三遊亭三橘(珍芸)

三遊亭三橘(珍芸)

 人 物

 三遊亭さんゆうてい 三橘さんきつ
 ・本 名 古賀 市太郎
 ・生没年 1890年頃~?
 ・出身地 ??

 来 歴

 三遊亭三橘は戦前活躍した物真似芸人。元々は初代三遊亭円右門下の落語家であったが、落語よりも雑芸がうまく声色や珍芸の方に転向をしたという。芸よりも奇人・変人として知られた人物だったようだ。 

 生年と本名は、「陸恤庶發第四七五號 船舶便乗願ノ件申請」(昭和14年5月6日)より割り出した。

一、往航 昭和十四年五月十五日宇品出帆(千歳丸)塘沽行 
二、復航 同 七月上旬 塘沽発 宇品行
陸軍恤兵部主催 北支方面皇軍慰問團人名表(一行八名)
 藝 目     藝 名      本 名   年 齢  
落   語    春風亭柳好   松本亀太郎  五二 
手品、笑話    三遊亭右中    有原次郎  五四
物真似、三題噺  三遊亭三橘   古賀市太郎  四八
三味線曲弾    豊年齋梅二    尾崎岩三  四四
 歌謡漫才     梅川玉輔   梅川正三郎  四五
(歌謡漫才)    梅川梅奴   梅川ヤス子  三一
 舞踊漫才    隆の家妻吉    磯野つま  二九
(舞踊漫才)   隆の家萬龍    佐藤由ノ  二六

 本流の寄席には出ず、色物席などを回っていたせいもあってか、経歴等は謎が残る。わずかに、生前の友人であった漫才師の東喜代駒が書いているのがあるくらいか。『月刊前進座』(1970年9月16日号)の喜代駒の寄稿に、

大正時代の寄席芸人は遊芸稼人の鑑札を受けることになっていた。税金は二円五十銭だから犬より安い……。地方によっては一円のところもあっただけにゼッタイ頭が上がらない。その上無鑑札のやつもいるから始末にわるい。
下谷竹町に中村歌門の家作に、遊亭円右の弟子でという芸人がいた。税金の通知がくるとわざわざ区役所まで持っていって納める。ズボラな男に似合わぬ感心な人だ、役所の人もほめていた。は税金をためないけど家賃を溜めた。聞いたら大家が催促にこないからだって……私もこういう大家さんの家を借りればよかった。後日川崎大師の年男にたのまれて歌門氏彩昇関に話したら、喜代駒さんなら貸しますよと言われた。
はなんでも区役所に相談に行った。子供が生れて名前を何てつけたらいいでしょう? 大正十年生れだから十男にしたまえ、ヘェーそうします。

 とある。三遊亭三橘とは、師匠の圓右や兄弟弟子の円歌が名乗ったほどの名跡であった。それが色物に墜ちたというのだから円右などは頭を抱えたものであろう。

 関係は不明であるが、やたら東喜代駒と仲が良く、喜代駒が売り出すまでの間行動を共にした。『都新聞』(1924年5月5日号)に、

 ▲家族慰安會 外神田警察署家族慰安の為め五日正午美倉橋復興倶楽部に、一龍齊貞山、物まね三橘、珍藝、東喜代駒その他出演

 とあり、同年6月1日には、

 ▲東喜代駒 三遊亭三橘は神田松富町十四へ諸演藝に関する事務所を設く

 とまで記載されている。喜代駒にマネージメントを受けて仕事を貰っていたようである。物真似と珍芸は知られていたようで『日本醸造協会雑誌』(1924年6月号)に――

就中三遊亭三橘の物真似は其の技軽妙殆ど神に入り、其の態滑稽洒脱、観る者聴く者にして感興措かざらしめた

 と激賞されている。

 その後も、細々と端席などを巡って活躍。その割に喜代駒へたかっていたそうで、喜代駒との複雑な関係は、『都新聞』(1937年12月22日号)に「風呂屋の仇討」として出ているほどである。

味噌汁一ぱいを減らしても朝湯だけは欠かす事の出来ない三橘、毎朝必ず咥へ楊枝で風呂へ出かけその帰りには濡手拭をぶら下げてきまつて近所の東喜代駒の家へ寄り、此処で濃い目に入れた茶を一ぱい馳走になつて帰って来るのが例にしてゐるが、それが数年来続いてゐるので喜代駒の家こそいい済南、喜代駒夫婦はあんまり茶が好きではないが、安い茶を入れるとすぐに三橘から米は三等米を喰ってもいいが茶だけは上茶をのんだ方がいいよ、第一、二番が利くから却て徳だよ、なんて悪口を云はれるので仕方なく三橘のためにいい茶を買って置くやうなものだが、喜代駒はひょいと考へた、これだけ三橘に奉仕してゐるのだから、こっちだって一度位彼を吃驚させてやらなければ間尺に合はないと、ニ三日の前、三橘の来てゐる時間を見計らって湯屋を覗くと幸ひ客は三橘たった一人、浴槽の中でむかう向きになり、いい心持に都々逸かなんかを唄つてゐるので、そうつと入って脱衣所から三橘の脱いだ着物を全部持って来てしまった、とも知らぬ当人、湯から上ると自分の着物が物もあらうに褌まで無いので一時はびっくりしたが、すぐに喜代駒の悪戯と感づき、そこは悪戯にかけては喜代駒以上の三橘、早速湯屋の女中を呼んで、三橘さんがお風呂の中で目を廻したツて喜代駒の家へ云つて来てくれと使ひにやつた、喜代駒びっくりして、湯屋に駆けつけると成る程流し場に三橘が仰向けにひっくり返ってゐる、傍へ行った喜代駒が、オイどうした、しっかりしなくちゃいけない、と云ふと三橘、目をパッチリ開いてニヤリと笑ひながら「すまねえ、ついでに背中を流してくれ」

 厚かましいといえば厚かましいが、そんなところも愛されたのだろうか。

 1939年4月には中国戦線へ慰問に出ている。

 1940年7月11日より新宿伊勢丹ホールで行われた「家畜週間の催し」の演芸会に出演している様子から(『現代の獣医界』1940年8月号より)、その辺りまでは健在だった模様。出演者は三遊亭三橘、張来貴・勢女、春日清鶴、神田伯龍、文の家七五三・都枝。

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