柳家あやめ(百面相)

柳家あやめ(百面相)

柳家あやめ?
(ご遺族提供)

 人 物

 柳家やなぎや あやめ
 ・本 名 中野 松一
 ・生没年 1891年1月16日?~1961年5月5日
 ・出身地 東京?

 来 歴

 柳家あやめは戦前戦後活躍した百面相の芸人。あやめの名跡そのものは二代目に当たるという。色物席や余興で活躍をし、人気を集めた。戦前戦後長きにわたって活躍した大朝家美代子・豊子の実の父親でもある。

 生年は遺族からの提供で割り出した。また、「陸恤庶発第八九六号」(一九四二年十月二十二日)の中に「柳家あやめ(五二)」とある所から生年はこれであっているのではないか。

 経歴等は謎が多い。余りまわりには経歴を語らなかった模様か。

「柳家あやめ」というように元々は落語家で、落語を演じる事も出来た。

 1920年代には既に土手組(正規の寄席には出られない巡業や小興行専門の芸人)の花形として活躍していたらしい。『都新聞』(1921年1月12日号)に――

◇余興屋としての売ッ子の百面相の鶴枝の出店に鶴輔なんてのがあるがその外のドテ組であやめいろはなんて百面相屋があつて鶴枝の縄張りを可成り犯してゐるとか

 とある。震災直後も活動を続け、『仏教学』(1924年6月号)に――

 琴曲瑞穂の秋は、年幼き少女が弾く手の運びもあざやかに妙なる音律に聴衆を酔はせ、筑前琵琶大高源吾には澤村君代女史の熟練された調子に現代の腐れ切った民心に心強き刺激を与へ、柳家あやめの落語手品百面相には、常日頃渋い顔して笑顔一つ見せない黙々として居る某教授さへも破顔一笑どころの騒ぎではなく、顔面運動の急劇なのを見ても他は押して知るべし

 とある。

 1924年8月21日、中野豊子が誕生。この子は後に漫才師となり、「大朝家豊子」と名乗った。

 確実に「柳家あやめ」と名乗っている姿が確認できるのは、1926年。

『演劇研究20号』の「資料 演劇博物館所蔵立絵紙芝居について-資料の形態と上演の形態を中心に」に「大正十五年一月元旦/落語、手品、百面相諸芸、請負/東京深川区万年町(寒光寺内)/柳家あやめ、中野松一」とあるのが確認できる。

 ただ、この論文の著者は実にいい加減で「深川区」と書いてあるにもかかわらず、「あの下谷万年町」と勝手な解釈をしている。下谷万年町は今の東上野であるが、あやめの住んでいた深谷の万年町――寒光寺(現・慧然寺)は今の清澄白河のあたりである。見当違いも甚だしい。20年前の論文にケチをつけるのも何だが、色々困りものである。

 1927年8月18日、次女の中野美代が誕生。この子も漫才師となり、「大朝家美代子」と名乗った。妹娘の方が芸能界で活躍を続けた。

 その後は色物席や余興で活躍。古風ながらもわかりやすい百面相は余興や子供会の席でも人気があったという。

 また幼い娘を二人仕込んでコンビを組ませ、「美代子・登代子」の少女漫才として連れまわすようになった。あやめ自身も芸能斡旋業を経営していたそうで、自身と娘を上手く抱き合わせて商売上手に立ち回ったという。

 戦時中は帝都漫才協会の全藝部に所属していたという。主に慰問や余興で活躍し、戦時中の荒波を切り抜けた。

 1942年11月には、中村茲平率いる「中支方面演芸慰問団」に参加。数か月ほど中国戦線W廻っている。

 一方、戦時中・戦後はやったヒロポンやカストリ酒で苦労をしたそうで、娘たちは心配続きだったという。

 戦後は忠臣軍慰問や余興を中心に活躍し、古老として堅実な活躍を見せていた。晩年の様子が『アサヒ芸能新聞』(1954年7月4日号)に掲載されている。

★柳家あやめ(百面相)
人にしられぬ創意工夫と、これを舞台にいかす習練、しかも衣裳、小道具いっさい自分でつくりだして、お客にどうにかよろこんで笑ってもらうまでには、器用な人で五年はかかる高座芸術としてはふるい型になってしまった百面相。時代がかわって定席までが椅子席になるというあわただしい世の中漫談だかなんだかわけのわからぬ台本が、堂々と新作落語でございとオクメンもなく放送されている今日、すべてはスピードと安易なセツナ主義のなせるわざ。まさに時代の変遷を痛感する。無線放送全盛のいまは、落語(漫談調をふくめて)は完全にラジオ演芸の花形となっているが、百面相の春はテレビが普及するまではこない。 テレビが一般化するころまでには、現在の東京周辺の数えるほどしかいない百面相の人達は存世しないだろう。後継志願者もなし、日本の芸能界の大勢はあげてアメリカン・メカニズムの波にあらわれてゆく。 ジャズ・アンド・ジャズ。 こんなとき百面相のことなど書いていると悲しくなる。 プロモーターに人あらば、ただ利用するだけでなく、この亡びゆく日本の芸能保存に力をつくすことであろうに。
あやめもすでにトシ。それでも舞今は元気一ぱい、大声で気合いを入れつつの熱演。「芸人」を感じる。 桃太郎かちかち山など話 の登場人物をおもに、つぎつぎと十何種類かにフンソウして行く。 老人、子供むき。ちょっと「説明」 が多すぎる。つぎにはどんなふうに変るかと期待をもたせるのがイ キ。説明でネタを割り過ぎるのは損

 最晩年は孫にも恵まれ、家庭人としては相応に恵まれたようである。

 没年は遺族より見せて頂いた資料より割り出した。

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