趙相元(奇術)

趙相元(奇術)

 人 物

 ・本 名 趙 相元
 ・生没年 1890年代?~1939年12月
 ・出身地 中国 山東省

 来 歴

 趙相元は戦前活躍した奇術師・曲芸師。名前の通り、中国系の人物で器用な芸を見せた。中華曲技ブームで来日し、そのまま日本人女性と結婚。日本の芸人となった。息子が戦後、三味線漫談で活躍した二代目柳家三亀松。

 経歴はわずかであるが真山恵介『寄席がき話』に出ている。

 趙相元は山東省済南の産で、大正六年に日本に来て、徳島県人の町田秀子という女性と結婚。大阪で舞台に出ていたが、大正十一年に東京に移って、三代目小さん、初代円右などの名人に混って奇術をやっていた。 

 明治末~大正年間、中国人の曲技や奇術が日本でも持て囃された事もあり、来日。この手の来日は奇術の吉慶堂李彩や曲技の寺島玉章にも言える。

 日本人の興行主に買われて巡業を続けた後、大阪の落語家団体・三友派に入会。1921年時点では会員だったらしく、『上方落語史料集成』の『京都日日新聞』(8月20日号)に――

<芦辺館(三友派)の大演芸会> 
◇愈々明後日…昼の部は特に新京極芦辺館連中は目先の変つた面白いものを見せやうと日夜苦心をした結果、番組は左の通り決定しました。中にも無言劇は二三日前から毎夜打出し後一時二時迄稽古をしていると云ふ熱心さ。

落語(福笑・福之助・三次・小染)、手踊(小文字・枝女太・円歌・福松)、滑稽二人羽織(円天坊・歌遊・扇太郎)、琵琶(桂洲)、偽相撲(円天坊・枝女太・円歌・三八)、奇術(趙相元)、無言劇ヌストヤ(円馬・扇太郎・福松・円歌・三八・円天坊・川柳)、歌舞(おかめ・小かめ)、大切相撲(座員総出)。

 とある。

 この頃、町田秀子と結婚し、日本へ移住。ただし、国籍はずっと中国にあったため、後に大きな苦労をする事となる。

 1922年2月、息子の町田武が誕生。これが二代目三亀松である。ただ、清水一朗氏などからは「養子だという話を当人から伺ったんですが」。

 1922年、東西交流の波に乗って上京。当時は中国系芸人の出入りも多く、李彩や張貴田、張鳳山なども寄席の名物色物として至芸を見せていた。

 当人も東西の芸人が集った「東西落語会」に所属し、東京の寄席に出演するようになる。初出演は4月上席か。

 その後、東西会系の寄席に出演して人気を博していたが、上京後2年足らずで関東大震災に被災。外国人迫害の風潮を恐れ、しばらく旅回りをして生計を立てていたようである。

 寄席復興後は三升家小勝率いる落語協会に所属し、各寄席に出演。中国曲芸や奇術を武器に色物として活躍。

 タバコの吹き分け、玉の取り分け、皿回し、中国奇術といった繊細な芸を十八番に喝采を浴びた。

 一方で、中国人差別を受けるなど苦労も多かったようである。

 1928年頃、落語協会を飛出し、柳家三語楼率いる「三語楼協会」に移籍している。

 この頃、息子の武が「町田たけし」の名前で初舞台を踏んでいる。相元は「この子は芸人にさせまい」と考えていたようであるが、家庭の事情により舞台に立たせるようになった。三味線や舞踊、話術を仕込んだという。

 1939年に刊行された増田義一『国策と個人』の中に、

 例へば支那芸人で趙相元の如きは、平時でも生活は楽でなかった所へ、事変の為に自ら遠慮して休席することとなり、その上糖尿病に罹り、悲惨な状態である。已むなく妻の日本人との間に生れた十四歳の子供に、音曲と舞踊とで高座を稼がせ、妻には内職させて、細々ながら暮らしを立ててゐた。

 と凄まじい惨状が書かれている。この後、「敵国の生まれながらも優しくしてくれる日本人の姿に感動した相元は軍部へ献金をする」という国策的な筋があるのだが、省略する。

 物資不足に加えて、不治の病であった糖尿病を抱えた身は既にボロボロになっていたらしく、この本が出た直後に、幼い息子と妻を残して息を引き取った。

『寄席がき話』に――

 昭和十四年十二月、父相元が肺臓ガンで亡くなって……

 とある。残されたたけしは、「町田たけし」の名前で漫才師、漫談家――後に私淑していた柳家三亀松の門下に入り、「柳家亀松」の名を受け継ぐ事となる。

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