地天斎貞一(奇術)

地天斎貞一(奇術)

 人 物

 地天斎ちてんさい 貞一ていいち
 ・本 名 宮田 定吉
 ・生没年 1852年12月5日~1927年以前?
 ・出身地 ??

 来 歴

 地天斎貞一は戦前活躍した奇術師。「シルクハット」を独自に改良した「瞞着帽子」という芸で売り出し、西洋奇術黎明期に名を残し、寄席の奇術という領域を確立した功績を残している。帰天斎正一とは別人である。

 生年と本名は『芸人名簿』より割り出した。

 前歴には謎が多いが、『川柳きやり』(1931年9月号)に掲載された石谷まさる『寄席の手品』にそれらしいことが出ている。

□一時三遊派の真打に地天斎貞一と云ふ手品師が居た、元は高まちの芸人であったが、浅草並木に在った大金亭の主人家根屋の弥吉が三遊派に加入させたのであった、外の手品はあまり感心しなかった帽子の中から種々の品物を取出す芸、当人これを瞞着帽子と名乗って売りものとしただけにこれはたしかにうまかった前身は玉柳と名乗り三段目まで取った力士とやら、六尺豊かの大きな身体を何時も和服の着流しで「此帽子を如何扱ひませうや、づう体に任せのそり/\と運転に取りかかります」と云ひながら下座の鳴り物に合はせて身振り可笑しく帽子を取扱ひ、最後に「凡そ形のありますものなら馬に二だんが三だんでも」は何時もかはらぬ珍文句であった。

 相撲取りだったという話は、プロだったとも、田舎の地方相撲だったとも、素人だったともいうが、当時の寄席芸人には珍しい、人並外れた恰幅を持っていたのは事実のようである。

 相撲取りを諦め、タカモノ(サーカスや大道芸などの曲技・曲芸)をやっていたというが、思う所あって奇術師に転身。田舎回りの手品師をやっていた。

 1881年2月14日、息子の光三が誕生。後年、「地天斎貞遊」の名前で高座にあがり、天才少年奇術師として売ったという。この貞遊は後に松旭斎小天一と改名し、さらに春風亭柳光と名乗って奇術を演じていた。

 その後、三遊派に所属し、西洋奇術師として高座に現れるようになった。ただ、デビュー当初は珍奇な西洋奇術や西洋通のようなしぐさが反発の種だったうえに、すぐに三遊派を離れた関係から『都新聞』(1902年2月19日号)掲載の「寄席の楽屋(丗九)」の中で――

▲地天斎貞一 元ハ田舎廻りの手品師であったそうですが、其の後三遊派に属して西洋奇術を演って府下の寄席を廻って居たのです然るに三遊派が衰微して同人も少し売れの宜くない処から更に柳派に飛込んで相変らず奇術で高座を勤めて居ますが、奇術と云ひましても別に新規なものを出して人目を驚かす程の奇芸ハ見せて呉れない様ですね、今の処でハ落語の間に挟って色取り位になって居る故世間の評判も夫れ程でハありません、それでも本人ハ大天狗で居るとか云ふ楽屋内の評判です、又西洋奇術のみ賞めたり自慢したりして在来の日本手品を貶して居るので外の芸人とハ何分折合が良くないと云って居る者もあります、手前贔屓ハ誰も為たがるもの故マア仕方ありません、此の男元ハ素人角力の小結まで取ったと云ふ力自慢の男だけに仲間などに気に喰ハぬ者があると二言目にハ腕力に訴へ拳固を振り廻はすので昨今ハ仲間の者も相手にならないとか云ふ事です、兎も角も一ト工夫をして新規な奇芸を演ッたら、落語の間の色取りなどに為れて居る芸でハあるまいと思はれます

