東富士郎(バイオリン演歌)

東富士郎(バイオリン演歌)

 人 物

 あずま富士郎ふじろう
 ・本 名 中森 辰蔵
 ・生没年 1904年4月5日~??
 ・出身地 東京 入谷

 来 歴

 東富士郎は戦前戦後活躍したバイオリン演歌・バイオリン漫談家。元々は書生節を演じるバイオリン演歌師であったが、演歌の衰退で廃業。東富士子・桂小文治の身内になり、寄席に出入りするようになった。奇人変人として知られた。

 1955年6月に刊行された『日本歴史』(85号)掲載の「演歌師ききがき」に詳しい経歴が出ている。

東富士郎氏略歴
本名 中森辰蔵。
芸名 東富士郎
現住所 北多摩郡砂川村八六一
明治三十七年四月五日、東京市下谷区入谷町に生る。神田、錦城中学中退。十九歳で後藤紫雲につき演歌師となる。専検受験のため、昼は駿台高等豫備校に通い、夜は演歌に従う。 関東震災を期として一本立ちとなる。専検は失敗。正則英語学校に入学。大正十五年、演歌次第に凋落し、仲間は大半カフェー専門の流しに転向。同人は浅草公園劇場に、同所がマキノ映画封切場となった時、通学のかたわら弁士の見習いに入った見習中の手当十五円。一年たらずで、本所八千代館に一人前として勤務。以来昭和十年迄、活辯として市内の映画館を転々とした。最後は四谷荒木町の四谷映画劇場。楽手も、お囃子も、他の辯士もいなくなり、まったくの一人で、無声映画、パート・トーキーが日本に本もなくなるまで、伴奏レコードを自分でかけながら勤めた。そのころ市ヶ谷に住んでいたが、近所に住む往年の浅草江川大盛館の玉乗り・綱渡りの師匠、東富士子の弟子となり、東富士郎の芸名をもらう。四谷の夜店の古道具屋で、ヴァイオリンを四円五〇銭で買い、演歌を高座にかけた。昭和十三年、新宿末広亭にて、手見世(試験)にパスし、桂小文治師の内輪となり今日に至る。

 長らくバイオリン演歌を演じていた事もあって、色々な演歌や歌詞を知っていた。小沢昭一はこの人の芸に敬意を示していたらしく――

小沢 東京の寄席に、東富士郎って演歌師が出てましたね。私はこの人の高座から明治大正の演歌をずいぶん知ったんですが、おもしろいって芸じゃなかったけど、一種風格のある芸で世を捨ててるような感じが好きでした。

 演歌師→弁士→寄席芸人とはすごい変遷である。

 師匠筋の東富士子とは「針金を渡らせたら日本一」と謳われた人物で、元の名前を「江川小金」という。この人は一時期江川マストンと夫婦で、二代目江川マストンはこの人の息子である(ただ二代目誕生後間もなく小金とマストンは離婚している)。

 富士郎が出入りしていたころには曲芸をほとんどやってなかったというが、何故か顔が利いたそうで「東」の屋号を貰っている。

 また「東」の屋号をもってバイオリンを得意としたところから、漫才師の東喜代駒にも可愛がられ、仕事や共演を斡旋してもらった――と聞く。

 ただ、名人や人気者というよりも奇人として鳴らしたそうで、小沢昭一の『放浪芸雑録』における桜井敏雄との対談の中で「東富士郎は子供を殺した」という旨が記されている。

 一方、『小沢昭一百景隨筆隨談選集』の中では「東富士郎さんと江戸川を散歩した際、彼は急に元気をなくし哀しそうな表情を浮かべた。後で知り合いに聞くと『東さんは江戸川で子供を失くしている』と聞かされて驚いた」という事が記されている。

 いずれにせよ、破天荒を売りにしているキライがあり、それがまた慕われる要因でもあったという。

 戦後は放送や余興の舞台のほか、協会・芸術協会の色物として出演していた。演芸番組にたびたび呼ばれるなど人気はあった。

 1948年8月27日、花柳喜章と大矢市次郎の主演で放送された宇野信夫『下町』に演歌師として登場。

 1950年代初頭に体調を崩し、闘病生活を送ったという。上の『日本歴史』にも「富士郎氏は目下立川市の病院で闘病中」というような記載がある。

 1955年12月、早稲田大学図書館の依頼で、「バイオリン演歌の記録」を証言する。『早稲田大学図書館紀要30号』に掲載された吉井篤雄 『歴代事務長が語る戦後図書館の歩み 思い出すままに』の中に――

三十年の暮頃、館員の田口親君から、昔の一流艶歌師でまだ生き残っている者があるが彼等に集ってもらって、往時有名な艶歌を歌ってもらいそれを録音して置いたら後年貴重な資料になるが、との申出があり、それは まことに結構なことだから早速頼むと言った。今の若い諸君には往時の艶歌とは大分縁遠くなったので、簡単に記述すると、明治二十年頃壮士達が歌ったオッペケペ等が起源とのことだ。それが第一次大戦前後の大正時代に隆盛を極め、夜な夜な夜店で賑った盛場の一角でバイオリンをひきながら、熱海の海岸散歩する……などと歌い、ガリ版づりの歌詩の本を周囲を取り巻く若い男女に売って歩いたものだ。
 十二月の或る寒い日の夜の七時頃、新装なった録音編集室に集ってもらったが皆齢七十近く、古色蒼然たるバイオリンを携えて、永らく生活の荒浪にさらされ哀れな風采の上らぬ者、アル中で手が震えて一杯やらないとバイオリンが弾けぬ者等々三四十年の昔日を想うと、人生の哀歓が身に滲みて考えさせられる。集ってくれた面々は、神長瞭月(金色夜叉の作詩作曲家)、 東富士郎、宮島郁峯、田浦虎一等当時一流の艶歌師として鳴らしたものだ。録音約二時間、今も視聴覚資料室に保存されてある。

 その後はどうも中風に倒れたらしく、バイオリンを弾けぬ身体になってしまったという。

 1967年に刊行された林家彦六の『林家正蔵随談』の中に「このひとが中風になりましてね、家のなかでも杖をつかなくては歩けない。最近に老人クラブへ入ったならば、そこの人達とは話が合わない。」と近況と手紙が触れられている。

 落語家の立川談志は最期まで文通をしていたそうで、『寄席放浪記』の色川武大との対談の中で――

立川 東富士郎なんか覚えてますか。
色川 うん。
立川 私は最後まで文通してたんです。
色川 あの人も亡くなっちゃったかね。
立川 亡くなりましたね。聞いたら、富士夫さんときょうだい弟子なんです。東富士子という曲芸師の自分は弟子だって言ってた。

 と語っている。談志自体はこの富士郎さんが好きだったそうで「パイノパイノパイなどをよく唄っていて、いい人だった」と自著の中で回顧している。

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