山田天心(琵琶・柴笛)

山田天心(琵琶・柴笛)

 人 物

 山田やまだ天心てんしん
 ・本 名 山田 為秀
 ・生没年 1884年3月19日~1923年9月1日
 ・出身地 福岡県

 来 歴

 山田天心は大正期に活躍した寄席芸人。元々は琵琶の師範であったが、「大衆的な琵琶」を志して寄席入りし、柴笛と講談、浄瑠璃の味わいを入れた独自の音曲を展開し、人気を集めたが、1923年9月の関東大震災に巻き込まれ、悲劇的な最期を遂げた。

 経歴は死ぬ前年に出された『現代琵琶名人録』のプロフィールに詳しい。

玄海琵琶宗家 天心山田為秀君 
君は福岡県士族山田為近氏の長男であって四弟を有し明治十七年三月十九日を以て福岡県筑紫郡住吉町大字春吉五番丁に生れ父君は現に福岡市外水茶屋三等郵便局長の職に在つて第三弟共に分家し君は大正五年単身上京現住所に籍を置き令閏天舟女史と老義父君と平静な生活を送りつつある、是れより先君は明治三十二年福岡県立工業学校を病弱のため二年で退き同年十月福岡県鉱山監督署製図係に就職したが三十五年これを辞し同年七月放貝島太助翁の鉱業合名会社に聘せられ三十七年辞去し十二月目されて第十二師団工兵隊に入営し三十八年東京電信教導隊大体の分遣通信建築術修業三十九年四月戦役の功に依り従軍微章及び一時金を賜はり十一月善行証書付与休退営し超えて大正七年九月西比利亜に出生八年九月除隊帰京十二月勲八等瑞宝章及び一時金を下賜され今では地形製図を生業としてゐる

 なお、落語関係の書籍では「山田友秀」となっているが、本当は「為秀」が正しい模様である。最晩年の住所とこの名鑑の住所も一致しており、親父の名前が「為近」(昔は親の一字を嫡男に付けたりする)である事を考えると、後者が正しいのではないか。

 当時としては珍しい士族の家柄で、士族の嗜みであった(また九州で盛んであった)琵琶に出会ったのがそもそものきっかけであるようである。

 ただ、琵琶の方は中年になるまで、趣味・余技だったと見えて相応の腕前を持ちながらも演奏者一本で食っていく事はあまりなかったという。

 明治末には日露戦争に出生し、大正に入ってからはロシア革命に対して行われたシベリア出兵にまで参加している。

 一兵卒にしては相当な勲章も獲得しており、この軍功は周りから尊敬されるものであったという。

 軍人・製図家の傍らで琵琶を覚え、最終的に琵琶奏者・寄席芸人になったという変わり種であった。琵琶の遍歴を『現代琵琶名人録』は以下のように記している。

これより絃歴に移らう、三十一年福岡市に赴き第一世故橘旭翁師上京後なるが故に同師長女友子女史(旭桜)につき三曲を修し女子又上京したるを以て鶴崎賢定(霞外)師に師事して鶴崎流を修得し霞園の雅号を受け――作歌者今村外園氏の雅号に因み――たが同四十年一派創始の念難止恩師霞外翁の快言を得鶴山流を創造し始め広島市に教授所を開き次いで松山市山口町に及び紫絃と称した、四十二年鶴山流に薩摩の蝉吟調を取り入れ那須与市の武勲に因んでこれを玄海琵琶と改め大阪土佐堀青年会館に於てこれが披露会を開催し同年東上各所に出演して好評を博したが門人は一切養成せずしてただ杉山清峰師にのみ秘奥を譲ったのであったが、明治大帝の崩御に遭ふや郷里に隠退し郵便事務に携さはること三ヶ年、たまたま子爵金子堅太郎氏の令弟であって斯界の功労者である金子辰三君の再起を促す所となり遂に意を決して戸畑の翁邸に食客たること約半歳、此の間翁夫人旭濤女子につき女子一流の妙技を修得し茲に鎭西流筑前琵琶の創作に手を染めたが止み大正七年一月こゝに天心と改号したのである、愛曲は那須与市、扇の間と出会って今や柴笛入琵琶講談の創造に腐心してゐる、余技としては柴笛音曲に堪能で趣味として小鳥の鳴声及びその飼養を挙ぐべく、要するに頗る創造力に富んだ名弾奏手として推奨すべきである

 元々は優美な筑前琵琶を得意とし、「扇の的」「源平盛衰記」などといった耽美な語り物を読んでいたというが、薩摩琵琶の荘厳で力強い奏法や演目、更には明治に至って創作された新作の「常陸丸」「広瀬中佐」などと言った新作を勉強。独自の地位を築き上げた。

 後に「玄海琵琶」と称した一派を開き、其処の宗家としておさまった。

 1909年8月には、『筑前琵琶弾譜並ニ玄海琵琶吟譜』なる書籍を発表している。

 同年、琵琶奏者だった杉山清峰が弟子入りし、玄海琵琶の秘術を授けている。この杉山は映画に出演して琵琶を演奏したり、前衛的な作風で知られたが遂に大成はしなかった。

 明治天皇崩御後、一時期琵琶をやめていたが間もなく復帰し、上京。「玄海琵琶宗家」として売り出しをかけたが、当初は失敗したらしい。

 1916年に出された『現代琵琶名家録』では――

山田紫弦(福岡の人)薩摩の豪壮なる調子と筑前の艶麗なる調子とを研究して、玄海琵琶と称す。一種の琵琶として世に知らる。最近更に鎭西琵琶と改称して講談の調子を挿み、帝都に試演をなせるも不成功に終りしと。

 とボロカスに書かれている。

 1917年にシベリア出兵し、翌年帰京。この出兵中に何か志すモノがあったのか「琵琶は大衆的でなければならない」といわんばかりに寄席の中へ入り、寄席芸人として出演するようになった。

 柳亭左楽の斡旋で睦会に所属し、1919年頃より「柴笛・山田天心」として高座に現れるようになった。

 当時は未だ琵琶や軍談の勢いがあり、達者な芸風だった事もあって睦会の色物の地位を築いた。

 1923年8月下席は、恵宝亭、若宮亭を掛け持ち、達者な芸を見せていた。

 1923年9月1日より始まる上席も、白梅亭、紅梅亭の番組が決まっており、出演予定であった。

 初日の1日正午直前に関東大震災が発生。天心はこれに巻き込まれ、本所の被服廠へ避難したが、ここで火災に巻き込まれて惨死した模様。

 最終的には遺体も上らなかったそうで、長らく消息不明扱いにされていたという。『都新聞』(9月24日号)に――

天心も行方不明 柳橋は被服廠で焼死した事は既報したが女房は大火傷を負ったが辛くも助かったので睦会では百八十円春風会から百五十円の弔慰金をおくつた麻布笄町一三三山田天心事山田友秀は本所に行った儘今だに行方不明、多分惨死したものであらう天心は柴笛を高座でやつてゐた藝人である

 とあるのが確認できる。本所ではなく麻布の本宅へ戻ったならば、まだ助かったかもしれないがそれが運命というものなのだろうか。

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