 と痛烈な批判を浴びせられている。

 それでも1900年代には既に一枚看板だったらしく、1904年の『東京明覧』には既に一枚看板として紹介されている。

 また、1907年刊行の『芸壇三百人評』の中に――

 二百二十六 地天斎貞一 大きなづう体にまかせてノソリ/\と扱いにくひ手品師、一ツ言を繰り返す愚にもつかぬ長口上、例の瞞着帽子をひねくって二王の見得などは珍妙

 と僅かであるが触れられている。

 1910年7月10日、前田侯爵家の「懐徳館」を訪ねていた時の天皇夫人・昭憲皇太后の天覧の名誉を得ている。

『懐徳館の由来』の中に――

午後十一時二十分奥小座敷蔵品御覧所に出御、蔵品を御覧の上、日本館階上手品御覧所へ御成り、地天斎貞一(他七名)の手品、「御儀式萬歳帽子」、「生花」、「洋皿の曲芸」、「西洋料理」、「糸製造」の五曲を御覧遊ばされた。

 という記載を確認することが出来る。

 1910年8月、東京大雨の大洪水で被災。家が床下浸水に見舞われている。この時近所に住んでいた蝶花楼馬楽が「お前さんは奇術師だから水くらい隠せるだろう」と真顔で言われ、「それはできない」というと、馬楽に「奇術師は物を隠すのが仕事なのにそれができないとは見損なった」と嫌味を言われた――と馬楽が既に精神を病み始めていたエピソードがあったという(大水の出た後に『穴を掘って水を吸わせてやる』と言ったのもこの時の逸話)。

 さらに、同年10月24日には、清国皇帝・溥儀の伯父である載洵(溥儀の父・愛新覚羅載灃の弟)の天覧にも恵まれている。『グラヒック』(1910年11月号)の中に「御入京第一日夜を以て斎藤海相主催となり、築地水交社に歓迎夜会を催される、余興には地天斎天一の奇術を御目にかけ……」とある。「天一」は「貞一」の間違いだろうか。

 何はともあれ、当時を代表する奇術師だった事は紛れもない事実であろう。

 不思議な芸を演じた所から当時勃興し始めていた心理学の方面からも評価され、福来友吉『心理学講義』の中で――

 手品師は人の精神を操縦する一種の術に長じて居る。私は甞て寄席に行った時、地天貞一と云ふ手品師から手品の種明しを聞いたとがある。 北の言所は即ち一種の精神操縦術で中々面白く感じた。其時貞一の種を明した手品は、一枚の手巾を持つて出てれを手掌の中へ揉み込んで、それを各国の国旗に変化させると云ふ術なのである。併しそれを揉み込むには、一寸無造作に揉み込むのではない。面白い囃子に調子を合せて大変に勿体を付けて、三十分程の時間を要して揉み込むのである。而して此の揉み込む間が即ち御客の精神を操縦する爲めに苦心惨憺しつゝある時なのである。と云ふのは、多数の御客の中には、一つ手品師の種を看破し てやらうと云ふ様な野心を抱いて居る性の悪い人があるに相違ない。

 と、実例を挙げて紹介されている。

 一方、奇術研究家の阿部徳蔵は貞一の芸を「技術そのものよりも人柄で魅せていた」という旨を『奇術随筆』の中で紹介している。

 丁度その頃のことである。市内の寄席で大いにならした奇術師に地天斎貞一といふ者があった。彼のもっとも得意としたのは「瞞着帽子」といふ奇術で黒のソフトハットから様々の物を取り出し、最後に鳩を現し飛ばせるとい奇術だった。
 彼なか/\この奇術が手に入ったもので、単なる奇術の外に三味線に合せて実に愉快な身振りをして客を喜ばせてゐた。私は興味と感服の両方からよく見に行き行きした。
 その頃から見れば、実に現代の奇術は進歩したものである。が、見て、どっちが面白いかといふことになると、どうも理屈なしに「瞞着帽子」に手をあげたい。つまり、奇術そのものの興味といふよりは、彼の身振りが面白いのである。貞一といふ人、その人が面白かったのである。

 その後も長老として舞台に出ており、1915年の『芸人名簿』にも記録がある。

 しかし、関東大震災前後に消息が辿れなくなり、没したという。

 1927年3月、弟子のビリケンが「二代目貞一」を襲名した――と『都新聞』にある所を見ると、そこそこの年齢まで健在だった模様か。

無断コピー・無断転載はおやめください。資料使用や転載する場合はご一報ください。

タイトルとURLをコピーしました