二代目三升紋弥(曲独楽)

二代目三升紋弥(曲独楽)

 人 物

 三升みます 紋弥もんや
 ・本 名 細野 春吉
 ・生没年 1894年1月18日~1942年7月22日
 ・出身地 東京

 来 歴

 二代目三升紋弥は戦前活躍した曲独楽の名人。関西の三升家紋右衛門の弟子で、師匠の前名「紋弥」を襲名。昭和以降は東京の落語家団体に入って貴重な曲独楽芸人として活躍を続けた。昭和・平成と活躍した三代目三増紋也の父親でもある。

 経歴は『上方落語史料集成』掲載の「二代目三升紋弥」に詳しい。ガチ勢の研究者が書いているので、本当によく練られている。

 他の記事でも何度もお世話になって居るが、『上方落語史料集成』に敬意を示す形で記す。

 三升紋弥の出身は関西――ではなく東京。これは『上方落語史料集成』に無い話である。

『日刊ラヂオ新聞』(1927年1月31日号)にその経歴が出ていて驚いた。

関西の人気者 二昔振りで上京中
【三升紋弥】さんは、関東関西にその名を謳はれた、三升紋弥が紋左衛門と名を改めて隠退した後を継いで、二代目三升紋弥となった人、その襲名披露に二ヶ年間地方巡業をして、この正月上京して暫らく東京に落ち着く事になって、目下は八軒の寄席をかけ持ちに多忙を極めてゐる。紋弥さんは根が東京で育った人で、十四歳の時師匠について大阪に行き、それから廿年間、大阪で若手連中の人気者となって腕を振ってゐた、紋弥さんは唄、落語、舞曲、独楽応用の舞を得意としてやってゐる。紋弥さんは『とにかく二昔で故郷へ帰った様なものですから、言葉もつい、大阪ナマリが出る時がありますが、然し直ぐに治るでしよう、放送は今度は初めてなので酒の粕を選びました。これはたいしたものぢやありませんが、子供さん方にも面白く聞いて頂ける様にと思ったのです。どうぞ宜しくお願ひします』と語った

『芸人名簿』によると、「細野兼吉次男」であるという。

 14歳――1908年に三升紋弥に入門。この頃紋弥は東西交流で東京の席に出て居たため、東京の地で入門の話がまとまり、大阪へと連れていかれたのであろう。

『上方落語史料集成』によると、一番古い資料は「明治41年7月22日より三升紋弥一座が兵庫県姫路の旭館で公演した」ものだそうで――

御祝儀(三升小紋)、昔ばなし(三升紋冶)、落ばなし(三升紋吉)、滑稽ばなし(柳亭小ゑん)、昔ばなし手品(入船亭扇蔵)、落語曲芸(三升紋三郎)、音曲ばなし(風雷舎金賀)、落語手踊(柳亭錦枝)、音曲ばなし(桂小円冶)、人情噺(入船亭扇橋)、落語義太夫手踊(三升紋弥)、大切電気仕掛長唄はやし連中(杵家弥蔵、松家鉄三郎、杵家弥三吉、杵家弥三二郎)

 14で弟子入りし、15で初高座とは普通につじつまが合う。

 その後は師匠について、落語の傍ら、踊りや音曲、更には曲独楽も仕込まれた。そして「三升小紋」と名付けられた。

 1910年には既に曲独楽を演じている記録が当時の新聞にあるというので、師匠の紋弥同様に芸達者な路線を望まれたのであろう。

 その後は三友派に属し、師匠の一座を中心に三友派の幹部と共に旅巡業を行った。10代で既に芸達者として知られていたようで、若手の一人として着実に売り出すようになった。

 1913年2月には、師匠の紋弥・兄弟子の三升紋三郎や桂文治郎の一座に加わって満洲・朝鮮を巡業。この頃にはもう落語以上に曲独楽の腕前が優れていた所があったらしく、「満州日日新聞」(2月19月号)に――

