東喜代駒ノート

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Kiyokoma Azuma´s Note

 東喜代駒あずまきよこま、その華麗なる人生~

東喜代駒(右)・東喜代志

 目次

  ・喜代駒、その人物。
  ・喜代駒、その一生。
  ・喜代駒、その芸風。
  ・喜代駒、その功績。
  ・喜代駒、その門弟。
  ・喜代駒、その面影。
  ・喜代駒、その資料。

 喜代駒、その人物。

 本 名 武井喜代次たけいきよし

 生没年 明治32年/1899年4月8日~昭和52年/1977年10月10日

 出生地 群馬県館林市本町(旧・邑楽郡館林町大和田?)

 趣 味  諸芸、将棋、買食ひ、バイオリン演歌、浪花節、芝居見物など

 喜代駒、その一生。

・三分でわかる喜代駒

 群馬県館林市生まれ。実家は館林秋元藩の家老の家柄であった。尋常小学校卒業後、上京。神田の米問屋や飯田定次郎という陸仲士のもとで奉公し、自分も米屋を開業するが芸事に凝り始め、震災で店も取引先も潰れたことを幸いに漫才師に転向する。

 初めは村松喜代志という男と組み、喜代駒・喜代志としてスタートを切る。従来の漫才には見られなかった奇抜な発想と戦略の巧さが功を奏し、大正14年には当時の一流劇場であった市村座で独演会を開催する程の成功をおさめ、また東京漫才では初となるレコード吹き込みやラジオ出演を果たすなど、東京漫才の礎を築いた。

 上方漫才の影響を受けつつも、模倣ではない独自の東京風の漫才を模索し続けたのは特筆すべき点であり、円満な性格から、東ヤジロー・キタハチ、大空ヒット、都上英二・東喜美江、Wけんじ、源氏太郎などの優秀な人材を育てた事も見逃せない。「東京漫才の元祖」といっても過言ではないであろう。

 喜代志の後釜として駒千代と組むが、昭和10年頃には漫談を視野に入れ始め、漫才コンビを解散し、後に漫劇、コント、バンド、レビューなど多種多彩な芸にも手を出した。

 戦後は漫才師というよりも、多くの文化人や政治家と交友を深めたり、仲間や家族たちと旅行をしたり、芝居に出かけたりと趣味人的な傾向が強くなった。しかし、芸人を引退する事はなかったようで、頼まれればバイオリン漫談や浪曲漫談などを演じていた。

 1977年10月10日、余興先の静岡で急逝。最期は温泉につかりながら、静かに往生するという劇的な死を遂げる。今の漫才師やアイドルに引けを取らぬほどの大きな成功をおさめた反面、芸への執着やリーダーシップに欠けるきらいがある事から、未だに評価の位置が定まらない。

――下からが本編である。


・喜代駒の青春

 1899年4月8日 群馬県館林市にて、館林秋元藩々士・武井中衛の次男として出生。喜代次と名付けられる。ご遺族によると、長兄は本家に出ていたそうで、実質の跡取り息子として育ったという。

 その縁戚や関係者などは多々あり、現在も群馬と東京で健在であるが、武井一族には何頭の因縁や事情があるので深くは突っ込めない。これだけの説明かと思われるかもしれないが、何卒ご了承願いたい。

 1913年頃、高等小学校を卒業し、上京。14歳で、神田にあった東京廻米問屋「関商店」に丁稚奉公をする。また、神田川で荷揚運搬をやっていた飯田定次郎の下で軽子(運送業者)としても働いていたそうで、この頃、面識を得たのが、飯田定次郎の親戚にあたる直井巌という青年。後の悠玄亭玉介である。

 当の玉介は自著「たいこもち玉介一代記」の中で、
 

  話は脱線するけど、この後妻のおふくろの叔父さんが飯田定次郎って人で、通称「飯定」っていってね、神田川の荷揚人足、軽子の元締めなんだ(中略)この飯定の叔父さんのところにいたのが、東喜代駒っていう昔の有名な漫才師。駒千代と組んで、昭和五、六年ごろ、漫才ではずいぶん人気が高かった。この人はキヨどん、キヨどんって言われて、叔父さんのとこで軽子で働いていたんだ。器用な人でね、声色を使ったり、いろんなことをしているうちに、とうとう軽子をやめて漫才師になったんだ……

(悠玄亭玉介「たいこもち玉介一代記」 54~55頁)

 と、自分の家族関係を踏まえつつ、こう回顧している。喜代駒の奉公人時分の頃の資料は殆ど残っていないので、軽子であったという過去はこの本で初めて知った。

  残念ながら、これ以上の事は記されていないので労働形態や勤務年数も分からないが、多分関商店と並行して(あるいは関商店から派遣されて)勤務していたのではないか。米問屋に米を入れるためには運送業が欠かせないのは今も昔も変わらない話である。
 追記:その飯田定次郎氏のご遺族より、飯田定次郎の資料及び情報の提供をいただいた。参考資料にしていただけると幸いである。

