察署の慰安会に出演。

 ▲家族慰安會 外神田警察署家族慰安の為め五日正午美倉橋復興倶楽部に、一龍齊貞山、物まね三橘、珍藝、東喜代駒その他出演

『都新聞』(同日)

 6月には、声色の三遊亭三橘と協力して神田の自宅に「喜代駒演藝社」を設立。この事は『都新聞』(1924年6月1日号)にも取り上げられ、

▲東喜代駒 三遊亭三橘は神田松富町十四へ諸演藝に関する事務所を設く

 という記載が残っている。以下は喜代駒家に残っていた紹介状。

 

 6月15日より、千葉へ巡業。

▲東喜代駒 十四日夜本郷會館へ十五日より千葉縣銚子町開進座へ

『都新聞』(6月13日号)

 6月29日、30日、浪曲師の東家楽遊の独演会のゲストに出演。

▲東家楽遊、廿九、丗の両夜下谷二丁街市村倶楽部に、餘興は東喜代駒

『都新聞』(6月29日号)

 楽遊とは、米屋の旦那時代からの知り合いで、仲が良かった。この頃、楽遊は、『小松嵐』をはじめとした哀切ある関東節で人気を博していた。

 7月5日、浅草と巣鴨の寄席に出演。以下は、同日の『都新聞』の広告。

 ▲東喜代駒 三遊亭三橘、浅草寶来館と巣鴨劇場へ

 10月16日より、自転車曲芸の大御所、鈴木義豊一座に参加。

▲鈴木義豊一行 十六日夜より深川櫻館へ自転車曲乗り数番他に馬之助、三橘、東喜代駒出演

『都新聞』(10月16日号)

 ここから秋まで、『都新聞』に記載がない。旅にでも出ていたようである。

 1925年1月5日、三女・松子誕生。この子も大きくなって、喜代駒一門の主戦力として活躍した。

 2月27日、新声座に出演。これが相方が初めて確認できる広告である。

 ▲新聲座 女流萬歳藝道楽東喜代春東喜代駒加入出演

『都新聞』(2月27日号)

 この喜代春という女性は、元々薩摩琵琶の奏者で、喜代駒に誘われる形で漫才になったという。

 6月7日、堀切武蔵園の余興に出演。

堀切武蔵園 餘興は珍藝萬歳東喜代駒、喜代春、娘手踊大和家連、寶家和楽社中外数名

『都新聞』(6月7日号)

 この頃、相方の喜代春が鹿児島に帰ってしまった為、駒之助という相方とコンビを組み直した。ほぼ同時期に、当時浅草で売り出していた樋口興行部に出入りするようになる。

▲東喜代駒 樋口興行部に入り帝京座に出演

『都新聞』(8月8日号)

 駒之助と組んでいた記載は、以下の通り。

▲江川大盛館 安来節一座へ十八日より珍藝萬歳東喜代駒、同駒之助新加入

『都新聞』(8月18日号)

 蝶花楼馬の助・柳亭左龍の門下に居た村松清と出逢い、コンビを結成。お座敷を中心に活動を広げていく。

▲中立萬歳 喜代駒、喜代志は神聲座、新末廣亭、業平亭

『都新聞』(10月28日号)

 喜代志と組む前後で、太刀村一雄とのコンビで初レコード吹込みを行った。『蒐集奇談』に、

●東喜代駒・太刀村一夫 大正14年のパイオニヤに「磯節くずし・滑稽軽口」(未見)がある。喜代駒の初吹き込み版。

『レコードコレクターズ』(1994年6月号)

  と、ある。この頃には睦会にも落語協会にも何処にも所属しない「中立派」という一団に属していた。

 11月14日、新花演芸場に出演。

▲新花演藝場 十四日高級萬歳、東喜代志、喜代駒と燕左衛門

『都新聞』(11月14日号)

 燕左衛門は、浪曲の東家燕左衛門。古くからの知り合いで、後年「大利根太郎」と改名した。今も舞台に立つ「大利根勝子」の師匠である。

 11月17日、

▲新聲座 十六日より中立派演藝大會

 に「万歳 喜代駒喜代志」として出演。

 11月21日、初めて一座として名前が登場する。

▲中立派 東喜代駒一座には松旭齋天秀、片岡柳男、高峰筑洋だ新加入廿四日より本所不二館

『都新聞』(11月21日号)

 1926年3月8~10日まで、名流會に出演。当時の漫才師の立場から見れば異例の出演である。以下は、『都新聞』に掲載された広告。

 ▲名流會 高田馬場松月亭八日夜は
柳(東猿)震災記念(柳窓)本能寺(錦波)長唄曲引(琴月)万歳(喜代志、喜代駒)加藤高明逸話(貞吉)

 ▲名流會 松月亭九日は
うどんや(柳窓)三勝半七(東猿)長唄曲引(琴月)義士討入(錦波)万歳(喜代志、喜代駒)八軒長屋(貞吉)

 ▲名流會 松月亭十日は
茶色木綿(柳窓)壺阪(東猿)浮世節(琴月)乃木将軍(錦波)萬歳(喜代志、喜代駒)出世車(貞吉)

 3月18日から3日間、大森福寿亭に出演。

▲演藝會 十八日夜より三日間大森福寿亭、万才(喜代志、喜代駒)

『都新聞』(3月18日号)

 4月1日に市村座で「ハイクラス萬歳 東喜代駒熱演會」を開催。1円50銭・1円・50銭という破格の入場料にも関わらず、1円50銭席は売り切れたという。

 この成功が、キッカケとなり、お座敷の仕事が増える。寄席に出ていないときは、お座敷で稼いだ模様か。そのせいか、出番が出ていない事がある。

 7月25日より、浅草御園劇場に出演。

 ▲御園劇場廿五日より高級萬歳東喜代志喜代駒加入

『都新聞』(7月25日号)

 8月、大森海岸に作られたイベント会場に出演。

◇東喜代駒 八月中は大森海水浴場に出演九月一日より九州巡業

『都新聞』(8月11日号)

 同年8月24日午後8時、JOAKに初出演。「萬歳」の看板は遠慮し、「滑稽掛合噺 東喜代駒・東喜代志」。演題は「難題問答・鴨緑江節・数え歌・越後獅子替歌(五段返へし)」であった。

 同年8月30日には大森大海水浴場の「納涼花火大會」のゲストとして、ハイクラス萬歳で出演(『日刊ラヂオ新聞』1926年8月30日号)。

 同年9月、名古屋・岐阜地方へ巡業(『読売新聞』1926年9月14日号)。

 10月9日より、研究座に参加。同座では、隆の家一派が公演を行っていた。

▲研究座 演藝と浪花節大會に東喜代志、喜代駒加入

『都新聞』(10月9日号)

 その前日の『都新聞』に隆の家一座の広告が出ている。 

▲研究座 六日より五日間演藝と浪花節一座に安来節隆の家万龍、千龍、百々龍一行加入

 10月19日、東家燕左衛門と二人会。

▲燕左衛門と喜代駒 十九日夕祇園倶楽部に合同演藝會

『都新聞』(10月19日号)

 同年11月4日から3日間「ラヂオ展」(東京市電気会館)の余興として、「高級萬歳 東喜代駒・喜代志」として出演(『日刊ラヂオ新聞』1926年11月4~6日号)。

 この頃から一龍齋貞山、三升家小勝等が在籍する「東京落語協会」に近づき、定期的に寄席へ出演するようになる。この寄席への定期的進出は、日本チャップリン以来、二組目。

◎両国両国座 圓橘・花蝶・馬の助・馬風・曹漢才・喜代駒・ぎん蝶・小仙小金・可楽・談志・馬楽・圓遊・文治・貞山・金馬

◎牛込牛込亭 圓雀・影山翠・圓楽・圓右・胡蝶斎・小仙小金・ぎん蝶・喜代駒喜代志・曹汗才・小圓朝・小せん・柳朝・文治・可楽

(『都新聞』1926年12月1日号)

 以降、お座敷を中心に、寄席への出演、劇場への進出を行うようになる。

 12月18日より、邦楽座に出演。

▲東喜代駒 十八日より邦楽座出演

『都新聞』(12月14日号)

 

 1927年4月1日、自宅でネタ交換会を開催。この会は、「東会」として長く続いた。

▲東喜代駒 神田松富町十四の自宅で一般から娘都々逸、狂歌、滑稽問答、一口噺等を募集

『都新聞』

 4月10日、音羽演芸館に出演。

▲音羽演藝場 十日よりハイクラス万歳、東喜代駒、喜代志加入

 4月27日より、各寄席を掛け持ちする。

▲東喜代駒 月末迄若柳亭、三光亭、音羽演藝館に出演

 5月7日、日本橋にあった水天館に出演。

▲水天館 七日より東喜代駒出演

 6月12日、音羽演芸館に出演。ここでも隆の家一座と一緒になった。この辺りで、後年の駒千代と知り合った模様か。

 ▲音羽演藝館 十二日より演藝全部差替東喜代志、喜代駒、隆の家三姉妹、万龍、千龍、百々龍、グルーベル加入

『都新聞』(6月12日号)

 10月16日より、名人会に出演する。この出演メンバーは当時でも相当の顔ぶれで、この中に喜代駒が出た事は驚くよりほかはない。

 ▲神田喜楽 十六日より五日間協會派特別興行貞山、小勝、文治、金馬、圓楽、圓右、可楽、馬楽、圓橘、丸一小仙、音曲ぎん蝶、萬蔵、喜代志、喜代駒等出演

『都新聞』(10月15日号)

 11月1日より、上野鈴本に出演。

▲上野鈴本 一日より文治、貞山、小勝、馬楽、圓遊、金馬、小仙、喜代志、喜代駒、〆の家連等

 11月25日より、神田喜楽に出演。

▲神田喜楽 二十六日五日間、小仙、柳朝、圓右、馬楽、圓楽ら馬風、月燕、天菊、喜代志、喜代駒、大切は餘興珍藝會

 12月5日、漫才大会に出演。東京漫才における初期の漫才大会の嚆矢と言えよう。メンバーが、喜代駒と橘家花輔以外、出演者が関西勢というあたり、当時の漫才の勢力を物語っている。

