桃月亭雛太郎(音曲)

桃月亭雛太郎(音曲)

 人 物

 桃月亭とうげつてい雛太郎ひなたろう
 ・本 名 矢代 米作
 ・生没年 1881年5月~1934年以降
 ・出身地 新潟県 南鯖石村

 来 歴

 桃月亭雛太郎は戦前活躍した落語家・音曲師。乃木大将率いる師団に所属し、日露戦争に従軍。二〇三高地の激戦で重傷を負い、まともに働けなくなってしまったために落語界に入り、一家を成したという珍しい人物であった。

 生年は『時事年鑑1930年度』より割り出した。

 実家は新潟の農家であったが、志あって上京し、西洋料理店でコックをしていた――という変わり種であった。経歴は『読売新聞』(1928年12月18日号)に詳しい。

 コックから商売変への音曲家
桃月亭雛太郎さんは越後柏崎在で生れたが、単身東京へ出当時の最も新しい商売の西洋料理屋となり、日露戦役には乃木大将幕下の第三軍に属して出征、有名な二百三高地総攻撃に敵弾を受けて左大腿部に名誉の負傷をして内地に送還されたが、傷は癒えても足が不自由な所からスッパリ商売替経して柳亭芝楽(現在の左楽)の門に入り芝雄と名乗って高座に上った、三年ばかりして左鶴と改め更に大正七年、今の桃月亭雛太郎を襲名したものの、明くれば干支の干支の巳年で今年四十歳、睦会に属してゐるお馴染の音曲師である

 ただ上の年齢はさばを読んでいるか、誤記になっている可能性が高い。

 成人後間もなく勃発した日露戦争に徴兵され、二〇三高地に配属された。乃木大将の司令の下、激戦に参加し、左足に大けがを負った。

 左足をダメにするまでの経緯は『傷痍軍人成功美談集』に詳しい。全文を載せるのは億劫なので、興味ある人は上のURLから読んでみてください。 

 概略を記すと――1904年11月30日、第四回の二〇三高地の突撃作戦に従事し、銃弾の雨を横切りながら敵陣に向かったが途中で左足を撃ち抜かれた。

 すぐさま味方に運び出され、一命をとりとめるものの、「左大腿部骨傷銃創」と診断された同年12月、広島へ送られ、12月24日に大手術によって何とか一命をとりとめる事に成功している。しかし、この大怪我と手術が元で左足を潰してしまい、引きずって歩くようになった。

 1905年4月、東京に移送され療養生活を送る。怪我の方は癒えたものの、足は動く事はなく、「廃兵」の認定を受けた。

 1906年5月9日、左足負傷による兵役免除を受けた雛太郎は新潟の実家に戻った。両親は息子の無事を喜んだというが、雛太郎自身は動かぬ左足と運命を嘆き、朝から酒浸りになったという。同著の中に――

 兵役に服するまで務めてゐた、西洋料理店のボーイとしての仕事はもう今の自分には働けない。父母の仕事をひきついで、百姓になることもこの体では駄目だ。どうしようとも、どうならうとの的もなく、一年ばかりの間朝から酒を求めた。

 と赤裸々な体験がつづられている。

 1年ほど、酒浸りの生活を送っていたが「これではよくない」と一念発起し、不自由な足を引きずりながら再び上京を果たした。

 昔から「声がいい」と褒められていた所から義太夫語りを勧められたというが「中年からの義太夫語りは出世しない」と思い断念。日露戦争の兵役時代、柳亭芝楽という落語家がいた事を思い出し、つてを頼って彼に入門する事となった。

 同著によると、入門以降は右のような経緯を送ったという。

 其の頃、高座でだいぶ人気をよんでゐた柳亭左楽――この人は日清日露の両役にも出征した人であったので、伝手を求めて弟子入をたのんだ。左楽も彼の身の上を聞くと、いたく同情し、一も二もなく承諾してくれた。
『何でもさうだが、ことさら芸事といふものは修業と忍耐が大事だから、そのつもりでみつちり勉強なさい』 
 と、左楽は励ますやうにいった。
 かくて明治四十一年六月十五日、芝雀といふ芸名を貰ひ、翌十六日から築地の青柳亭ではじめて前座として高座に上った。 
 好きこそ物の上手なれ――彼は一心に修業を重ねた甲斐あって、師匠も驚く程の上達をした。彼は音曲の方がとりわけ好きだったので、その方を専門に修行した。修行すればする程面白くなった。 
 一年後には芸名を芝雄(しばお)と改め、刻苦勉励をつづけること十年、彼は終に真打となり、名を桃月亭雛太郎と改めた。真打といへば座頭格である。

 新潟訛りが激しく、落語やクスグリそのものはあまり上手くなかったというが、朴訥で美声な音曲の味は独特の風格があり、観客から愛されたという。

 『食道楽』(1929年8月号)掲載の正岡容「当代いろもの細見」の中でその芸の様子が詳しく掲載されている。

 雛太郎は軍人あがりで跛である。「つんつらつん」だの「安芸の宮島」は、うたひ手のない丈け、この仁を待つよりない。――ただ、お座附代りに「追分」をきかす。巧拙の問題でなく、ああいふ絶海の哀愁歌を切々と諷はれると、寄席の気分でなくなっていけない。もっと、花やかで、おどけて、かなしい、嘆きのピエロこそ、すべての寄席のこいころもちである筈だ。

 1927年8月7日、JOAKに出演し、「音曲」を放送。

 1928年12月18日、JOAKに出演し、「音曲」を放送。

 1929年6月10日、JOAKに出演し、「音曲」を放送。

 1929年12月6日、『読売新聞』掲載の連載の中に、雛太郎の人となりが紹介されている。

西部戦線に異状なくとも、将卒には痛ましい多大の犠牲がある、思ひぞ起す日露の役に、曹長矢代米作は名誉の戦傷をし、生れもつかぬ跛になつた、平凡の順で行けば廃兵になって今頃は、軒並みにお断りを食ふ薬売にでもなつて居たであらう筈を戦友であつた、芝楽が同情し、柳連の仲間へ入れて高座人に仕立てた、この芝楽こそ今の左楽である、米作は芸名を芝鶴と名乗つて音曲師になつた、国の手形の地方訛はぬけ切れなかったが生来の美音は彼に幸ひし、明治四十二年六月の初高座以来、間もなく真打に昇進して左鶴となり更に今の名に改めて今日に至った、これは由緒ある芸名だが風流過ぎて宗匠の名のやうにも聞える、兎に角睦派幹部中の一人である

 1930年8月を境に定席へ出演しなくなる。

 1930年9月2日、JOAKに出演し、「音曲吹き寄せ」を放送。これが事実上の引退披露となった模様。

 1931年正月の「睦会会員」に名前が出ていないのでこの時には既にやめていた模様。

 廃業後は楽隠居として、東京市内の片隅でひっそりと暮らしたという。ただ、『傷痍軍人成功美談集』の作成には協力しており、1934年にはまだ健在だった模様。

 当時すでに引退していたのは周知のようで、「今や既に楽隠居の身、風月を友として安楽な余生を楽しんでゐる。」と記載がある。

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