(提供 E.S.さま)
「昭和六年  飯田家墓供養」の折の集合写真

・図解

 前列中心のお坊さんの左隣、飯田定次郎氏。
 お坊さんの右隣は飯田徳蔵氏といって、定次郎の跡取り。
 そして、お坊さんの左後ろ(定次郎氏とお坊さんの間というべきか)、小柄な割と若い人が提供者様のお祖父様にあたる、菊次郎氏。ご遺族によると、この菊次郎氏の実の姉が玉介さんのお父さんの後妻になったそうである。
 喜代駒の前、定次郎氏の左隣(座っている人)が、定次郎の長女・喜代の夫であった飯田隆四郎氏。跡取の徳蔵氏とは義兄弟の関係だったという。隆四郎氏の子供が日本のウェイトリフティングの先駆けを作った飯田一郎氏。
 お話によると一郎氏と徳蔵氏は仲が良く、一郎氏の作ったバーベルで徳蔵氏は自慢の怪力を鍛えたという。
(喜利彦余録:ご遺族様によると、定次郎の跡取りであった徳蔵は早くからウェイトリフティングに興味を示されたそうで、日本ウェイトリフティング協会が発行した『ウェイトリフティング60年史』にも『 江戸時代より差し石や俵差しを受けついできたグループの一人である飯田一郎の話によると、昭和6年頃同氏が神田の古本屋で英文のウエイトリフティング書を発見、それをもとにバーベルを製作したのが、わが国最初のバーベルであるという。当時、東京神田川近くで運搬業を手広く営んでいた飯田一郎の叔父である飯田徳蔵を中心とした力自慢たちは、力石や米俵の代わりにこのバーベルを使って大いに腕を競いあったのである。』と記されている。また、徳蔵は神田川徳蔵という名前で活躍をしたといい、徳蔵およびその関係者で奉納した「力石」なるものが、秋葉原の柳森神社に残っている。本旨と外れるが大変面白い話なので、ここに明記した。)
 話に戻って喜代駒である。奉公人時代の事は(堅気だったせいか)ほとんど分かっていない。しかし、本人の弁によると、大変芸道楽好きの悪ガキだったという。特に熱を上げたのが浪花節だったそうで、一時は浪花節語りになろうかと考えたほどでもあったという。

 その頃を回顧した貴重な資料が私の手元にあるので、紹介することにしよう。

喜代どんのごひいき

 喜代どんは、浅草の初音館に出て居た東家燕山に熱を上げて通つた。熱を上げたのは、カワイコちやんの桃中軒雲奴のほうだが……とにかく東家燕山がたまらなくすきだった。
 フアンとして付合つて居るうちに喜代どんのことを兄ィさん/\と呼ぶようになつた。
 二人で仲見世の大増に上つて相談した。どうだ兄弟分になろうといつたら燕山は喜んで承知した。喜代どんは幟を贈つてやつたり羽織をこしらえてやつたりした。
 喜代べエ、一寸こい!
 大番頭に蔵前へ呼ばれた。
 奉公人のくせに浪花節語りなんかと付き合いやがつてとんでもねえ野郎だ、旦那に知れたらお払い箱だ。
 さんざん、油をしぼられた。
 燕山に話したら、皆私しがわるいんです兄いさんごめんね?
 目に泪を浮べていた。
 喜代どんは考えた。自分一人が芸人を贔屓するからイチャモンをつけられるんだ店中でひいきにしたらどうだろう。
 まさか全部お払い箱には出来まい。いけなければ同盟非行だ! 悪い小僧があるもんで、善どんに話したら、ヤレヤレッてけしかけられた。
 ビリケン、トランべ、サダエモン、茶目、ジゴマ、タンコロ(奉公人の仇名)
 皆んなに話をしたら渋ぶつて居るから、木戸銭と電車賃は喜代どんが出すと云ったら一発でOK。
 燕山の評判をきいて河岸の連中も初音館に行くようになったので、大番頭もニガ笑いをして居た。
 小松亭の下足が大番頭さんは辰雄や清吉が掛ると毎晩来るよといった。
神田川の人足の親分がいいました。
人間は死ぬ迄働けッて死んでからゆつくり休めばいいだろうといつたら洒落れた事いいやがるつて廿銭くれました。仲よしの善どんに話したら、俺は死ぬ迄浪花節をやるんだといつた。

(「東きよこまファン」16号(昭和46年5月15日発行) 1頁)

 何とも落語のような愉快な話である。それと共に、この頃から芸事に溺れ始めており、後年の才覚と芸馬鹿ぶりの片鱗が現れつつあったのではないだろうか。

 21歳の春、關商店を満期退社をし、独立。後年のプロフィールを見ると、

十四歳より神田東京廻米問屋、關商店に商業見習として入り、二十一歳の春満期退社、下谷練塀町に於て獨立し白米卸賣商を営む。

(「レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版」第六編 演藝家 299頁)

