石田一雄・花園八重子

石田一雄・花園八重子

 人 物

 石田いしだ 一雄かずお
 ・本 名 石田 龍彦
 ・生没年 ??~1981年以後?
 ・出身地 ??

 花園はなぞの 八重子やえこ
 ・本 名 石田 キヨ
 ・生没年 ??~1981年以前?
 ・出身地 ??

 来 歴

 伊志田一雄、花園ヤヱ子という名義もあるが、ここでは一雄・八重子で統一をする。

 二人の前歴はハッキリとしていない所が多いが、波多野栄一「寄席と色物」に

 根は新派の女形の出

 という記述がある。

 戦前にコンビを結成し、戦前から戦後の一時期にかけて吉本興業に所属していた模様で、「吉本有名会」「吉本特選演藝大會」などといった大会にも出演している所を見ると、中々の人気はあったようである。

 作家の色川武大はこのコンビの芸を鮮明に覚えており、「寄席放浪記」の中で「ポパイよいづこ」と題した一文を記している。曰く、一雄のポパイの真似と八重子の饒舌が売り物だった、そうである。

 戦後、落語協会の色物として入会し、上野鈴本や新宿末広亭などに出るようになった。この頃の舞台に接した一人に若き日の立川談志が居り、談志の著作ではなぜかよく出てくる。たいして面白くないという割には、出てくるので不思議な人物である。

 松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年4月3週号)の中で、

 花園八重子・石田一雄
 寄席に上ったり、放送に出たりいそがしくかせいでいるのは大いにけっこう。坂野コンビと違って アクのつよい漫才、八重子独特のマスクが非常にトクをしている。ひところは頭髪もかわっていて、ロールパンをのせた形にしたが、これはイタダキかねる。常々おもっている仮定だが、前の坂野比呂志とこの石田一雄と組むと典型的な男性立体漫才が出来あがる。なにかの機会に、一度やってみたらおもしろかろうと期待している。

 と評している。この評価を見ると、なぜ失踪したのか、よくわからなくなる。

 1955年の漫才研究会設立にも関与し、会員の一組として名を連ねたが、その前後で落語協会を脱退し、消息が辿れなくなる。

 波多野栄一は「寄席と色物」の中で、

短気で円生師と喧嘩して協会を出された

 と、脱退した理由を指摘している。

 その後の消息は不明であるが、前述の色川武大の『ポパイよいづこ』を真実とするならば、1960年代まで浅草の小屋に出ていた模様である。以下はその抜粋。

 昭和三十年代のころは、落語協会に所属して都内の寄席に常時出ていたから、ご記憶の方もあろう。ところが三遊亭円生に楯ついたとかで、おまけにズボラの面もあって、協会を追い出され、どこに出ているか、私にはしばらく所在が知れなかった。
 それからしばらくして浅草を歩いていると、木馬館の看板の中に彼らの名前が見える。あそこは当時、一、二組をのぞいてマイナーな芸人の出るところである。
 しかしなんでもよろしい。彼らの健在ぶりをひさしぶりに観ようと思って、中に入った。一雄・八重子は健在だったけれど、服装もみるからに貧相で、八重子の前歯が一本抜けている。思いすごしかもしれないが、入れ歯を売っちゃった、という風情である。
 元来、勇ましくないところにその印象が重なって、高座に風が吹いているような感じである。
 それはよろしい。それはよろしいが、彼らのやり出したネタは、代用食と買出しわや皮肉った戦争中のネタであった。
 昭和四十年ごろになって、米が喰えないでヤミの食物を漁りに出かける話は、私ばかりでなく客席全体が唖然とした。
 笑声ひとつ立たず、しいんとなって、その中で一雄が不景気にボソボソと呟いている。あれは異様な光景であった。私は寒々とした客席にじっとうずくまったまま、しばらく席を立てなかった。

 両人共に没年は不詳であるが、八重子は1981年付の『芸能人物故者芳名簿』に名が載っている。一方、一雄の名前は出ていないので、その時には健在だった模様か。

 談志や色川武大が頻繁に取り上げているにも関わらず、その素性がよく判っていない珍奇なコンビである。

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