▲民衆座 五日夜より万歳競演會 東喜代駒、中村力春、荒川ラヂオ、桂駒之助、中村種二、荒川房丸、橘家花輔

 この仕事の直後、体調を崩し、出演が見られなくなる。12月23日付の『都新聞』に、

◇東喜代駒 病気の為湯河原へ

 とあるのが気になる。

 この療養と喜代志の都合が重なり、1927年限りで喜代志とのコンビを解消。喜代志は芸能ブローカー、マネージャー業へと転向した模様。

 もっとも、けんか別れし合ったわけではないため、喜代志との交友は依然として続いた。後年の漫劇や巡業などの手助けなどをしあう関係にあった事は特筆すべきである。

 1928年から弟子の千世子を駒千代と名を改めさせ、「喜代駒・駒千代」を結成。

 4月21日より10日間、「ハイカラ万才」として、御園劇場に出勤。

 5月11日より10日間、再び「ハイカラ万才」で御園劇場に出勤。

 7月1日、3年ぶりの市村座に出演。今回は大所帯での漫才大会であったが、一枚看板として迎え入れられた。この漫才大会は、後年の立役者が顔をそろえた貴重なもので、東京漫才の歴史に刻むべき一頁である。『都新聞』(6月30日号)の広告に、

▲市村座 一日よりの萬歳親交記念大會に出演する関東関西の顔ぶれは

直之助、朝日、かほる、春雄、保子、六郎、源六、清、啓之助、玉春、清子、染團治、芳春、芳丸、源一、友衛、小芳、染若、初江、日出男、静子、文雄、駒千代、喜代駒、金之助、セメンダル、秀千代、秀夫、花輔、デブ、清丸、玉奴、豊丸、小一郎、愛子、金吾、力春、力松、小徳、春夫、芳郎、千代治、愛子、秀丸、茶目鶴、仲路、こたつ、夢丸

 7月6日より、神田喜楽に出演。『都新聞』(7月6日号)に、

▲神田喜楽 六日より文治、貞山、小南、小せん、金馬、圓橘、勝團次、喜代駒、駒千代、李有来、常磐津連

 9月1日より、上野鈴本の定席、御園座、牛込会館の漫才大会と掛け持ち。漫才大会の出演者は、『都新聞』(9月1日号)によると、

▲牛込會館 一日より五日間

花輔、デブ子、喜代駒、駒千代、千代次、染春、源一、市太郎、源六、芳夫、利丸、小徳等の萬歳に小柳連も加入

  10月11日、金車亭に出演。『都新聞』(10月11日号)に、

▲浅草金車亭 十一日夜より小南、小勝、丸一小仙、談志、可楽、圓橘、さん輔、玉輔、喜代駒、駒千代、伊勢太夫社中、國守一誠

 10月15日、牛込亭に出演。『都新聞』(10月14日号)に、

▲牛込亭 十五日夜は文治、小せん、ぎん蝶、喜代駒、さん輔、たぬきや連、馬楽、小さん

 11月1日、読切演芸大会に出演。読切は今日のチャリティのようなものであるが、誰の救済のために行ったのだろうか。『都新聞』(10月28日号)に、

▲特選讀切演藝大會 一日夕並木倶楽部に出演者は奥田安彦、馬楽、錦獅、柳橋、喜らく會、文楽、駒千代、喜代駒、文治、孫三郎、加藤柳美、民之助、助治郎、左楽、伯山

 11月12日より、新富演芸場に出演。『都新聞』(11月12日号)の広告に、 

▲新富演藝場 十二日より三日間、小亀一行、ヘナチョコ、銀蝶、張貴田、喜代駒、駒千代等の演藝會

 1929年1月1日、『都新聞』に年賀広告を掲載。「ハイクラス萬歳 東喜代駒」という個人の広告と、なぜか「東京落語協会」の一員の広告の二つが出ている。

 1月1日より、色物席として復活した浅草並木倶楽部に出演。『都新聞』(1月4日号)に、

▲並木倶楽部 元旦より色物席として復活、出演者は

 伯山、ろ山、文治、馬楽、左楽、柳橋、文楽、助次郎、民之助、三語楼、金語楼、組春、銀獅、喜代駒、小柳丸

 同日3日、浅草並木倶楽部の特選名人会に出演。『都新聞』(同日)に、

伯山 文治 左楽 文楽 三語楼 柳橋 金語楼 助次郎 小柳丸 馬楽 組春 喜代駒

 1月10日より、四谷喜よしに出演。他の出演者は、一龍齋貞山、柳家小さん、桂文治、三遊亭金馬など。

 2月1日より、麻布十番倶楽部に出演。他の出演者は、一龍齋貞山、柳家小さん、桂小南など。

 2月4日より6日間、牛込会館で開催された諸演芸会に出演。『都新聞』(同日号)の広告に、

▲牛込会館 四日より六日間諸演藝會の出演者は

 安来節粂子、照子、歌子、八重子、美代子、新丸、八百子、松吉、小坊主、張貴楽、段張廣、喜代駒、駒千代、大正坊主

 2月11日より、神田喜楽・中席に出演。他の出演者は、桂文治、柳家小さん、立川談志など。『都新聞』(2月10日号)

 2月21日より、四谷喜よし・下席に出演。他の出演者は、一龍齋貞山、桂文治、桂小南、柳家小さん、三遊亭金馬など。『都新聞』(2月20日号)

 3月1日より、上野鈴本亭・上席に出演。他の出演者は一龍齋貞山、三升家小勝、桂文治など。

 3月11日より、四谷喜よし・人形町末廣を掛け持ち。他の出演者は、三升家小勝、一龍齋貞山、柳家小さん、桂小南、三遊亭金馬など。

 3月17日、水天館の名人競演会に出演。『都新聞』(3月15日号)に、

▲名人競演會 十七日夜水天館に

伯山、若太夫、文楽、東猿、小楽燕、篁陵、龍玉、燕枝、駒千代、喜代駒出演

 3月23日、喜代駒の自宅で、「都々逸駄洒落會」を開催。『都新聞』(3月21日号)に、

▲都都逸駄洒落會 廿三日正午より神田松富町東喜代駒宅に

 3月30日、二長町弁松でリサイタルを開催。『都新聞』(3月25日号)に、

▲東喜代駒性健發俵演舌會 卅日夜二長町辨松に

 3月27日より4日間、神田喜楽に出演。他の出演者は、柳家小さん、柳家小せん、昇龍齋貞丈など。『都新聞』(3月27日号)

 3月31日、四谷喜よし「落語講談舌戦會」に出演。『都新聞』(3月29日号)の広告に、

▲落語講談舌戦會 正蔵、小文治、柳好、柳橋、芝楽、文楽、左楽、小勝、貞丈、喜代駒、小さん、文治、金馬、小南、貞山出演

 4月1日より、上野鈴本・三光亭を掛け持ち。『都新聞』(3月30日号)。

 4月21日、後援会のメンバーたちと観桜会。『都新聞』(4月13日号)に、

▲東喜代駒観櫻會 後援會主催で二十一日小金井に

 さらに、同月28日には、豊島園で、

▲東喜代駒園遊會 二十八日豊島園に

 30日には、品川で、

▲東喜代駒の會 三十日夜品川宝来館

 と、立て続けに会を催している。漫才師が観桜会をやるなど、この人が最初ではないだろうか。後援会の存在も見逃しがたい。

 5月4日、宇都宮へ巡業。前日の『都新聞』の消息欄に、

◇東喜代駒 四日宇都宮宮升座へ

 とある。その2日後、すぐ東京に戻り、江戸館に出演。『都新聞』(5月6日号)に、

▲江戸館 濱田梅吉一座へ六日より東喜代駒、駒千代加入

 さらに、5月11日から10日間、四谷の寄席喜よしで、「長演努力会」に出演。『都新聞』(5月11日号)に、

▲長演努力會 四谷喜よし十一日夜は 高級萬歳(喜代駒)

 5月26日、亀戸三業倶楽部にて「喜代駒慈善演芸会」を開催。『都新聞』(5月25日号)に、

▲喜代駒慈善独演會 失業救済の爲め廿六日夜亀戸三業倶楽部に

 6月1日より、浅草橘館に出演。また、四谷喜よしにも出演。

 6月11日より、再び浅草橘館に出演。主任は柳亭市馬。他の出演者に柳家三語楼、東家燕三など。

 6月12日、後援会や関係者を集めて、都都逸会を主催。『都新聞』(6月6日号)に、

▲都々逸洒落會 十二日正午より神田松富町東喜代駒宅に

 と広告が載った。

 6月24日、二村定一のレビューに賛助出演。同日の『都新聞』に、

▲水天館 二十四日夜より歌劇レビュウ大會で二村定一、東喜代駒補助出演

 7月3日、納涼名人会に出演。当時の人気者を集めた一流の大会であった。その中で、漫才は喜代駒だけ。同日の『都新聞』によると、出演者は、

▲納涼名流會 東京源清田會主催で三日夕並木倶楽部に出演者は、小柳丸、猫遊、光一、光子、蝠丸、駒千代、喜代駒、三亀松、民之助、助次郎、筑瑞、文楽、金語楼、貞丈、ろ山

 7月8日〜10日、『日刊ラヂオ新聞』の『藝界楽屋』にて「東喜代駒高級萬歳を語る」を連載。以下はその全文である。旧字体は読みやすいように改めた。

赤城颪をうけた侠気の好人物
東喜代駒高級萬歳を語る【一】

◇高級萬歳が一般から迎へられる様になつてから大分久しいものである。この高級萬歳の創作者は確東喜代駒だと思ふかしつかりしたことを聞くべく浅草公園の橘館に同君を訪ねた、愛想よく迎へてくれた喜代駒君は、『一寸出番ですから……』とニコ/\しながら相方の駒千代と共に楽屋から舞台に消えた、相変らずこの方面に人気のある東喜代駒君とて観客席から『喜代駒……』の名が連発されるのが聞えてくる。待つこと二十分位で出番が済み拍手に送られて帰つてくる『大分お待たせしました……』と萬歳式の応接振、なか/\如才がないらしい人だ、『藝界楽屋話ですか……』と一寸こまつたらしい同君と面相を比較する時これでも恥しがりやかとおかしくもなる、こうしたところに東喜代駒の性格が現はれてゐるのではなからうか

