春風亭柳丸(珍芸)

春風亭柳丸(珍芸)

 人 物

 春風亭しゅんぷうてい 柳丸りゅうまる
 ・本 名 佐藤 忠治
 ・生没年 1874年7月16日~1939年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 春風亭柳丸は戦前活躍した物真似芸人。一種の「雑芸」を得意とした器用な芸人だったそうで、柳派の色物として活躍。動物物真似や一人芝居、阿呆陀羅経など、珍芸雑芸を手あたり次第に見せる芸で人気があったという。

『古今東西落語家辞典』などによると、元々は名人・四代目橘家圓喬の弟子で、「喬丸」。さらに、初代三遊亭円遊門下に移り、「三遊亭遊玉」。円遊亡き後、柳派に移籍。四代目春風亭柳枝の門下に入った。1918年頃、色物に転向し、「春風亭柳丸」と改名した――という。

 明治30年頃の入門だろうか。27年の名簿には名前が出ていない。

 生年月日は、『芸人名簿』に掲載されていた。1914年当時ではまだ「遊玉」と名乗っていた。

 芸風は至って古風だったそうで、百まなこ、茶番、阿呆陀羅経、簡単な物真似などを見せてお茶を濁していたという。正岡容は『艶色落語講談鑑賞』の中で、

 春宮秘戯図といえば、これは東京の話だが、昭和戦前までいた坊主頭で寸詰まりの愛嬌のある顔をした春風亭柳丸という爺さん、売り物はおよそ前代の漫芸ばかりで百まなこ、ひとり茶番、阿呆陀羅経には犬猫の物真似。猫の啼き声を演ったあとで「ちょいとニャーニャーにおぶうを呑ませまして」いと軽く高座の湯呑みを取り上げて自らの咽喉をうるおす呼吸が愉しかった。この人の明治味感は木村荘八画伯も何かの随筆の中で讃えておられたと思う。

 と回顧している。この一文だけで風貌や芸風が手に取るようにわかる。

 また、華柳の弟子で事実上の兄弟弟子にあたる春風亭枝雀も『民族芸能365号』の中で、

 ――柳丸ってのは?
「これはねェ、おじいさんの色物の芸人で、三千歳・直侍の二つ面でもって一人掛合みたいな珍芸をやつておりましたね。」

 と語っている。

 凄まじくうまい芸人ではなかったようであるが、如何にも洒脱で淡々としていて愛嬌があった所から寄席では相応の人気があったという。

『朝日新聞』(1923年7月15日号)の演芸風雲録に――

◎阿呆陀羅経の柳丸が高座へ上ると大喝采、お客の気も知れないがこれまた嫌に色ツぽい親仁、寄席が堕落したのかお客が百姓になつたか何方もどつち

 また、奇人の一面もあったそうで、そういった所も愛されたという。正岡容『艶色落語講談鑑賞』の中に、

 彼柳丸には稚拙な笑い絵を描いては仲間に無料でくれてやる道楽があって、その一枚が警察の手へ入ったために大騒動、彼に絵をもらった落語家一同が参考人としてみんな呼び出されたという騒ぎもあった。この老芸人にはさらにさらに奇癖があって常に手淫を好み、ために妻女をも離別したほどの常習者だったが、一夜彼以外まだ誰も到着していないある寄席の楽屋で、ムラムラと味な心持ちになり、かわやへ駆け込んでしまったら、とたんに前の出演者が一席おわって高座を下りてきた。が、柳丸の、ことのおわるまではどうすることもできないので、よんどころなく幕を下ろして、その間、賑やかにお囃子でつないでいた、という。そんな原因から幕を下ろし、囃し立てているのだとはつゆ知らないで、陽気な囃子の音色にボンヤリ聴き入っていたろうその晩のお客たちの顔を思うと、じつにおかしい。

 と、なかなかえげつない逸話が挟まれている。

 長らく柳派の寄席に出演。柳派が衰退した後は、師匠に従って睦会に入会し、引き続き寄席に出演していた。

 昭和に入ると、彼の持っている珍芸や阿呆陀羅経が珍しくなったのか、レコード会社から吹込み依頼が来たという。そのおかげで数枚残っている。

 1927年6月、わいせつ画の売り込みをした疑いで検挙されている。『読売新聞』(1927年6月15日号)に――

十数名使ひ性画を売込む 春風亭柳丸が 浅草区東三筋町六一春風亭柳丸事加藤忠治(五四)は大正二年六月から十数名の者を使用して花柳界に性画一万五千円を売込んだ事を本郷富士署で知り十四日一同検挙取調中

 1929年1月、ビクターから『お伽真似』を吹込み。三味線はたぬき家静奴という太神楽の芸人。

 1929年4月、ビクターから『けいけいづくし』を吹込み。三味線は静奴。

 このレコードは民謡研究家のKame.Y氏がアップして下さっている。芸風の一端を知ってもらえれば――と思う。

 1930年代初頭まで舞台に出ていたが、間もなく高齢もあって大森に隠居。それからしばらくして亡くなったと云う。

 1935年の雑誌『食道楽』の中に、

えゝ手前は柳丸と申す坊主頭の元気の好い噺家にて御ざい。話がおいやなら、アホダラ経及び一人芝居を以つて御機嫌を取り結びエヘゝゝゝさて手前は故圓喬の弟子で遊玉と申しそれより故華柳師匠が柳枝の全盛時代弟子になり柳丸、唯今睦会を休業して大森に住んでおります

 とあるのが確認できる。

 1938年5月14日、東宝小劇場で行われた「演芸蚤の市」に出演。阿呆陀羅経とひとり芝居を上演。『キネマ旬報』(7月1日号)に――

FとG(※Fは阿呆陀羅経、Gはひとり芝居)は春風亭柳丸によつて演じられる。阿呆陀羅経は誰でも知るとほり、木魚の小型みたいなものをたゝいて唄う世俗揶揄の戯れ言、また独り芝居の方は簡単なカツラを頭に乗せて幾役かのセリフを喋べる声色の滑稽化である。こゝでは「三千歳と直侍」入谷の寮の一幕であるが、海坊主式のあたまに乗せたカツラを目まぐるしく変へて二役の台詞を聞かせるといふ趣向だ

『演芸蚤の市』より

 と、批評が加えられている。

 1939年6月にも「寄席演芸の夕」に特別出演。これが最後の出演か。

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