小紋の曲独楽、まだまだ若い所はあるけれど独楽はよく扱い扇の要止、股をくぐらせて口中止、衣紋流しなど好くやる。おしまいは鯉の瀧上りとあって、花道の上に釣った燈籠の中へ独楽を逆にすべり込ませると燈籠がパッと割れて五色の布がパラッと散るなど眼が覚める。それから踊りを二つ三つあって引込むと交代に、座長紋弥のお目通りとなる

 帰国後、地方を廻っていたが、20歳になった1914年2月に再び朝鮮・満州を巡演している。

 同年3月15日の『朝鮮新聞』に「●竹園館の小紋一行 仁川竹園館は明十六日夜より三升小紋一行の東京大阪合同音曲一座にて花々しく開演すべしと」とあるほか、3日後の18日の同新聞にはその当時の評判が出ている。

●竹園館を聞く 三升紋弥の高弟小紋が当地竹園館で十六日から蓋を開けた、同人は内地で独楽を巧に遣ふ処から評判がよかったが、久し振で鮮やかな手際を見たいものと、少々遅くはあったが覗きに行って見た▲悪物も暫く出逢はなかったが何とか云ふ先生新作義太夫と云ふ前振で慥か小波山人の書た脚本だと思ふ『三荘太夫』と云ふ芸題、聴客は何が何やら薩張り解らず何でせうと云ふ内におしまい、然も明晩は乃木大将を呻吟らして頂くといふ糞度胸に流石に聊か当てられて慄然としたが悪物が少ない当地ではもの凄い内にも頼母しい気がして後を楽しみにして居ると▲青柳何子、真逆昨日の芸妓芝居の面当でもなからうが三番叟を達者に踊抜いてコンなものだとばかり其後は活惚と云ふ砕け方で鳥渡御面相が下山京子女史に彷彿して新しい女を忍ばせる▲馬琴の人情話『紺屋高尾』小紋の落語『芝居道楽』一座の目当だけにうまいもので何れも東京仕込の江戸弁できび/\した芸風が嬉しかったが、独楽も前席に遣って後席に一席充分伺った上で華やかに謡って踊ったらよからうものを、子供欺しで打出なんざア淋しくって一座の座長としての勘も九がなさすぎる小紋君の一考を欲す、歌舞伎芝居次で芸妓芝居で皆疲れたのか当夜は余りは入りがなかったが兎に角当地へ来る落語界の鶏群の一鶴だと提灯を持って置く(九如)

 1914年4月、龍山で徴兵検査を受けた模様。

 この巡業後に徴兵検査を受けたのか、しばらくの間名前が消える。1914年に復帰しているのを見ると、現役合格と徴兵は免れたようであるが、「教育召集」(約90日間の補充兵の教育)でも課せられたのだろうか。

 この間、師匠の紋弥は「紋右衛門」と改名し、華々しく襲名披露を行っている。ただ、襲名披露に小紋が加わる事はなかった。

 どういう理由か不明であるが、長らく所属していた三友派から反対派へ移籍し、さらには第三の新興勢力である大八会に所属。色物席や巡業などで活躍するようになった。そうした背景から余り資料は多く残っていない。

 10年近く大八会の幹部として取り立てられ、関西を中心に活動を続けることとなる。

 ただ、1915年に出された『芸人名簿』には東京在住と扱われており、名前が出て居る。理由は不明。

 1923年に師匠の三升家紋右衛門が引退。この引退披露には参加しなかった。

 ちなみに関東大震災に遭遇し、一命をとりとめている。この時、曾我廼家五郎とはぐれた曾我廼家蝶六に「五郎氏は大阪にいて逆にアンタを心配している」と五郎の消息を伝え、蝶六を安心させている。

 1925年1月17日、倅の春次が大阪天王寺区で誕生。この子がのちの「三増紋也」となる。

 この頃、大八会は解散を迎え、吉本の天下になろうとしていた。また関東大震災で大打撃を受けた関東地方の仕事も復活した事もあってか、大阪を離れ東上を試みるようになる。

 それと同時に「二代目三升紋弥」を襲名。

 1925年春、名古屋に出て数か月興行を打ち、5月4日から5日間は名古屋御園座を借りて「三升紋弥一行」として大看板を掲げ、興行としていた――と『御園座七〇年史』にある。