◇『御迷惑でなけれ……』と水をむけると傍らからマネヂヤーの宮坂正章君が加勢して共に語る、『生れは遠州濱松在十四の時から親に別れ……おつとと……こう言ひたいが生れは上州館林……』出だしの話しからこの調子だから相手に一寸のまれる感がある、生れは群馬県邑楽郡館林町で士族の倅だそうだが、士族の倅から藝界に精進するとは何か理由でもありそうだが『ただ子供の自分から好きだつたので……』と話しに深く身の上話しも聞かぬ、上州だとすると一世の侠客國定忠治を生み赤城山とともに一般から知られて居るところだ『私の國からも大分傑物が出て居ますネ、藝界でも東都説明界の元老静田錦波、映画女優の佐々木清野、片岡千恵蔵等が居りますヨ、自慢にもなりませんが……』この所國自慢藝界人國記のなかに東喜代駒も当然ピカ一として光るところであらう

◇上州人だけ侠気のあるのはいなむ訳にはゆかぬらしい『侠気等と大げさに話す程でもありませんが、気分で働いて居るものですから、気がむかぬといくら金を出されても嫌ですが、しかし気分がよければ持出しでもやりますヨ、これが我まゝといふのでせうが……東京に出て来たのは明治四十五年そして神田に落着きましたヨ、はじめ威勢のよい神田つ子といふところですか、二十一の時に今の家内と一緒になりましたヨ、だいぶ若い時分にもらつたのですつて、夫やどうせもらふのなら早くもらつた方がよいですネ、以前は米穀商が本職だつたのですが、二十四歳の時に弟に米屋の方を譲り萬才で身をたてる覚悟をきめましたヨ、そして三十一日歳に至る今日までどうにかこうにかやつて来たのを顧みると随分面白い話しもありますが。』

 

『日刊ラヂオ新聞』(七月八日号)

 

藝妓の身替りに呼ばれて失敗
高級萬歳を語る東喜代駒(二)

◇初舞台ですか、やはり二十四の時の下谷竹町の佐楽で柳亭左鏡さんと共にやつたのが最初でしたヨ、その時の感想等を聞かれても古いことで一寸思ひ出しませんネ、その時分楽燕、虎丸、小さん、三代目圓朝さん等が全盛を極めて居つた頃です、柳家三亀松さんが映画の物まねで人気をよんで居つたのもこの頃でしたでせう

◇萬才の縁故れ(いわれ)はやはり三河萬才が本場でせうネ、徳川時代年中行事として才造市が開かれ、その中から最も上手なものが雇はれて行く様になつて居つたのですが、いまはさうしたことがありません、御殿萬才等もあつたのですがネ、東京等に来て居たのは大部分三河萬才だつたんでせう

◇その後関西方面から入つてくる様になつたのです。大正十四年にいまの松竹座が御園座だつた時関西方面から輸入されて来た萬歳を同座でやつたことがあります。その時は安来節と一緒にやつたのですがいまの様に理解されて居らなかつたので全然失敗に終りましたヨ。それから順次帝京座等でやる様になり、一般から受けてファンも多くなつて来たのです。しかし萬歳も一般からより以上の理解を得るには現在のまゝではいかぬと考へ新味を加へたハイクロス萬歳を創作したのですヨ、それは大正十二年でした、大阪でラヂオの放送をやつたのが二年後の大正十四年でした、亦このハイクロス萬歳が各方面から好評を博しブル階級に引立てゝくれるものがあり、座敷に呼ばれるやら宮内省の招きに應ずるやら、大変有難い身分になつた訳ですアハハ……

◇こうした商売をやつて居ると随分と面白いことや、おかしいことがありますヨ、いつの頃だつたか忘れましたが、上野の常盤花壇から御座敷だと電話がかかつて来ましたヨこつちは客だと言ふので喜んで駈けつけて座敷に入らうとすると會社の社員らしい男が三人酔ひ疲れて寝て居るのです、こんな客が萬歳をよぶのかと一寸不思議に思ひましたが、座敷に入るなり『有難う……』とあいさつしましたヨところがいままで寝て居つた三人は起きるや否や正しく座り『喜代駒がどうかしましたか』と共に口を揃えて聞く、私もがてんがゆかぬので『いやただいま御呼びにあづかりました東喜代駒です……』と言つたら『なんだ……』と大笑ひになりましたが、これは三人が藝妓の喜代駒をよんだのだそうですそれをどう間違へたのか知りませんが私に電話がかゝつて来たのです、私は藝妓の身替りになつた訳なのですヨ私が入るなり相手の三人が座り直したのはこんな人相の私ですから、殴られはしないかといふ懸念で悪かつたらあやまるつもりだつたのでせう、折角のんだ酒を醒まさせて全く相手の人に気の毒だつたですネ

『日刊ラヂオ新聞』(七月九日号)

 

寺院にとまり夜半逃げ出す
高級萬歳を語る東喜代駒(三)

◇それからこんな失敗談がありましたネ、越後の長岡に駒千代と巡業に出かける汽車中のことですヨ、汽車がある駅に停車した時マネーヂヤーに弁当を買つてくれと頼み、私はそのまゝ雑誌をよんで居りましたネ、少したつてから腹がすいたので傍らにあつた弁当を喰ひ始めたのですところが一寸便所にでも行き帰つて来た田舎の金持らしい人が私の顔と弁当を見くらべて居るのですヨ、この二等車には私一行の三人と、この田舎人の四人しか乗つて居らなかつたのです私も変な人だなと思つて居りましたが傍らに居たマネーヂヤーと駒千代が何思つたかクス

/\と笑ひ初めたのです、弁当と顔を見くらべて居つた田舎人は漸くしてから『失礼ですが弁当は貴方のでせうか』と言ふからマネーヂヤーに買はした弁当とのみ思つて居るから『私のです』ときつぱり言つた、ところが傍らのマネーヂヤーが私のたべて居る弁当はそつちの方の弁当ですヨと言ふので驚いてその訳を聞いたら駅で三つ買ふ弁当がなくて二つ買ひ、マネーヂヤーと駒千代がたべてしまつたといふことなので初めて人の弁当を喰つて居ることに気がつきあやまつたことがあり、全くこれにはヒヤ/\されましたネ

◇大分以前のことでしたが生国の館林に行蔦時昔の教へてくれた先生がお寺に居るので其処へ挨拶に参りました、久しく会つた事のね尽きぬ話に夜を更かし『遅いから泊つて行つたらどう……』と折角すゝめるものですから御厄介になることになり寝た場所が本堂だつたのです、寺は常光寺と言つて古い寺です、そこは納骨棺や色々薄気味の悪いものばかりあつてどうしても眠れません、そこで酒を飲んだら眠れるだらうと思ひ台所へ行つて一升程呑みましたが却て意識がはつきりするばかりです、さう斯うするうちに午前二時半頃になりました、その時一寸睡気を催して来ましたので幸ひと思ひ喜んで居つたところ本堂の奥の手にあたつて異様の響きを聞きましたネ、性来かうしたことに臆病な私は何の響きだつたかも見定めず、裸足のまゝ寺を逃げ出しました、後でこのことを話したら寝てる筈の私が居らなかつたので大変心配したさうです『異様の響きといふのは鼠だつたでせう……』と皆なは問題にしなかつたが私としては随分恐ろしかつたですネ

◇萬歳の客種ですか、定つては居りませんが、労働者もあれば山手方面の夫人、令嬢等もあり、女学校や小学校に招かれて行く場合もあるので一様ではありません、この客種の違ふところに苦心があるのです、労働者の客に高級なことを言つたところで受けませんから、結局は変な話しになるわけです、また山手方面の夫人や令嬢を御相手に変な話しも出来ないから、婦人趣味をとり入れたものをやるといふ具合で小学児童にまで判る萬歳をやらねばならぬので並大抵のことでないですヨ、面白くもなかつたですがこんなところで……(終り)

『日刊ラヂオ新聞』(七月十日号)

 7月30日、贔屓や仲間を集めて、都都逸洒落会を開催。『都新聞』(7月28日号)の広告に、

▲都々逸駄洒落會 丗日正午より神田松富町東喜代駒宅に

 8月12日、JOAK『掛合音曲』に出演。館山節、深川くづし、滑稽浪花節、塩原太助という諸芸尽くしの萬歳を披露。

 8月28日、リサイタルを開催。『都新聞』(8月26日号)に、

▲東喜代駒演藝會 廿八日夜辯松倶楽部に、脚本朗讀黨黒幕座補助出演

 10月13~14日、またまたリサイタルを開催。『都新聞』(10月13日号)に、

 ▲喜代駒独演會 十三、十四両夜江東倶楽部、南葛演藝場

 10月23~24日、働く会演芸会なる慰問に出演、『都新聞』(10月17日号)の広告によると、

▲働く會演藝會 峰田一歩の同會で廿三、四両夕五時開演、報知講堂で出演者は、

浪花節(燕玉、若菊)琵琶(芝水)講談(南龍)万歳(喜代駒、駒千代)音曲(ぎん蝶)浪花節綜合映画「乃木将軍と辻占賣」(説明京山大和)

