東京の寄席で活躍した色物芸人をまとめるページです。漫才以外の太神楽、奇術、雑芸を紹介します。
松旭斎一光(曲芸)
松旭斎一光は戦前戦後活躍した曲芸・足芸の名人。見世物・大道芸的な要素の強かった足芸を洗練された演芸へと昇華し、寄席や劇場、果ては海外の諸劇場でも通用する演目にまで仕立て上げた功績がある。奇術の名門「松旭斎」の屋号を名乗ったが本業は曲芸師であった。
桂金坊・銀坊(軽口)
桂金坊・銀坊は大正初頭に活躍した関西出身の軽口芸人。東京に軽口の芸を定着させた功労者の一組であるが、経歴は謎が多い。『忠臣蔵』『塩原太助』『綱五郎』などの関西流の軽口や愛嬌で人気を集め、数年間東京に滞在した。
耕田實
耕田實は戦前・戦後活躍した漫才師、腹話術師。元々は漫才師として町田武(後の二代目柳家三亀松)とコンビを組んでいたが戦時中に解散。戦後は腹話術師として活躍し、「司会もできる腹話術師」として人気を集めた。
〆の家〆太(女道楽)
〆の家〆太は関東大震災から戦前にかけて活躍した女道楽の芸人。「〆の家連」なる女道楽グループを率いて活躍。邦楽や浄瑠璃、ジャズまで加えた派手な音曲で一時代を築いた。元々は芸妓の出身で吉原〆治の弟子。
たぬきや金朝(太神楽)
たぬきや金朝は戦前戦後活躍した太神楽曲芸師。魚屋の主人から太神楽茶番の芸人に転身。大掛かりな茶番と滑稽な掛合で一時代を築いた。戦後は鏡味小仙の身内となり、「鏡味小金」を襲名。十二代目小仙の相方として最晩年まで活躍した。
喜楽家ヘナチョコ(四つ竹雑芸)
喜楽家ヘナチョコは関東大震災以前から昭和初頭にかけて浅草の色物席や安来節一座で活躍した芸人。四つ竹を叩いて、端唄小唄や流行歌を奏でながら、珍妙に踊るという珍芸を得意としたそうだが、経歴には兎に角謎が多い。
高砂家ちび助(珍芸)
高砂家ちび助は大正から戦後にかけて活躍した珍芸芸人。茶番師から出発し、落語家、珍芸芸人と転々とした。140センチという小柄な体と愛嬌のある風貌を生かし、「のろまの蝿取り」などの珍芸を得意とした。晩年は稀有な老芸人として再評価され、テレビや雑誌に出演を続けた。
柳家小長(太神楽)
柳家小長は戦前戦後活躍した太神楽曲芸師。柳家小志んの実の弟で、長らく兄とコンビを組んで活動していたが、戦後丸一小鉄にもらわれ、「丸一小長」と改名。小鉄の後見として活動を続けていたが、晩年に神経病を患い、夭折を遂げた。
三遊亭金橋(声色)
三遊亭金橋は戦前活躍した声色の芸人。名前の通り、三遊亭金馬の弟子であったが、落語よりも声色が巧かったために声色へ転向。六代目菊五郎の声色を得意とし、一時は「音羽屋一松」と名乗る程であった。ラジオブームに乗り、本名の松井眞一でオーディションを勝ち抜き、人気を集めたが夭折した。
春風亭柳丸(珍芸)
春風亭柳丸は戦前活躍した物真似芸人。一種の「雑芸」を得意とした器用な芸人だったそうで、柳派の色物として活躍。動物物真似や一人芝居、阿呆陀羅経など、珍芸雑芸を手あたり次第に見せる芸で人気があったという。
三代目柳家つばめ(音曲)
柳家つばめは戦前活躍した音曲師。訛りを克服して美声を生かした音曲を展開し、名跡の「柳家つばめ」を襲名した。落語家としても活躍したが、音曲の方が評価が高かったという。彼の弟子が寄席文字・橘流の橘右近、倅の一人が司会漫談で大活躍した宮尾たか志である。
筑紫家九官鳥(物真似)
筑紫家九官鳥は、戦前活躍した物真似芸人。九官鳥の名の通り、動物の物真似を得意とした。前歴には謎が多いが、僅かに残っている。元々は駅員であったらしいが、芸事が好きで上京し、一枚看板になったという変わり種である。
春風亭小柳三(珍芸)
春風亭小柳三は戦前戦後活躍した珍芸の芸人。声色や漫談、珍舞踊など落語よりも珍芸で人気を集めたが、戦前早くも中央を離れて名古屋へ移籍。名古屋を拠点とする芸人になった。戦後は「小柳演芸社」なる会社を設立し、名古屋興行界の顔役として活躍を果たした。
松井錦声(声帯模写)
松井錦声は戦後活躍した声帯模写の名人。長らく鏡屋を営みながら、声帯模写の腕を磨き、プロから認められたという珍しい経歴の持ち主であった。立川談志の寵愛を受け、談志の後援もあって、中年でメキメキと頭角を現したが、夭折した。
片岡鶴八(声色)
片岡鶴八は戦後活躍した声色の芸人。はんこ屋の主人から身を起こし、人気スターとなった変わり種。政治家から芸人、俳優まで様々な物真似をこなしたが、中でも昔ながらの声色を大切にし、歌舞伎俳優からの信頼も厚かった。今もマルチタレントとして活躍する片岡鶴太郎の師匠としても知られる。