 さらには東北、北海道と渡り続けた。

 1927年1月、『都新聞』(1月1日号)の広告に「●大阪初上り 二代目三升紋弥」とある。それと同時に柳家三語楼率いる「三語楼協会」へと入った。

 1月初席には神田喜楽、神楽坂演芸場、浅草橘館、呉服町クラブ、麻布文楽、武蔵野倶楽部と六館に出ている。

 1月中席には既に三語楼や金語楼と共に一枚看板で迎えられている。

 1月31日、JOAKの「寄席の夕べ」に出演し、「酒の粕」を口演。柳亭芝楽、春風亭柳橋、神田伯龍、竹本都太夫、柳家小三治、柳亭春楽、鶴賀宮古太夫、蝶花楼馬楽、談洲楼燕枝、三遊亭萬橘、三遊亭圓生と豪華版であった。

 以降は三語楼協会の幹部として活躍。当時曲独楽の芸人が殆どいなかった事もあり、寄席の掛持ちを毎週するなど、東京での扱いは非常に良かったようである。

 曲独楽の芸としては一通りの「小手調べ」「風車」「衣紋流し」「刃渡り」「灯篭」などを得意としたというが、舞踊の素養があった事もあってか整然とした美しさがあり、評判は高かったという。独楽以外では寄席の踊りを踊って笑わせたり、時には独楽を回しながら踊るなど曲技じみたネタも持っていた。

 1927年暮れに東京を離れ、新年は静岡入道館で迎えている。

『上方落語史料集成』では、1928年2月10日から12日まで三夜連続で朝鮮の京城で「三桝家文弥」という芸人が「名工の大黒、鹿政談、菰屋政談」の三演目を放送した――とあるが、当時の新聞を見ると、3月上席には神楽坂演芸場、歌音本、両国座の3席に出演、さらに3月中席は上野鈴本、浅草橘館と出演を続けており、朝鮮へ行った形跡はない。多分偽物ではないか。

 長らく三語楼の引き立てを受けて幹部として大いに売り出していたが、1930年に三語楼が協会を飛出した際は柳家金語楼・林家正蔵などの弟子に追随する事となった。

 その後、金語楼は睦会の春風亭柳橋と共に「日本芸術協会」を立ち上げ、新しい勢力として売り出したが、この結成の時には紋弥は古巣の大阪に戻っており、いささか出遅れる形となった。

 1930年10月、雷門助六・五郎親子と共に大阪へ久方ぶりにやってきて南地花月に出演。東京で幹部になって居た事もあってか、「東京来演」と看板が挙げられたという。

 古巣の気楽さもあってか、11月も南地花月、12月も大阪へ居座り、1931年の正月は5年ぶりに大阪で迎える事となった。

 さらにそこから4カ月ほど南地花月、北新地花月に出演する事となり、気炎を吐いた。その一方で、東京には帰らず、関西近郊の巡業や旅巡業などを行っていた模様である。

 1年近く帰らなかった背景には、東京落語界の分裂を受けて「どこに所属をすべきか」という品定めを行っていたからではないだろうか。

 結局、1932年1月上席より日本芸術協会に合流し、同会の幹部に就任する。長らく曲独楽と舞踊の二本柱で活躍する事となった。

 1939年7月、東宝名人会中席に出演。出演は宝井馬琴、林芳男など。

 1940年2月封切りの石田民三監督の映画「化粧雪」に寄席芸人役で出演。ほんの1シーンであるが、曲独楽を披露している様子が今日も伺うことができる。フィルムは先日発見されたはずである。

 しかし、戦雲が立ち込めるにしたがって体調を崩しがちになり、寄席の休演が目立つようになる。

 1940年冬ころを境にほとんど寄席に出演しなくなり、最期は闘病生活を送っていたという。

 1941年には太平洋戦争が勃発、寄席や曲芸も縮小の憂き目に遭い、芸人たちも次々と応召されていった。

 1942年、17歳の息子の春次の未来を案じながら、48歳の若さで亡くなった。その春次は父の死と前後して「三升小紋」を襲名し、高座に上るようになる。

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