 11月21日、仲間たちと趣味の納札会を開催。『都新聞』(11月18日号)に、

▲喜代駒納札會 東喜代駒主催で廿一日夜和泉橋倶楽部に、畫題「流行小唄俚謡づくし」

 なる広告を載せる。

 12月4日、『都新聞』のゴシップ欄に若槻礼次郎との関係を記した笑い話が掲載される。

▲全権一行が鹿島立の日、日頃贔屓になつてゐる若槻さんを東京驛へ見送りに行つた東喜代駒、人波にもまれながらホームに立つてゐるとうしろから喜代駒の袖をグイと引いた人がある、ふり返ると新聞社の寫眞班がレンズを向けて「閣下、どうぞもう少し上をお向き下さい」といふ、これは僕を餘程エラい人だと思つたんだなと内心考へた喜代駒は、よろしいとばかりに顎をしやくるやうにしてせいぜい上を向くと、寫眞班はぢれつたさうに喜代駒の前へ来て「あなたそんなに伸び上がると閣下の顔が見えなくなりますから、もつとわきに寄つて下さい」に喜代駒ヒヨいとうしろを見ると其処に若槻さんが苦笑しながら立つてゐる、喜代駒自分のおでこをピシヤリと叩いて「矢つ張り新聞社の人は目が高い」

 12月26日、27日、ハイカラ万才として浅草公園劇場に出演。『都新聞』(12月25日号)に、

▲忘年演藝大博會 廿六、七の両日公園劇場

 1930年4月11日から10日間、東喜代駒・駒千代コンビで上野鈴本に出演。

 5月1日、大阪へ上り、大阪道頓堀・松竹座「シンサイ祭」に出演。この頃から、レビューやダンスを取り入れていたと見えて、『読売新聞』(1930年5月10日号)の中に、

「私の役は此レヴュウで田舎壮士を勤め、演歌を唄ひ万歳を演り、ダンスを踊るといふ趣向」

 という記載がある。この頃から、新聞の芸能欄に喜代駒の名前が取り上げられるようになる。

 6月8日、午後2時半より、JOAK『困った代物』を放送。

 6月15日より、浅草江川大盛館に出勤。

 7月9日、芝飛行会館で演芸会を主催。『都新聞』(7月9日号)に、

▲夏のヴァラエティ 喜代駒主催で九日夕五時芝飛行會館に

伯鶴、圓遊、大辻、善平、ぎん蝶、清鶴、駒千代、喜代駒出演

 とある。

 8月12日より、浅草観音劇場に出演。『都新聞』(8月12日号)の広告に、

 ▲観音劇場 十二日より東喜代駒、駒千代、梅香家梅香、一徳、砂川一丸、辰奴、東富士子、宝来、小政、太郎、正太郎、静丸、今奴、ぼたん、清子、照子、人形、博次、博王等出演

 その傍ら、7月16日、お歴々と共に名流演芸会に出演。今日の名人会のようなものであろう。『都新聞』(7月15日号)に、

▲名流演藝家庭娯楽會 十六日夕五時櫻田本郷町飛行講堂に柳枝、錦峰、伯山、喜代駒、駒千代、松鯉、来山、金三、岩てこ出演の外長岡外史将軍のお話

 8月7日から13日までの一週間、新歌舞伎座で行われた漫才大会に出演。ここまで大規模な漫才大会は、東京漫才創成期では珍しい。『都新聞』(7月30日号)に、

▲新歌舞伎座 七日より十三日まで變り種の諸藝人を網羅してナンセンス萬歳大會を毎夕五時に開演、出演者は荒川清丸、玉奴、玉子家吉丸、久奴、松本三吉、政次、轟一蝶、二見家秀子、吉田明月、荒川芳坊、喜楽家静子、林家染團治、加藤瀧夫、瀧奴、東駒千代、喜代駒、大道寺春之助、砂川若丸、東明芳夫、堀込小源太、小幡小圓、清水小徳、八木日出男、大和家初江、大和家雪子、中村直之助、千代の家蝶丸、登美子、玉子家末廣、福丸、浪川奴風、松平操、梅若小主水、砂川雅春、大和家かほる、壽家岩てこ、富士蓉子、朝日日出丸、日出夫、一丸、金花丸、松尾六郎、和歌子、弟蝶、久次、力久、竹乃、亀八、三代孝、デブ子、花輔、正三郎、源一、菊廼家若雀、独唱白井順、混成舞踊石田擁、女坊主澤モリノ外支那曲藝一行等

 8月17日、演芸会に出演。『都新聞』(8月7日号)の広告に、

▲楽み會 十七日夕六時櫻田本郷町飛行講堂に、出演者は鶴枝、丸一連、正楽、東喜代駒、駒千代、山陽、熊岡天堂外に子供の長唄、小唄、義太夫等

 の記載あり。

 8月22日、伊豆大島へ行く。『都新聞』(8月25日号)の消息欄に、「▲東喜代駒 廿二日伊豆大島へ」とある。

 8月26日、演芸会「蟻の会」に出演。『都新聞』(8月26日号)に、

▲演藝蟻の會 廿六日夜より五日間神田喜楽に山陽、天雷、天菊、花山、楽浦、喜代駒、駒千代、小楽社中、市馬、猿司、伊達子出演

 とある。以降何回か続けられたところを見ると、喜代駒主催のリサイタルだったのだろうか。

 さらに第二回蟻の会を開催。『都新聞』(9月5日号)に、

▲演藝蟻の會 六日夜より三日間池袋新末廣亭に山陽、喜代駒、駒千代、楽浦、宝楽、花山、小楽、源一、正三郎、五月、守谷、猿司、伊達子出演

 また、一週間も待たず、蟻の会。『都新聞』(9月11日号)に、

▲演藝蟻の會 十一日夜より五日間新宿末廣亭に山陽、花山、楽浦、つばめ、五月花子、守谷よし子、天雷、天菊、喜代駒、駒千代、猿司、伊達子出演

 この月は、掛け持ちで蟻の会をやったとみえて、『都新聞』(9月14日号)に、

▲演藝蟻の會 十五日夜より三日間白金大正館に出演者は山陽、楽浦、花山、花子、よし子、猿司、伊達子、つばめ、喜代駒、駒千代、源一、正三郎、天雷、天菊等

 この勢いはおさまる所を知らず、根津に移動して、またもや開催。『都新聞』(9月21日号)に、 

▲演藝蟻の會 廿一日夜より五日間根津歌音本に、出演者は山陽、圓生、一馬、楽浦、喜代駒、駒千代、つば女、天雷、天洲、時次郎、とし松、源一、正三郎、馬石、猿司、伊達子、花山

 10月15日、数年ぶりに市村座に出演。『都新聞』(10月14日号)の消息欄に、

▲演藝競演會 十五日より市村座に

 とある。

 同年、林家染團治と共に『尖端エロ萬歳』を出版。東京漫才の速記本としては初のものではないだろうか。

 1931年3月16日、『読売新聞・夕刊』に、『寄席の色物はどう變るか――力強き萬歳の存在』という記事の中で、

……力強き存在は万歳で、捨丸とか菊春とか喜代駒とか、これ亦有名無名が何十組あるか判らない 最初は浅草だけだつたのが客の受ける儘に市内へも漸次進出して来、落語家連中も圧倒されてゐる形

 と写真入りで紹介される。

 1931年4月18日から浅草劇場の東西漫才大会の主任を務める。『都新聞』(4月19日号)に、

 又淺草劇場は表と裏とで紛糾を起した結果、十六日から一時休館したが、直に顔ぶれを変へて、東喜代駒を主任に東西萬歳競演會で十八日から蓋を明けその外宮戸座から退いた伊井蓉峰主宰の本國劇も、近く浅草で再挙することになつてをり、浅草興行街全体に大きな動きが起らうとして活気立つてゐる

 同年12月16日、JOAK午後0時5分よりカケ合ひ話『親父はダー』に出演。末娘のマツ子が若干七歳で出演を果たしている。

 1932年4月8日(喜代駒の誕生日でもある)、JOAK午後8時より『金のなる國』に出演。「笑ひの爆弾投下」と冠され、娘のマツ子、弟子の駒千代、貞水(喜代駒の妻の弟か?)と共に、掛け合い、都々逸、浪曲などを織り交ぜた集団漫才を行った。この頃より後年の漫劇に近い動きを見せるようになる。

 同年12月10日、JOAK午後8時20分より『いいぢゃありませんか』に出演。はじめて「小唄漫劇」と冠され、駒千代も千世子と改名した。ただ、この時の放送は喜代駒・駒千代のコンビでの出演であった。また、1932年頃より、漫談界隈にも出入りするようになり、大辻司郎や徳川夢声と共演している様子が窺える。

 

 ・志し、漫劇にあり

 1933年1月28日、帝国ホテル演芸場で「東喜代駒の夕」を開催。出演者は喜代駒の他、千世子、ツヤ子、マツ子、駒春、喜代志、伊志井寛、三遊亭金馬、丸山和歌子、東武蔵。

 同年2月3日、『読売新聞・夕刊』に『本役は鬼の方 喜代駒が年男と掛合万歳』という記事が掲載される。その中で、

東喜代駒、先夜お座敷へ急ぐ途中円タクの運ちゃんと口喧嘩までして車に乗ったが、急に江戸っ児気を出して、大枚一圓の料金を投げ出したので運ちゃん、急に恵比須顔になり、流石はハイクラス万歳の家元だけあると褒めたが、喜代駒その万歳の家元の一言に悲観し五日間ばかり考へ込んでいたが、もう万歳時代ではないと運ちゃんの言葉をキッカケに、こんど万歳の万の字を漫にして、「漫劇」をはじめる事に決心したが、鬼が出るか蛇が出るか……

 と、漫劇を始めた理由が出てくるのが興味深い。その言葉の通り、この辺りから漫才との距離を置き、漫談と集団漫才――漫劇に重点を置くようになる。

 同年2月9日、東駒千代改め千世子の話が『都新聞』に掲載される。改名の理由は姓名判断に従い、本名の「千世子」に戻したとの事。

 同年2月17日、喜代駒が漫劇に転向した理由をしたためた記事『東喜代駒と菊五郎と 高級萬歳から漫劇への転向』が『都新聞』に掲載される。上記の『読売新聞』とはまた違った理由になっていて面白い。以下はその記事の引用。

