植村兼雄(ハーモニカ)

植村兼雄(ハーモニカ)

 人 物

 植村うえむら兼雄かねお
 ・本 名 植村 兼雄
 ・生没年 1902年頃?~1965年
 ・出身地 東京

 来 歴

 植村兼雄は戦前活躍した色物芸人。ハーモニカ演奏を基盤に曲弾や二重奏など独特の奏法で人気を集めた。柳家金語楼に可愛がられたおかげで、初期の日本芸術協会の興行メンバーでその名前を確認することが出来る。

 経歴には謎が多いが、実家は葬儀屋であったという。近所には映画監督・五所平之助がおり、幼友達でよくいじめていたという。五所の自伝『わが青春』の中に――

 葬儀屋には友達の植村兼雄君がいた。彼は近所のガキ大将で荒っぽく、後年、寄席に出るハーモニカを演奏する芸人になってしまった。

 とある。因みに母親は五目の師匠だったらしく、近所でも評判の女傑。変な男が来ても気丈にタンカを切り、男顔負けの肝っ玉母さんだったと聞く。

 幼い頃から雑芸に囲まれて育ったこともあってか、当人もハーモニカを演奏するようになった。

 ただ、元々は芸人になる積りがあったかどうかあいまいな所で、普通に働きながらハーモニカの稽古をし、同好会「青鳥ハーモニカ会」を結成する事となったようである。

 しかし、その直後に関東大震災が襲い、東京は壊滅状態に陥った。この惨状を機に思う所でもあったのか、柳家三語楼・金語楼率いる「東京落語協会」に近づくようになり、芸人の仲間入りを果たした。

 1924年6月下席、白山下紅梅亭、神楽坂演芸場で初舞台を踏んでいる。当時の『都新聞』の広告に「特別出演 東京青鳥ハーモニカ研究会々長 植村兼雄」という大広告で掲載されている。

 以来、寄席の色物として落ち着くようになり「ハーモニカ演奏・植村兼雄」として一枚看板を上げた。柳家金語楼に可愛がられ、彼の身内という形で収まったという。

 金語楼が道楽でやっていた野球チーム「ダイナマイトチーム」でも一軍に取り上げられていたそうで、運動神経は意外によかったようである。『父・柳家金語楼』によると――

(遊)昔々亭桃太郎(捕)奥野イチロー(一)植村兼雄(投)柳家金語楼(三)リーガル万吉(二)リーガル千太(左)柳家三之助(中)七代目林家正蔵(右)柳家権太楼

 この後、三語楼・金語楼が協会を飛び出した際も同行。引き続き寄席に出演している。

 1927年9月11日、JOAKに出演し「ハーモニカ演奏」を放送。共演は影山翠。ハーモニカで「かっぽれ」や「天国と地獄」といったクラシックを奏で、最後は「春雨」を合奏する――という演奏色の強い物であったようである。

 1930年秋、柳家金語楼が三語楼門下を飛び出し、「日本芸術協会」を作った際、初期メンバーとして名を連ねる事となった。相変わらずハーモニカの演奏で堅実な人気を得ていた。

 1933年頃、長女の晴美が誕生。この子は新橋の検番に入り「久千代」という芸者になったのち、当時売れっ子であった歌舞伎役者・市川松蔦(七代目市川門之助)と結婚する事となる。

 1938年頃、次女が誕生。この子も新橋の検番に入り、「珠栄」という芸者業の傍ら古賀政男の下で歌手となる。後年、義兄の市川門之助は古賀政男と面識を得、仲良くなるのだが、この橋渡しをしたのがこの次女であったという。

 なぜかこの頃より高座を退き、寄席の舞台に殆ど出なくなってしまう。戦後は「無職」と書かれていた。可哀想である。

 1944年2月21日、長男の植村武雄誕生。この子は義兄の門之助に弟子入りし、「二代目市川たか志」という歌舞伎俳優となっている。

 1955年2月、晴美が市川門之助と結婚。門之助が雑誌で語ったところでは「周りから随分反対されたので、砂糖をオブラートに包んで『結婚しなきゃこれ飲んで自殺する』と狂言仕組んで迫ったら、相手の親父さんに『どうぞお飲みください』と言われて弱った」。

 娘の晴美と門之助はオシドリ夫婦として知られ、3人に子供に恵まれた。長女の八重は市川高麗蔵に嫁ぎ、次女は彩辰美の名前で宝塚歌劇団の女優、そして末の長男は市川門之助――と優れた芸能一家となった。

 1959年9月24日、男孫の相馬孝幸が誕生。これが今の市川門之助である。

 1961年1月、息子の武雄が「市川たか志」として初舞台を踏み、歌舞伎役者となった。

 その後は息子や孫の成長を楽しみにしていたが、1965年に静かに息を引き取ったという。

 1968年に出された『歌舞伎俳優名鑑』の市川たか志の項目に――

植村兼雄(昭和40没)

 とあるのが確認できる。

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