橘家勝太郎(声色)

橘家勝太郎(声色)

 人 物

 橘家たちばなや 勝太郎かつたろう
 ・本 名 竹中 勝太郎(菊田勝太郎?)

 ・生没年 1904年頃~?
 ・出身地 東京

 来 歴

 橘家勝太郎は戦前活躍した声色師。元は俳優という異色の人物であった。歌舞伎や俳優の声色を得意とし、華々しく売り出したが後年の事件で表舞台から消えてしまった。

 元々は新派俳優という変わり種であった。俳優の傍ら、声色を覚え、その声色が役者以上に受けるようになったため、声色の芸人になったという経緯の持ち主。

『映画と演芸』(1932年8月号)の『吹けよ川風あがれよ簾 ラヂオの人気もの』の中に一応の経歴が記されている。

 役者から声色師へ 橘家勝太郎
 誰に聞いても皆目家が判らないので、いゝ加減見當をつけて、菊田勝太郎と表札の出てゐる新築の小粋な家へ飛び込んだ。狙ひ違はず尋ねる御本人がニコ/\と出迎へて呉れたのでまづ一安心。
 もう相當の御年配と思つてゐたが、どうして若い美男子である。「今日はお暑いですネ」とお仰つたが、御當人は至極涼しそうな顔で、時々奥さんと顔を見合せてはニコついてゐる。日中を歩かされて相當暑いところへ、これではいよ/\汗だくである。
 お座敷に面した四五十坪の庭は木一本、塵葉一つもない。隅の方にトマトが五六本植てあるばかり。
 大正十二年頃魚河岸連中の声色の研究会に入ったのが病みつきで今ぢや本職だつた新派の俳優もこの一月の東劇出演を最後に、あっさり足を洗つて、声色の方が本業の形になつてしまつた、がそれでもまだ舞台の方に相當に未練があるとお仰しやる。そして声色のコツといふやうなものを一席弁じて、故松助が地獄で流行唄を唄ふところを吹込んだ時、技術員から取りまき連が爆笑してしまつたので、レコードをワヤにしてしまつた話などをして呉れた。

  声色師としてのデビューは1929年頃。

 1929年4月、コロムビアから『冥土へ行った松助の話』を吹込み。これが「爆笑されてワヤになったレコード」の事だと思われる。

 また同月、ニッチクから『高速度声色レビュー』も吹き込んでいる。

 1929年6月、立花家新次郎という芸人とコンビを組み、オリエントから『声色レビュー黒手組助六・名優似声十五段返し』を吹込み。

 これが評判となり、ラジオからもスカウトをされる。

 1929年10月19日、新次郎と共にJOAKに出演。「高速度声色レビュー」と称して、吉右衛門の『楼門』、羽左衛門の『清水一角』、左團次の『修禅寺物語』、源之助の『三人吉三』、中車と鴈治郎の『鈴ヶ森』、羽左衛門の『助六』、宗十郎と松助の『切られ与三』など使い分けた。レコードはこれをダイジェストにした模様か。

 以来、ラジオやレコード界隈で人気を集めるようになり、役者よりも声色師として売れるようになってしまったというのだからおかしい。

 1930年5月、ヒコーキから『幕見気分』を吹込み。

 1930年7月、オリエントから『歌舞伎名優珍芸大会』を吹込み。

 1930年12月、ヒコーキから『超特急ヒコーキ旅行』を吹込み。

 1931年2月、ヒコーキから『滑稽声色・名優野球行進曲』を吹込み。

 1931年5月、日東から『浜松屋・白波五人男』を吹込み。

 1931年6月、ビクターから『娑婆と極楽掛合放送・金色夜叉』を吹込み。

 1931年10月、ビクターから『カフェーの夜』を吹込み。

 1932年、この頃俳優を廃業し声色一本に転向。落語家仲間や関係者の手引きで寄席に出るようになる。日本芸術協会に所属し、同会の興行に参加するようになる。

 1932年5月30日、JOAKに出演し、「声色吹寄せ」を放送。

 1933年2月、リーガルから『金色夜叉・島衛月白浪』を吹込み。

 1933年4月11日、JOAKに出演し、「声色吹寄せ」を放送。「オール歌舞伎軍と冥途軍の野球戦」なる珍芸を披露した。

 1933年12月28日、JOAKに出演し、「声色吹寄せ」を放送。羽左衛門、歌右衛門、仁左衛門、我童や沢正の真似をした。

 1935年12月、タイヘイから『源氏店・紙治・更屋敷・勘平切腹・鈴ヶ森・籠釣瓶』を吹込み。

 しかしこの頃から寄席不況などに伴う仕事の減少、また古川ロッパ式の「声帯模写」がうけて従来の声色が受けなくなった事もあり、焦りを持つようになった。

 寄席にも声帯模写や漫談が大きくのさばるようになり、勝太郎の出番も少なくなってしまった。ラジオやレコードにも呼ばれなくなってしまった。

 さらに、売れっ子時代から覚えた道楽の癖が抜けきれず、借財や不義理を溜める一方であった。この状態を打破すべく、勝太郎は行動を起こしたがうまくいかず、最終的には懇意の役者や芸者の前に現れて「今度レコードを吹込むからその前借を頼む」と、嘘の話を持ち掛けて金を巻き上げるようになってしまった。

 そうした詐欺が当然長く続く筈も無くあえなく御用となった。『読売新聞』(1936年8月8日号)に、「悪に墜ちた声色師」というタイトルで勝太郎の罪状が載せられている。

 レコードに吹き込んだりラヂオ放送したこともある声色師の橘家勝太郎こと竹中勝太郎(三二)が七日午後四時ごろ冨坂署に詐欺で検挙、取調べられてゐる、勝太郎は幼い時から声色がうまく廿五歳のとき魚河岸の哥兄から寄席の声色師に転向、去る昭和九年某レコード会社に見出され「勝太郎声色集」を吹き込んだのが出世の始まりで、AKその他放送に出演したりして華栄な生活を送るやうになつたが、収入がこれに伴はず、勝手元が苦しくなつて遂に悪心を起し「こんどは君の声色を吹きこんでやる」と偽り下谷、浅草の芸者をはじめ俳優大谷友右衛門、梅島昇、守田勘彌、森律子から運動資金として千五百餘圓を詐取したと自供した。

 この一件で勝太郎は実刑判決を受けたらしい。この不行跡を理由に芸術協会から追放され、復帰する事はできなくなってしまった。

 その後の消息は不明である。

無断コピー・無断転載はおやめください。資料使用や転載する場合はご一報ください。

タイトルとURLをコピーしました