 話は去年の二月十一日から始まる。青山會館で建国祭を祝ふ演藝の夕が催されて、その出演者の一人に加はつてゐたのが当時の高級萬歳東喜代駒だった、数ある出演者の中にもう一枚尾上菊枝を加へるために、會の幹事が先づ菊枝の師匠菊五郎の許を訪ねて、菊枝の出演方を頼み入れたが結局駄目だつた、その幹事が帰つての話に、菊枝がこの演藝會に出ない理由は、仮にも音羽屋門下の俳優が、高級萬歳と一つ舞台に出る事は出来ないといふのだつた、これを聴いた喜代駒は、音羽屋が何んだ、高級萬歳が何故悪いのだ、税金の多寡こそあれ、鑑札を受けて藝で稼いでゐるつまり藝人といふことに音羽屋と自分とどれ程の変りがあるのだ?、菊五郎程の人格者が、まさかそんな事は云はないであらう、その中間に立つ者が云つたセリフではあらうが、いづれにしても菊枝の出ない理由が、喜代駒と同席では……といふのにあることだけは事実だ、そう聞いた以上同席してくれと万一先方から頼まれても、こつちから手を引くと喜代駒は欠演を會の方へ申出たが、その間いろ/\と誤解のあつた事も判り、結局菊枝も喜代駒も、心持よくこの演藝會に出演することになつた、が、喜代駒にして見れば其後相当の悩みがあつた「高級萬歳」「ハイクラス萬歳」たしかに時代に通じた名称ではないことに自分も気がついた、そして菊枝問題から丸一ヶ年後の今日、高級萬歳といふ名を捨てゝ、漫劇といふ新名称の下に、働くことになつた……

 同年3月11日、JOAK午後8時より、掛合噺『ロボット』。千世子、マツ子、ツヤ子、喜代志の他、俳優の関時男が漫劇に参加している。

 曰く、「関時男は鈴木伝明と共に松竹蒲田を脱退し不二映画にゐたが、これもぽしゃつたので喜代駒の漫劇に参加」(『読売新聞』)とある。なお、川田晴久も喜代駒の一座に出入りしていた事がある。

 同年4月20日、レッキス演芸大会に木村重友、松旭斎天雷・天菊、丸一時次郎らとともに出演。「漫劇」の他にジャズも演じていた。

 同年7月2日、JOAK午後3時10分より、掛合噺『ジキルとハイド』。ジキルとハイドを喜代駒、千世子が笛子、ツヤ子がアナウンサー役を務めている。

 同年12月3日、JOAK午後7時30分より、掛合噺『キングコング』。千世子、マツ子、ツヤ子、喜美子、千枝子、天洲が出演。キングコングは同年9月に上映されたばかりなので、流行の最先端だったと言えよう。

 1934年1月、『演芸画報』の記事『日出丸と大洋』にその名前が出ているが、冷やかされたような書き方をされている。この頃、東ヤジロー・キタハチが弟子入りする。

 1934年2月13日、古川ロッパを訪ねる。『古川ロッパ昭和日記』の中に、

 二月十三日(火曜)
午前お灸へ寄る、大分具合よろし、安心。一回目、ラクにしてはいゝ方の入り。客よく、よく笑ふ。「人生」が済むと、東喜代駒来り、ひるを終ったらすぐに公会堂へ出て呉れと言ふ。六時開会を二十分早めて貰ひ、キッチリまでやり又すぐ引返す(25)。夜の部終ると、新興へ定った島耕二、クビになったハラダ・コウゾウ等「永々お世話に」と挨拶に来る。島の方はいゝが、ハラダの方はイヤーな気がする、五円やる。

 とある。

 5月12日、古川ロッパを訪ねる。同日記に、

 五月十二日(土曜)
 ひるの部の最中、井上三枝叔母と娘、支那料理持ってたづねて来て呉れた。ひる終ってすぐ丸の内蚕糸会館へ「銃後の会」(40)。東喜代駒がハリ扇を持って来て呉れた。三益と万才の打合せ、これも相当骨だ。夜の部終ってすぐ「金色夜叉」の立稽古、作曲も入れて歌は三四十もあるので、覚えるのが大変だ。十二時半頃までつきあったが、とても労れたので、明日と明後日みっちりやることにして帰る。

 1935年1月28日、京橋明治製菓ビルで「ヘッポコ芝居公演」を開催。『忠臣蔵』大序から7段目まで、『河内山』、『め組の喧嘩』を出し、正岡容、燕枝、桂小春団治らも出演。

配役は、千世子(由良之助、道行勘平、大膳、辰五郎)、千枝子(かほよ、おかる、女房お仲)、ツヤ子(直義、伴内、郷右衛門、藤松)、マツ子(判官、彌五郎、四ツ車、鳶)、キミ子(若狭之助、早野勘平、亀右衛門)、喜代駒(師直、力弥、河内山、九龍山)。

『都新聞』(1月24日号)

 同年2月4日、芝増上寺で行われた節分豆まきに参加。ほかの参加者に朝倉文夫、入江たか子、岡田静江、井口静波など。

 同年3月4日、JOAK午後0時5分より掛合噺『ポケット・シヨウ』。喜代駒、千世子、キミ子、ツヤ子、マツ子、千枝子。漫才の中にジャズを取り入れるという斬新な演目であった。

 同年3月15日、丸の内蚕糸会館で行われた「保険奨励演芸の夕」に「キヨ・ジャズバンド」として出演。他にもキミ子、ツヤ子、千世子による舞踊、漫劇の仲間、池田一郎の漫談、柳亭燕枝『富久』、早川燕平『藤堂高虎』と関係者が集った。

 同年3月29日、東宝小劇場で「第二回ヘッポコ芝居」を開催。

 同年4月、遠州浜松へと巡業。同行は藤本二三吉、尾上栄次郎、中野忠晴、河上鈴子、伏見直江、丸山和歌子、御門きん子。

『都新聞』(1935年4月14日号)によると、少女にサインをねだられ、ふと紙を見たら「約束手形」だった、とぼやいている。

 同年5月に、神田日活館で「第三回ヘッポコ芝居」を開催。キミ子の板割浅太郎、ツヤ子の巖鉄、千世子の国定忠治、マツ子の定八、喜代駒の藤造、千枝子の傅吉で「国定忠治」を披露。

 『都新聞』(5月29日号)によると、6月1日、芝大門青年団会館で、私淑する浪曲師、東武蔵と二人会を開催。

 同年7月、東宝小劇場で開催されている「東宝名人會」に初出演。漫劇『?』という珍なる作品で、漫才師として初めて東宝名人会に出演した。

 同年9月10日、九段小劇場で「ヘッポコ芝居」を開催。『神崎東下り』、『森の石松』、『鼠小僧』を演じる。

配役は、喜代駒(お熊)、千世子(次郎長、鼠小僧)、智恵子(森の石松、松山太夫)、キミ子(婆、客人)、マツ子(神崎与五郎、蜆売り)、ツヤ子(丑五郎、岡っ引)の他。

『都新聞』(9月7日号)

 同年9月16日、『都新聞』に『インテリ漫才を嫌ふ』を掲載。喜代駒が漫才をやっていた時分と現在の流行との差異を指摘し、いつまでも暴力的で一向に変わらない下品な笑いや漫才を強く批判している。

 1936年「漫才新興連盟」創設に参加。ヤジロー・キタハチ、桂喜代楽叶家洋月など。ただし、キタハチの出征や派閥争いにより、自然解消した。

 同年7月、蕁麻疹に罹患して苦しむ。『都新聞』(7月9日号)

 同年11月14日、館林に帰郷。館林富貴座で「皇軍慰問の夕」を開催。翌15日は高﨑衛戍病院を慰問し、「傷病兵慰問演芸會」を開催。『都新聞』(11月11日号)より。

 同年11月29日、軍人会館で「モダン浪曲ナヤマシ會」を開催。出演者は喜代駒、井口静波、上田五万楽、花柳貞奴、東千世子、女猫造、東喜代惠、高津戸俊、筑波雲、山口喬。『都新聞』(11月27日号)

 同年12月23日、芝愛宕キネマで「モダン浪曲ナヤマシ會」を開催。喜代駒、井口静波、林伯猿、上田五万楽、花柳貞奴、桂一奴、東喜代惠、池田一郎、筑波雲、山口喬。『都新聞』(12月13日号)

 1937年1月13日、JOAK午後0時5分より掛合噺『ハリキリ社長』。出演者は、喜代駒、千世子、喜美子、ツヤ子、マツ子、柳生一郎、東天洲、東弥次郎、東喜多八。門下生の東ヤジロー・キタハチが「マンザイ」という役で出演しているのが、貴重。

 同年1月31日、日比谷公会堂で「群馬県の夕」に出演。司会役を務めた。出演者は喜代駒、宮田東峰、静田錦波、渡辺篤、毛利幸尚、林きむ子、結城道子、町田佳聲、東家小樂燕など。『都新聞』(1月28日号)のインタビューで「群馬は親不孝の産地と見えます」で答えている。喜代駒、親不孝説。

 同年7月17日、『読売新聞』の記事、『わしの花嫁さん デパートでの見たて』に「芸界人気者」の一人として載る。他には、香島ラッキー・御園セブン、柳家三語楼、渡辺篤、曾我廼家五九郎など。

 

 ・戦争と喜代駒

 1938年7月5日、伊勢丹ホールで「モダン浪曲ナヤマシ會」を開催。出演者は、喜代駒、井口静波、林伯猿、上田五万楽、花柳貞奴、池田一郎、酒井清、一龍齋貞鏡、中山呑海など。

 同年9~10月、「群馬県民代表皇軍慰問使」に任命され、9月19日より10月10日まで中国へ慰問。群馬会館での壮行会、八幡宮参拝の後、東京へと移動し、皇居遥拝、明治神宮、靖国神社を参拝して、夜行列車で北京へと向かった。朝鮮、奉天を経て、北京に到着後、喜代駒は第一班に編入され、前線の県民兵士たちを慰問した。

「第一班」のメンバーは右の通り。菅谷、小林両県議、大國社寺兵事課長、東喜代駒、酒井潔、楠木繁子。『上毛及上毛人』(10月号)より抜粋。

 同年11月4日、『都新聞』に『大陸で拾った“笑” 東喜代駒の漫劇部隊』を掲載。3歳、21歳の時に種痘を打った以来、予防接種をしたことのなかった喜代駒の苦労談や、天津の町で拾った話を紹介している。この土産話は、上記の「群馬県民代表皇軍慰問使」のついでであろう。