 とある。一方で喜代駒の幼馴染であった郷土史家、小川零銭は自著「館林繁昌記 明治・大正編」の中で、

 かねてから好きで好きでたまらなかった浪花節の道に入る決心をして主家をとび出し、その当時浪花節の番付で関東派の三役格東武蔵の門に弟子入りした。
 そして苦しい修業を数年続け、ようやく前座に出られるようになり、東喜代駒と名乗り、地方巡業にも出た。しかし喜代駒は浪花節独特の腹の底からしぼり出す低音が思うように出ない。そのためお客がのってこない。それに悩んでいた。

(小川零銭「館林繁昌記 明治・大正編」 215頁)

 と、喜代駒が店を捨て、浪曲師になった事を示している。しかし、これは確たる証拠がなく、仮に前座生活を3年やったと見積もってみても、喜代駒の経歴とうまく辻褄があわない。

 喜代駒が浪花節が好きだったのは事実であるが、小川氏は何かと勘違いしている可能性もある。が、「東」の亭号の推測を出した意見はこれくらいなものであろう。後は喜代駒本人が、

 私の生れは上州です。上州と申しましてもいさゝか広うございます。群馬の東部館林の産です。故郷を忘れぬため名前も喜代駒とつけました。

(「週刊読売」より「私の描いた絵」1952年11月24日号 65頁)

 と、語っている程度か。何はともあれ、独立して米屋を開いたことは間違いない事実であろう。

 ・喜代駒と震災と

 關商店から独立する直前で(1919年頃?)、生涯の伴侶となる波江と結婚。遺族のお話によると、波江は良家のお嬢様の出身だったそうで、芸能界とは縁もゆかりもない人物だったという。

 そのためか、後年喜代駒が人気者になった後も、表舞台に立つことはなく、影の功労者に徹し、良き家庭人として収まっていた。当時、漫才師の多くがすぐに夫婦関係を結んだり、相方の不足で妻を舞台に連れ出していた事を考えると、家庭は家庭、仕事は仕事で分別していた喜代駒夫妻の態度は実に先見的ではないだろうか。

 1920年4月28日、長女・喜美子誕生。21歳にして、早くも一児のパパになったというのだから、驚きである。

 さて、喜代駒の開いた米屋は、当時、外神田の近くには青果問屋があり、多くの人の往来があった事も幸いしてか、店を上手く軌道に乗せることができた。

 余裕が出ると、人間は行動的になりたがるのか、米屋の旦那として成功し始めた頃から、観劇、寄席通いだけでは飽き足らぬようになり、天狗連(アマチュアの芸人グループ)に参加し始めるようになる。

 その頃、どういう事をやっていたのか、詳細な資料はないが、それでも二、三の資料を覗くと、断片的な記録を伺う事ができる。以下は、当時の様子を示したものである。

 さて関東大震災前に、浅草の御国座(現在の松竹座)へ安来節の一座が参りました。其中へ萬歳が(昔は漫才とは書きませんでした)二組ばかり這入つて来ました。(略)女が男の頭を張り扇でぽか/\ブンナグルのを見て、此奴はキバツだ? 俺も一つあれをアレンヂしてやつて見ようと、生来イカモノ好きの私でしたので早速やり出しました。ところが、困る事に、萬歳は二人でやらなきやア出来ない仕事です。と云つて折角思いついたのだから、兎に角やる事にきめました。

(省略)

吉原土手の古道具で鼓を買つて来て、舞台でバン/\叩いて。当時流行した唄や、怪しげな珍舞踊などを取入れて、最後は一人芝居、日本太郎よろしくの立廻りなどを演つて、寄席に出て居りました。其のため、着物はビリ/\にやぶけて仕舞いましたが、今と違つて、半分お道楽でやつて居る時分だから、そんなことお構いなしでやれました。しかし、どうしても相手のない事には萬歳では通りませんので、其の当時の一流どこの加藤滝子、阪東三光、五條家弁慶なんて云うウルサ方を太夫に頼み、ドテ組を巡つて居りました。

(中丸宣明篇「コレクション・モダン都市文化 第4期 第六七巻 漫才と落語」より「解題・関東漫才おぼえ書き」六五四~五頁)

 また、違う文献には、

地方興行にきた曲馬団、エエ、今のサーカスですね。そのほか、剣舞の物まねなどをして喜んでいたぐらいだから、そもそも商売に身が入りゃしない。で、マゴマゴするうち、震災(大正十二年)でしょう、みんな焼けちまって、商売の〝貸し〟もとれなくなっちゃった。

(「創」昭和四九年四月号 二八九頁)

 と、ある。その他、ご遺族や幼い頃、喜代駒の家の近くに住んでいたという柳家小袁治氏の話などによると、

・宴会を開いては、まだアマチュアだった柳家三亀松を呼んで、一緒に遊んでいた。
・駆け出しだった頃の柳家金語楼とも仲が良く、呼び捨ての仲だったという。
・誰かに会うたびに、祝儀を切ったり、ごちそうをするので、家中の者はやりくりが大変だったという。

 等々、その鷹揚なお旦那ぶりが窺える。

 1923年2月25日、次女・艶子誕生。当時まだ健在だった喜代駒の親が次女の名付け親になったそうであるが、後年、本人はこの名前を嫌がり、通名を「津弥子」にしていた。

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