三遊亭三橘(珍芸)
「三遊亭三橘(珍芸)- 色物のすべて(仮)」三遊亭三橘は戦前活躍した物真似芸人。元々は初代三遊亭円右門下の落語家であったが、落語よりも雑芸がうまく声色や珍芸の方に転向をしたという。芸よりも奇人・変人として知られた人物だったようだ。
橘家勝太郎(声色)
「橘家勝太郎(声色)- 色物のすべて(仮)」橘家勝太郎は戦前活躍した声色師。元は俳優という異色の人物であった。歌舞伎や俳優の声色を得意とし、華々しく売り出したが後年の事件で表舞台から消えてしまった。
吉岡貫一(声色)
「吉岡貫一(声色)- 色物のすべて(仮)」吉岡貫一は戦前戦後活躍した声色の名人。おでん屋をやりながら声色の芸人として名を挙げ、貴重な歌舞伎声色の継承者として一時代を飾った。三遊亭円歌門下だった三遊亭歌太郎は彼の息子。
鏡味小次郎(太神楽)
鏡味小次郎は戦後活躍した太神楽曲芸師。赤丸一宗家の鏡味小鉄の愛弟子で、事実上最後の赤丸一の系統を受け継ぐ太神楽曲芸師であった。父は落語家の七代目雷門助六、祖父は浪曲の浪花亭駒右衛門という芸人一家の三代目としても知られた。
奈美乃一郎(声帯模写)
奈美乃一郎は戦前戦後活躍した声帯模写の芸人。元々は活動弁士であったが、弁士衰退に伴い声帯模写と漫談に転向。単純な物真似に留まらず、ドラマチックな構成を持つ声帯模写を完成させた。戦後はラジオや映画で高い人気を誇ったが50歳目前で夭折した。
石村松雨(バイオリン)
石村松雨は明治から大正にかけて活躍した芸人。寄席にはじめてバイオリン演奏を持ち込んだ奇抜な芸人と伝えられる。セガレの松翠にアコーディオンを仕込み、親子でこれを合奏するという洋楽的な要素溢れる芸で人気を集め、20年近く第一線を走った。
三遊亭福円遊(百面相)
三遊亭福円遊は戦前活躍した百面相の芸人である。初代三遊亭円遊門下からスタートし、賑やかな話しぶりに加え、音曲噺、百面相、声色、ステテコなどをこなす器用な芸人であったが、遂に売り損ねたらしく中看板で終ってしまった。
海老一菊蔵(太神楽)
海老一菊蔵は戦後活躍した太神楽曲芸師。三代目三遊亭円遊の息子でもある。海老一の正統的な継承者として活躍し、難曲「花籠鞠」を一月足らずで覚えたという達者さで売り出したが、師匠の夭折や諸事情で芸人を廃業。海老一宗家を受け継ぐことなくここに絶えた。
松井源女(曲独楽)
松井源女は戦前活躍した女流曲独楽師。西洋奇術の鼻祖的存在であるアサヒマンマロの娘であったというが、松井源水に師事をして独楽を修得。女曲独楽の一人として寄席で稼いだ。二代目柳家小せんに嫁ぎ、夫婦仲よく稼いでいたが夭折した。
桂一奴(百面相)
桂一奴は戦前活躍した百面相の芸人。古今亭今輔、桂小南、春風亭小柳枝門下を転々としながら、百面相を独学し、「人物模写」「名士百面相」の肩書で売出した人物である。その肩書通り、政治家やタレントといった人物の癖や風貌を真似るのを得意とした。
春風やなぎ(音曲)
春風やなぎは戦前活躍した音曲師。「春風亭やなぎ」と記す場合もある。元々欧米航路の船員であったが、天性の美声を見込まれ音曲師になったという変わり種であった。明瞭な音曲は数多くのレコードに吹き込まれ、一躍レコードスターとして活躍をした。
華玉川(中国奇術・雑芸)
華玉川は戦前活躍した中国系の奇術師・雑芸家。中国商人から俳優、寄席芸人となり、さらに幇間「桜川華玉川」という外国人タレントで売った人物。達者な日本語と愛嬌で吉原の名物男であったが、東京大空襲の夜に焼死を遂げた。
植村兼雄(ハーモニカ)
「植村兼雄(ハーモニカ)- 色物のすべて(仮)」植村兼雄は戦前活躍した色物芸人。ハーモニカ演奏を基盤に曲弾や二重奏など独特の奏法で人気を集めた。柳家金語楼に可愛がられたおかげで、初期の日本芸術協会の興行メンバーでその名前を確認することが出来る。
二代目三升紋弥(曲独楽)
二代目三升紋弥は戦前活躍した曲独楽の名人。関西の三升家紋右衛門の弟子で、師匠の前名「紋弥」を襲名。昭和以降は東京の落語家団体に入って貴重な曲独楽芸人として活躍を続けた。昭和・平成と活躍した三代目三増紋也の父親でもある。
柳家あやめ(百面相)
柳家あやめは戦前戦後活躍した百面相の芸人。あやめの名跡そのものは二代目に当たるという。色物席や余興で活躍をし、人気を集めた。戦前戦後長きにわたって活躍した大朝家美代子・豊子の実の父親でもある。