 この10日後の、11月14日に軍人会館で「東喜代駒○○報告會」を開催しているが、部隊名が伏せられているのが時局をよく示している。

 1939年1月21日、大久保キネマにて、東家燕左衛門、服部伸と共に「三人会」を開催。

 同年3月、名古屋へ巡業。『都新聞』(3月23日号)によると、24日に帰京。

 同年4月1日より、珍しく上野鈴本に出演。小さん、柳枝、左楽、柳好が看板で、色物にたぬき家連、結城孫三郎など。この月の後半、松本へ巡業。

 同年5月、京都へ上り、京都松竹劇場に出演。新興演芸部系の興行に参加した。なお、喜代駒にも新興演芸部から誘いがあったらしいが、喜代駒はこれを断っている。以下は『近代歌舞伎年表京都編』の引用。

5月15日〜22日 松竹劇場

しんこうボーイズ オオタケタモツ 中村弘高 石井弘 伴淳三郎 山茶花究
日支親善社会劇 支那の兵隊 宮村五貞楽一座
インテリ漫劇 東喜代駒 ビクター専属 楠正子
浪曲 木村若衛
漫才・漫談
兵隊漫才 ハリキリ麦兵・トツカン花兵 音曲漫才 若葉小夜子・富士容子 大相撲漫談 粟島狭衣 漫才 酔月楼とり三・中居染丸

 ビクター専属の楠正子は実の娘である。

 同年7月7日、『都新聞』に『二十年振に対面したら旦那は漫劇でした 喜代駒と燕左衛門の奇縁奇遇』が掲載される。

 浪曲師の東家燕左衛門は、「大利根太郎」改名披露の会を開く事となったが、応援出演に出てくれる人がおらず困っていた。それを見かねた贔屓の親分が「喜代駒に頼んだら、きっと世話をしてくれるだろう」と、手紙を書いてくれた。喜んだ燕左衛門は勇んで喜代駒を尋ねると、喜代駒は二十年も昔、駆け出しの時分を贔屓にしてくれた米屋の旦那「武井喜代次」だと判明してビックリ。その奇縁奇遇に二人とも驚いた。

 同年9月15日午前9時より神田明神で「武運長久祈願祭」を開催。陸軍軍医々学校に在籍中の負傷兵120名と共に祈願を行ったという。『都新聞』(9月13日号)によると、以前にも亀戸天満宮で祈願祭を行ったことがあるとの事。

同年10月12日、軍人会館で「東喜代駒の夕」を開催。出演者は喜代駒、井口静波、西村楽天、木村重行、大利根太郎、春風亭柳好、小金井蘆洲、貞子、正子他。『都新聞』(10月10日号)

 1939年11月、奉天で当時、人気絶頂に達していた女優・李香蘭と出会う。

 奉天の駅で某高官に李香蘭に紹介された際、喜代駒は饅頭をむしゃむしゃとやっており、口に饅頭をほおばりながら、李香蘭と握手をした。翌年の8月、友人の西村楽天が慰問に行く事となったので、東京駅まで見送りに行くと、李香蘭も楽天の見送りにやってきており、鉢合わせをした。楽天が李香蘭を紹介しようとすると、李香蘭は「よく存じております」と答え、楽天を驚かせると同時に、「今日はお饅頭を召し上がっておられませんの?」と李香蘭に尋ねられ、流石の喜代駒も笑うより他がなかった。

『都新聞』(1940年8月14日号)

 1940年1月29日、「東喜代駒演芸報国の夕」を開催。『都新聞』(1月25日号)によると、出演者は喜代駒、井口静波、丸山和歌子、大利根太郎、一龍齋貞鏡、ニュース他。戦時中の時局色が強くなり始めている。

 同年5月20日、『都新聞』に『漫才の裏表』が掲載される。その中に、漫才界の功労者として喜代駒の活動と嘗ての人気ぶり、その思い付きと行き方がボーイズやシヨウに影響を与えたことなどが紹介されている。

 同年6月1~2日、深川会館で朝日日出丸と共に、「漫芸の夕」を開催。出演者は喜代駒、朝日日出丸・日出夫・日出若・日出子・日出坊吉原家〆吉・〆坊、喜代子・小喜代、喜美子・喜代若。二組の大御所が顔合わせしたというのが、珍しい。『都新聞』(6月1日号)

 同年6月2日、喜代駒の三人娘が二十四圓六十銭を、桜献金(軍部への献金)をして『都新聞』に取り上げられる。戦時中はこのようなことが美談とされており、臣民のあるべき姿であったことを考えると、戦時中の動向を強く感じさせる。

 同年8月、珍しく上野鈴本に出演。『都新聞』(8月8日号)

 同年12月22日、1時6時の二回、日本青年館で「演芸報国会」を開催。出演者は喜代駒、高勢實乗、西村楽天、神田伯龍、春風亭柳橋、東ヤジロー・キタハチ、大空ヒット・東駒千代など。

 1941年2月1日、「漫才と漫劇の夕」を開催。『都新聞』(2月1日号)

 以降は戦局の悪化に伴い、紙面や物資が減少し、長らくゴシップを報じ続けてきた『都新聞』も統合廃刊の運命を辿った。僅かに残された資料や写真を見る限り、慰問や余興、寄席への出演、地方巡業などを続けていた。

 1945年、度重なる空襲により、神田の住居をはじめ、思い出の場所や物、知人・友人を失う。東京大空襲の罹災者の中には、中国奇術の李彩や講談の一龍齋貞山がおり、かつて出演した寄席や劇場も悉く焼き尽くされた。

 

 ・敗戦と喜代駒

 戦後は、娘三人に楽器を持たせ、「シャンスイングプレアーズ」を結成。娘たちに歌謡曲と演奏を行わせ、自分はリズム漫談やヴァイオリン演歌などに挑戦した。また、この頃から巣鴨拘置所へ慰問に度々出かけるようになる。その様子は『日本占領スガモプリズン資料』や『すがも新聞』などから窺い知ることができる。

右からマツ子、ツヤ子、キミ子

 1947年2月21日、『演藝新聞』に「東喜代駒と其一団」の広告が載る。まだこの頃には漫劇をやっており、中村与吉の経営する「中与演芸社」と提携を結んでいた。

 1947年6月、『新演芸』(6月号)に自らの芸歴を振り返った『關東漫才おぼえ書』を掲載。結果として、喜代駒本人が執筆した数少ない自伝的読み物となる。

 1948年、『川柳祭』(2月号)の『萬花集』に、川柳を寄稿。

 1948年3月、娘の喜美子が結婚。また、次女の艶子が古川ロッパ一座に入団し、一座のメンバーを驚かせた旨が『東京新聞』(1948年1月22日号)の中に出ているので引用。

★なんと喜代駒の娘がねえ…… ロッパ一座へ加入したソプラノの武井津彌子、母校の東洋音楽で歌の寒けい古の帰りにダンスのけい古、終ると今度は若柳の師匠へ回つて日本舞踊のけい古、とけい古熱心渡辺篤が「背が高くてスラリとしたところは父親そっくりだが顔は母親生写し、父親に似なくてよなつた」というと父親の東喜代駒が「おかげさまで……」

 1948年6月1~5日、名古屋の富士劇場に出演。以下はその広告。

 同年10月、『川柳祭』(10月号)の『萬花集』に、川柳を寄稿。

 この頃、孫娘を授かる。この人が現在、喜代駒の関係資料を大切に守っている。余談であるが、この人の同級生が柳家小袁治。天国の喜代駒もさぞ驚いたことであろう。

1949年4月発表の長者番付に掲載される。45万円を納税したというのだから、相当金があったのだろう。他には徳川夢声の50万、井口静波の38万円など。

1950年、『幕間別冊 歌舞伎の世界はてんやわんや』(1950年1月)掲載のS・S亭『芝居の宣傳いろいろ』(93頁)の中に名前が出る。以下はその抜粋。

劇場宣傳部にとつて痛いのは、何といつても新聞の藝能欄のスペースのないことです。都新聞なんて、芝居と花柳界だけの新聞があつた昔はともかく、戦争から此方、配役など出たことはないのですから、どこで何をやつているかが出れば大収穫というものです。何とかいう役者がどこそこの藝妓とアツアツだとかいう風な艶種のゴシップが出た時分がなつかしくなります。又この時分はゴシップにもうまいのがありましたが、同時に賣り込みのうまい藝人もありました。東喜代駒という漫才などその第一人者で、都新聞に月に一度は登場したのですから凄い腕です。

とある。やはり売り込みにかけては漫才界随一の存在だったのかも知れない。このようなマスコミを相手に、個人を上手く売り込むーーという姿は、今日のSNSやYouTuberに通じるものがある。

舞台の上のみならず、このようなマスコミやメディアにも目を向けた点は特に評価すべき所がある。三遊亭圓朝と比較するのも変だが、他にも名人上手や先輩がいるにも関わらず、他を出し抜いて彼が落語界の天下を取れたのはマスコミや文化人との交友があったように、喜代駒もまた戦前の漫才界で売れに売れ、これだけ記録を残せたのも、そういう先見の明ゆえ、だろう。

 1952年9月23日、帝国劇場で開催された『大辻司郎を偲ぶ會』に出演。出演者は、

司会(陽気な喫茶店コンビ)松井翠声 内海突破
一、漫才 リーガル千太・万吉 

一、歌ふ声帯模写 ワタナベ正美 

一、落語 桂文楽
一、トンチ教室 青木先生 石黒敬七 玉川一郎 春風亭柳橋 西崎緑 桂三木助 長崎抜天
一、時局ノンキ節 石田一松
一、大辻司郎のコトバ 古川緑波
一、大辻を偲ぶ座談会
司会 一龍斎貞丈 生駒雷遊 櫻緋紗子 山野一郎 東喜代駒 染井三郎 泉天嶺 井口静波 伊志井寛 昔々亭桃太郎 伴淳三郎
一、胸像贈呈式 辻寛一 柳家金語楼 林弘高
一、ジェスチアーゲーム
 審判 松井翠声
  紅組    白組
 水の江瀧子 柳家金語楼
 丹下キヨ子 志村 立美
 市川 紅梅 小野佐世男
 櫻 緋紗子 佐野 周二
 三木のり平 市川段四郎
 一、名コンビ漫才 内海突破・並木一路
 一、歌と音楽 指揮 服部良一
 藤山一郎 東海林太郎 丹下キヨ子 赤坂小梅

