三遊亭円福(百面相)

三遊亭円福(百面相)

ゴリラと河内山宗俊

 人 物

 三遊亭さんゆうてい円福えんぷく
 ・本 名 矢島 光造
 ・生没年 1889年7月12日~1961年12月1日
 ・出身地 東京?

 来 歴

 三遊亭円福は戦前戦後活躍した百面相の芸人。元々は落語家であったが、落語よりも雑芸の方がうまく色物一座を転々としたという。晩年は老前座として寄席に出勤する傍ら、興行社を経営して余生を送っていたという。漫才の條アキラは息子。

 生年と本名は「関東軍副官ヨリ陸軍省高級副官へ問合セノ件 陸満普第二二四號」(1934年2月16日)という書類より割り出した。鏡味小仙一座の座員として中国戦線に赴いた時の資料なのだが、その中に――

小仙出方 三遊亭圓福事 矢島光造  明治二二年七月一二日生

 とあるのが確認できる。

 経歴等はほとんどわからないが、橘ノ圓の弟子だろうか。ただ、三遊亭円遊や百面相の三遊亭福円遊の弟子という筋もある。

 元々は兵器工場の職工だったらしい。「関東軍副官ヨリ陸軍省高級副官へ問合セノ件 陸満普第二二四號」に、

 三遊亭圓福 一、在郷軍人会小石川中央分團賛助員       
 一、出方トハ使用人ノ呼称   
 二、明治三七年ー三九年 大正四年?ー一三年 陸軍兵器工廠職工トシテ勤務 
 一、明治三九年日露戦役中贈勤務金十二円也
 一、大正九年世界大戦役中勤務金四十円也
 一、大正十二年精勤章並ニ賞金

 これを見ると、職工→芸人稼業→一度廃業して兵隊職工→復帰というような二転三転とした生涯を送っている。どこまで本当かわからないが(あるいは芸人の傍らで副業として勤務していた可能性もある)、売れてない芸人であったのは事実であろう。

 落語家出身であるが、落語よりも雑芸の方がうまく色物芸人として活動するようになった。主に百面相を得意としたらしく、晩年までこれを得意とした。

 1934年2月には、鏡味小仙一座の出方として入座し、関東軍慰問に出掛けている。小仙を座長に亀造(後の十返舎亀造)、小松の四人が参加。

 1月ほど中国戦線を巡業し、お礼状が贈られたという。

 その後は落語協会系の寄席に細々と出演する傍ら、余興などで食っていた模様である。

『青年』(1941年4月号)という雑誌の中に「時局百面相」を掲載。東郷元帥、松岡洋右、ムッソリーニ、部隊長、国防婦人部長、上等兵、幕末志士を演じている。

 戦後は、寄席に出入りする傍ら、「トンボ芸能社」なる芸能社を経営していたらしい。主に色物を扱っていたらしく、青空うれし氏や新山ノリロー氏などから「條アキラは、トンボ……トンボ芸能社ってのがあって、そこの子だった」「親父は興行師で、百面相みたいな事をしていたはず」と聞いたことがある。

 1955年1月、『家の光』の「演芸娯楽ページ」に出演し、川中島、河内山、ゴリラを百面相で演じている。

 晩年は落語協会で老前座をやっていた――というのだが、カケブレなどには前座の枠としても登録されていないので微妙な所である。もしかしたら落語協会付きの書記というか、雑用みたいなポジションだったのかもしれない。

 最期は新宿末広亭の楽屋で脳溢血に倒れ死去。立川談志はなぜかその一部始終に詳しく、「談志楽屋噺」に以下の想い出を掲載している。

 えー、毎度、馬鹿馬鹿しい楽屋噺をアトランダムに申し上げます。
 円福さんという前座がいました。昔は年取った前座さんがいたもんだっていわれましたが、 その名残りみたいな人で、橘ノ円福というから、明治の音曲の女名人、浮世節の立花家橘之助と夫婦で京都の水害で亡くなった橘ノ円の弟子でしょう。 
 ですから、円太郎さんと兄弟弟子だと聞きました。
 円太郎さんは橘ノ百円といってた頃、百円の後へ金語楼が上がって、「ただいまは百円で、 あたしは金五両でございます」なんて洒落を言ってたそうだ。
 その円太郎さんの八王子の家に、朝之助がよく遊びにいったら、これまたよくその家に屑屋 が来てたという。この屑屋がなんとサトウハチローの息子、嘘じゃない。本物のサトウハチロ の息子が八王子で屑屋をやってた。別に屑屋をやったってワルくはない。
 私は円福さんが好きだったから、いまに会長になって楽をさせてやるって約束をしたんだが、ならないうちにこっちが協会をとび出しちゃった。もっとも、その前に円福さんは亡くなったんだが……脳溢血で新宿末広亭の楽屋で倒れたら、円生師匠が入って来て「まだ死なねェのか」と言った。なんて残酷なことを言う人だと思った。
 円生師匠はくだらない洒落も言うし、その洒落でまわりをやわらげようともするのだろうが、 円生師匠がそれを言うと全部逆にとられちゃう。もっとも逆にとられるもなにも、「まだ死なねェのか」なんて言やぁ、だあれも逆になんぞとってはくれない。
「まだ死なねェのか」は、おそらくあの師匠の照れだったのかもしれない。またはまったく自分の気持と違う言葉を吐いちゃったのかもしれナイ。 でも、でもネ、そんなことを言やぁ損に決まっているのに……。当人もワカってはいるのだろう。あとで当然反省もしたろうが……。
 楽屋に死人がいるということは、縁起でもないが、縁あってウチの楽屋で亡くなったんだから、弔いの面倒は私の方で持ちます、と新宿の大旦那、北村銀太郎さんはそう言った。

 橘左近などの調査によると「1961年12月1日」没。

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