 

1952年11月、『週刊読売』(11月24日号)に『私の絵』を掲載。特徴のある馬の絵と共に、以下のような事をしたためた。

私の生れは上州です。上州と申しましてもいさゝか広うございます。群馬の東部館林の産です。故郷を忘れぬため名前も喜代駒とつけました。

 自身の名前および「東」の亭号について触れているのが、珍しい。

 1953年頃、声の郵便に「漫才」を吹き込む。相方は東まゆみで、「スポーツの巻」、「ラブレターの巻」という軽いコント風の漫才を入れた。

 1953年7月、弟子の東ヤジローが脳溢血で倒れる。11月13日、相方のキタハチは病と貧窮に苦しむヤジローのためにチャリティー公演を行い、喜代駒へ出演依頼をした。

 公演には、喜代駒をはじめ、松井翠声、内海突破、春風亭柳橋、並木一路、牧野周一、一龍齋貞丈、山野一郎、前田勝之助、都上英二・東喜美江、林家染團治、宮田洋容、隆の家栄龍・万龍、東京リード・フレンド、楠木繁夫、三原純子など名士名人が集って、無報酬出演を果たした。これは芸界の美談として、『アサヒ芸能新聞』(1953年11月5週号)に取り上げられた。

なぜか喜代駒がいない。真ん中は二代目キタハチ。
左の女性は万龍? 隣はヒット。
後ろでこちらを向いてるのは前田勝之助

 それ以降は、ヴァイオリン演歌、浪曲漫談と漫劇を中心に浅草や演芸会などに出演。また、この頃より贔屓筋が「東喜代駒後援会」を作り、以降は芸能活動よりも文化的な活動の方が目立つようになる。

 1956年、源氏太郎が入門。後に東笑児と名乗る。改名の折には中村翫右衛門から「源氏の旗揚げ、東でござる」という祝言が来たという。

 1956年12月公開の映画「坊ちゃんの逆襲」に出演。役は「刑事」。映画は未見なのでどんな役をどのくらいの尺で勤めたのかわからないが、コロムビアトップ・ライト、柳亭痴楽、古川ロッパなど面識のある面々が出演する、喜劇映画であった。

 1957年2月、『経済往来』(2月号)に、『老優は消えるのみ』を掲載。娘たちに恵まれながらも自分の老いや時代の流れの残酷さを知った喜代駒の悲痛な胸の内が綴られている。

 1958年6月1日、東若丸死去。大空ヒットのように密接な師弟関係はなく、「東」の亭号を名乗るために仁義を通しただけの――いわば、身内であったが、東喜美江や東和子を育てた功績はデカかった。陰の功労者と言えよう。

 1962年10月14日、弟子筋に当たる東喜美江が36歳の若さで死去。都上英二・東喜美江で一世を風靡したコンビであった。

 1963年頃、「シャンスイングプレアーズ」解散。

 1963年7月15日、館林市庁舎落成記念式典に出席。『両毛春秋』(7月18日号)を見ると、市長室に招かれ、お歴々と膝を合わせた。

 同年11月28日、アヅマビル竣工式が開催される。『両毛春秋』(12月12日号)に大きく報道された。このビルが喜代駒の終の棲家となった。

 

 ・喜代駒の晩年

 1963年11月28日、コロムビアトップ・ライトが主催・演出をした『東京漫才変遷史』に出演。同番組はサンケイホールで開催され、収録された。この番組には、荒川清丸、林家染團治、松鶴家日の一、大津検花奴、菊川時之助など古参の漫才師が集結。なお、この模様は12月6日より、約1月にわたって、フジテレビで連続放映された。

 1965年2月7日、本牧亭で「浪曲研修会」を開催。出演者は、喜代駒のほかに京山華千代、東家幸楽、国本春美、鹿島秀月など。

 1967年5月、東喜代駒後援会の仲間と県立つつじが丘公園を旅行。

 同月26日、東君子死去。若丸と同じく「東」の亭号を名乗る承諾を交わしただけの関係であったが、東を名乗る漫才師がまた一人居なくなった時であった。

 同年9月20日、『東きよこまファン』を刊行。以後、10年間発刊され続ける。

 同年11月2日、紀伊國屋ホールで行われた「第5回貞丈の会 芸能東京百年」に出演。浪花節の東家菊燕、太神楽の丸一小仙社中、日本手品の一徳斎美蝶、活弁の竹本嘯虎、落語の柳家小さん、声色・手踊りの悠玄亭玉介、講談の一龍齋貞丈に交じって出演。

 12月19日、NETテレビ『テレビ風流寄席』に出演。バイオリン演歌を披露し、小唄勝太郎、馬場雅夫アナウンサーと共に鼎談した。

 1968年1月29日、神田明神会館で喜代駒會新年会を開催。本人が芸を披露したほか、アダチ龍光、木村庄之助が列席。

 1969年7月8日、上野本牧亭で行われた「明治・大正の芸を聴く会」に出演。企画・制作 藤浦敦、永井啓夫、小沢昭一 顧問・藤浦富太郎という豪華メンバー監修の会であった。出演者は、

「一、木村長門守 田辺南洲」
「一、強情灸 三遊亭万遊」
「一、野狐三次 東家楽浦」
「一、関の弥太っぺ 服部伸」
「一、浪花節見本 東喜代駒」
仲入り
「一、中村仲蔵 三遊亭円楽」
「一、道中づけ 服部伸」
「一、外題づけ 東家楽浦」
「一、対談 東家楽浦 服部伸」
「曲師 木村八重子」

 余談であるが、この時まだ二十代だった岡田則夫氏が録音係を務めており、

「最後の座談会でね、テープがもう切れそうって時に、出演者一同が、服部伸さんに『三遊亭円朝はどんな人だったんですか!』って聞いたんですよ。大丈夫か、大丈夫か、と思っていると、服部伸さん『忘れました!』って答えて、ワッーと笑いと拍手が起きて、そこでテープがきちんと終わったのをね、未だに憶えていますよ」。

 12月18日、午後6時より本牧亭にて、「東喜代駒の会」を開催。

 1970年9月、『月刊前進座』にエッセイを掲載する。かつて見た奇人・日本太郎のことと、かつて一緒に仕事をしていた三遊亭橘のことが出ていて貴重。

 大正時代の寄席芸人は遊芸稼人の鑑札を受けることになっていた。税金は二円五十銭だから犬より安い……。地方によっては一円のところもあっただけにゼッタイ頭が上がらない。その上無鑑札のやつもいるから始末にわるい。
 下谷竹町に中村歌門の家作に、三遊亭円右の弟子で三橘という芸人がいた。税金の通知がくるとわざわざ区役所まで持っていって納める。ズボラな男に似合わぬ感心な人だ、役所の人もほめていた。三橘は税金をためないけど家賃を溜めた。聞いたら大家が催促にこないからだって……私もこういう大家さんの家を借りればよかった。後日川崎大師の年男にたのまれて歌門氏に話したら、喜代駒さんなら貸しますよと言われた。
 三橘はなんでも区役所に相談に行った。子供が生れて名前を何てつけたらいいでしょう? 大正十三年生れだから十三男にしたまえ、ヘェーそうします。
 彼の仲間に日本太郎という変りものがいた。応援団長のようなカッコウをして高座に現れる。時には赤い陣羽織を着て音曲や一人芝居をして爆笑させた。この男は無賃乗車を自慢していた。車掌が「切符切ります」と彼の前にくると無礼者と一喝する。これで、ただ? 参ったね、こういう男には……彼のふところに
短刀と青大将を入れていてケンカをするとこれを持ち出してすごむから、ケンカに負けたことがないとこれも自慢していた。
銀座のカフェー黒猫では失敗した。俺は日本太郎だ、又の名を監獄太郎だとタンカを切っても、受けつけないので短刀とさを抜いて見せてもだめお家芸の青大将を相手の鼻先へつきつけた。キャーと悲鳴をあげて逃げると思ったら相手の男がその青大将をひったくってガブリと食った。キャーと、悲鳴をあげて逃げたのは、日本太郎でした。交通戦争も公害もない、よき時代でした。

月刊前進座』 1970年9月16日号

 1971年2月、『政界往来』(2月号)に、瀬戸口寅雄『漫才師と旧軍人』が掲載される。

 瀬戸口が喜代駒の旧友で、この中に喜代駒が戦地とスガモプリズンに慰問していた時代の話と、戦時中に交遊を結んだ田中光次少佐という軍人との関係が発表されている。田中少佐の手紙が引用されている他、戦時中の喜代駒の動向を探れる数少ない資料の一つ。

 1971年6月、源氏太郎が「東笑児」と改名。改名披露には中村翫右衛門、三遊亭円歌をはじめ、小渕恵三や中曽根康弘の秘書、関係者など、喜代駒の多彩な人脈によって、にぎにぎしく執り行われた。

三遊亭円歌の祝辞を聞く東笑児、喜代駒

 1974年4月、『潮』に、聞書き『芸人なんて業が深いですよ』を発表。喜代駒独自のストイックな観点や芸に対する視点が垣間見えていて、貴重。

 1975年9月19日、木馬亭「浪花節盛衰記」に出演。芸能研究家の南博が主宰したものである。高橋しん一が浪曲の歴史を話し、木村忠衛が実演入りで紹介する、というのが主体になっており、そのゲストという形で岡本文弥と共に出演した模様。当夜の光景は高橋しん一「歴史の感覚」に詳しく出ている。

 1976年、LPレコード『東京漫才のすべて』の企画に招聘され、コロムビアトップと対談する。明治大正期の漫才の面影を偲ばせる貴重な資料である。この時、東笑児が後見として付いていった――と源氏太郎氏本人より伺った。

 1977年、曾孫を授かる。喜代駒は生涯にわたって家族には恵まれた人物だったといえよう。曾孫の顔まで見られた漫才師というのも珍しいものである。

 1977年8月20日、木馬館で「東喜代駒會々員競演會」を開催。林家正蔵や春日井おかめがゲストとして出演。結果として、これが最後の公の舞台だった模様。以下はその広告。

 

 ・喜代駒の、死

 1977年10月10日夜、旅行先の伊豆長岡温泉「三養荘」で急逝。その日は知人の議員(共産党だったか)が主催する宴会に呼ばれていた。本当は東笑児が行く予定であったが、急用で行くことが出来ず、急遽喜代駒に代演を頼んだ――と笑児氏本人から伺った。

 当日は少し風邪気味であったが、特に異変はなく、いつものように機嫌よく歌って喋って宴会を盛り上げていた。宴会がたけなわになった後、廊下で宴会にいた人と廊下ですれ違い、「少し風邪気味だから風呂に行って温まって来るよ」というような事をいって、浴場へと消えていったのが、喜代駒生前最後の姿となった。

 23時55分ごろ、浴場の中で倒れているのを発見され、手当てを受けたが既に息を引き取っていた。喜代駒の亡骸は三養荘が丁重に弔い、布団や着物などを身に着けさせた上で、神田の遺族の許へと送り届けた。

 同年10月17日、上野護国院で遺族、山屋八万雄葬儀委員長、友人代表・林家彦六列席の下で厳かに葬儀が執り行われた。葬儀の司会は東笑児が務め、大空ヒットや都上英二、天野竜二・お駒といった門弟筋や都家歌六、太地喜和子、嵐芳三郎、交友のあった議員、作家など、各界から三千人近い人物がお別れに駆け付けた。

 その死は新聞や週刊誌などにも掲載され、地元館林の新聞『両毛春秋』では一頁の殆どが追悼に充てられた。以下は『両毛春秋』(10月13日号)に載せられた追悼文。

 伊豆長岡温泉に雲垂れて 東喜代駒師大往生
=悲しみ越えて喜代駒会を存続=

館林出身の芸能家、東京漫才の始祖東喜代駒師(本名武井喜代次氏=七八才)が十日午後十一時五十五分、雲低く垂れた伊豆長岡温泉で急逝された。

義理固い喜代駒師は顧客の招待を受けたので、数日来の風邪気味をおして十日朝単身伊豆長岡温泉に向ったが、まさかこれが死出の旅路になろうとは誰も予想しなかった。

詳しい情報はまだはいつていないが、宴会ではいつもの通り秘芸を披露していたことであろう。

夜更けて一人温泉につかり心臓麻痺で眠るように大往生を遂げるまで誰も気がつかなかったという位だからその直前までは、いつもと全く変らなかったのではないかと想像される。

翌十一日、急報を受けた夫人らが早速長岡へ飛ぶとともに後援会幹部や門弟たちが続々と私宅に集まってきた、午前五時過ぎには本社にも寝耳に水の訃報がもたらされた。

葬儀は十七日上野護国院で執行、埋骨式(館林市法輪寺)の日程などは未定で遺族や後援会で追ってきめられるが、後援会の荒井清二郎幹事によれば「私たちの敬愛する笑いの王者喜代駒師は亡くなったが、喜代駒師の芸をなつかしむとともにその人柄に惚れて集まった人々の和は消えない。後援会はこの後も何かの形で存続し、喜代駒師に遺徳をいつまでも偲びたい」

とのことであった。

 もう一つ引用。

芸能一と筋 美しき生涯

館林市大名小路(現在の大手町=市教委事務局前)に生まれた喜代駒師の家柄は元藩士、家業を継ぐつもりで上京し米屋にでつち奉公をしたが、元来が芸ごと好きで飛び込んだ芸の世界。

河合キネマ(大都映画の前身)で森の石松などを演じた写真が残っている。

浪曲もやった、漫談もやった、喜代駒漫劇団を結成して東京劇場や明治座を借切っての公演、これは今でいうリサイタルの皮切りだ。そして生み出したのが東京漫才である。

それまで漫才といえば関西にきまっていた。

扇子ようなもので男が女にパチパチと叩かれるあの古いなつかしい漫才で、これは文字でも万才と書いた。

それを関東風になおしたのが今の漫才即ち東京漫才である。

門弟の中からも多くの有名漫才を生み出している。

都上英二や故東喜美江、大空ヒット、ますみ、ダブルケンジなど数えきれない。

第一線から身を退いてからは後進育成につとめ上州人らしい義侠心と無欲で世話好きな性格が人をひきつけて多くの人々が教えを乞うた。

喜代駒師の積み重ねた貴重な芸を惜しむ人々によって後援会が結成されてもう二十数年になるだろう。

顔も広い、政治家、経済学の大立物、芸能家、学者とその範囲も広かった。

誰もが喜代駒師を愛し心から慕っていた。四月八日生まれの喜代駒師はオシャカ(こわす)にしてしまう」とよく話していたようにあまり金銭を残す方ではなかった、はいればはいっただけ使う、宵越しのゼニを持たねえといった気風が、また人に好かれた。

「俺は館林の不名誉市民の代表だ」

というが、JOAK時代に花山小唄(喜代駒作)を放送するなど、館林のために随分身銭を切って尽している。これは正に大偉業というべきで、古い芸者衆なら誰でも知っていることだ。

「なあに、幡随院長兵衛みたいに、お風呂で死んだなんて思わないでくれ、俺は自分で湯灌をしたつもりなんだ、ハハ、のんきだねえ」

と、今でもほゝえみかけてくるような気のする真の上州芸能家東喜代駒師の大往生、その死は何ものにも変えがたく悲しいが、最後の演技に涙をふり払って拍手を送りたい。

林家正蔵さんも「芸人としては最高の極楽往生だ」といっているように…………

”喜代駒師よ、あなたの肉体を例え土に還るとも、演歌を奏でるヴァイオリンの音は、いつまでもいつまでも人々に安らぎと追憶を残すことでしょう今はたゞ、あなたのご冥福をひたすら祈るのみ”

 また、『サンデー毎日』(10月30日号)に大空ヒットの追悼記事『火事とケンカと漫才と』が、掲載された。以下はその引用。

 東喜代駒さんとのお付合いは昭和十二年ごろからのことですから、四十年近くになります。
わたしが、大阪から上京したときからのお付合いです。正式な弟子ではありませんけど、わたしは東さんのことを師匠と思ってきました。器用な人でした。今でいうドタバタコントを最初に演じた人でしょう。
生れは、群馬の館林で、聞くところによると、お家はもとは家老だったそうです。ですから。育ちの良さを感じさせましたね。芸としては、多少甘いところがありましたけど、東さんの人間的な魅力で、あきさせずに見せてしまう人でした。芸は人柄なのだ、ということを教えてくれた人です。
卓越した巧者ではなかったけれど、たえず何かを求め、新しい趣向を考えていたようです。
大衆芸能を大切にしていたのですよ。そういえば、芸能人という言葉を使わず、自分は芸人だ、といっていましたよ。それに徹した人です。
火事と喧嘩は大好きで、館林生まれの江戸っ子といったところでしょうか。火事があると、とび口を持って出掛けるんです。そう、火消しをするわけです。それがどんな遠いところでもいくんだ。よっぽど好きなんですね。喧嘩のことでは、わたしと一緒のときにこんなことがありました、車に乗っていると、人だかりがある、なんだってんで、車を停めると、若い者が喧嘩をしている。師匠は、仲裁を買って出るんですよ。ところが、若いのは、興奮しているから言うことを聞かない。そうこうするうちに、師匠が喧嘩を買ってしまうんです。あの人、近衛文麿に似ているんですよ。だからなにかとっても偉い人にみえたんでしょう。若いものは、その気迫にのまれて、やめてしまう。そうすると、師匠、名刺を出して「いや失礼しました」なんていうんです。喧嘩をしていた二人、あっけにとられていましたよ。
誰でもそうでしょうが、おいしいものの好きな人で、これも、そのためには、どんな遠いところへも行きました。肉はどこ、魚ならどこってお店を決めていたようです。
昔は保守的な考え方の人だったのですが、ここのところへ来て革新的になっていたようです。最初は、社会党風だったのが、最近は『赤旗』を読んでいました。
なにか、常に新しいものを得ようとしていた人でした。
師匠を亡くして、わたしは、やはり寂しいですね。

 大空ヒットの追悼文は、喜代駒の性格や趣味を絡め、人物批評を行った上で追悼をしてみせるという、なかなか理知的なものである。中でも、喜代駒を絶賛するだけではなく、ちゃんと欠点や人間的な弱さにも触れているのが、理論家・大空ヒットらしくて面白い。また『朝日新聞』、『読売新聞』にも喜代駒の追悼文が写真入りで掲載された。

 葬儀後、喜代駒の亡骸は荼毘され、骨壺に納められた。喜代駒の遺骨は立派なものであったそうで、骨上げの際に、綺麗な喉仏が姿を現したという。

 同年11月23日、菩提寺である館林市法輪寺にて埋骨式が行われ、武井家代々のお墓に納められた。以下は『両毛春秋』(12月8日号)からの引用。

東喜代駒氏の埋骨式で身碍者に二十万円贈る

故東喜代駒(武井喜代次氏)斎月院洲涯東喜代駒居士=の埋骨式は二十三日館林市法輪寺で地元友人知人五十余名が参列してしめやかに行われたあと、本町三丁目第五で追悼昼食会を行ない、愛用のヴァイオリンを弾きながら歌う在りし日の八ミリ映画を上映、参列者に感動を与えた。

この日波江未亡人は本社に「肢体不自由児や身碍者など恵まれない人のために故人の意志によつて寄附させていたゞきたい」と金二十万円を託した。

 本社では早速市福祉事務所を通じてこれを市の社会福祉事業関係に寄贈した。

 2019年現在も、東喜代駒は故郷・館林の地で静かに眠っている。墓所は館林法輪寺である。

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