三遊亭金橋(声色)
人 物
三遊亭 金橋
・本 名 松井 眞一
・生没年 1896年~1939年3月
・出身地 ??
来 歴
三遊亭金橋は戦前活躍した声色の芸人。名前の通り、三遊亭金馬の弟子であったが、落語よりも声色が巧かったために声色へ転向。六代目菊五郎の声色を得意とし、一時は「音羽屋一松」と名乗る程であった。ラジオブームに乗り、本名の松井眞一でオーディションを勝ち抜き、人気を集めたが夭折した。
経歴には謎が多いが、『読売新聞』(1930年6月12日号)のラジオ欄によると――
◇円遊、長寿の二人は度々のお馴染であるが金橋は今晩が初放送、嘗ては円遊の弟子で目下は小石川で香水屋を開いてゐる
二代目金馬は1924年に引退しているため、震災以前に入門した――とみるのが適当だろうか。ただ、上では「円遊の弟子」とあるのが腑に落ちない。『都新聞』では「金馬の弟子」なのだが。
金馬は旅回りが多かった関係から、金橋自身も旅回りが多かった模様である。落語家団体には特に入らず、半ばセミプロとして働いていた模様。
そのため、小石川で香水屋を開き、「香水販売業」としても働いていたようである。詳しい事情は不明であるが――
当人は六代目菊五郎や尾上多賀之丞といった菊五郎劇団の俳優の声色を得意とし、香水屋の傍らで声色屋としても活躍。菊五郎の屋号「音羽屋」をとって、「音羽屋一松」と名乗る程であった。
1930年6月12日、桜川長寿、三遊亭円遊と共にJOAKに出演。「掛合声色」と称して、「息子」「山寺の和尚さん」を演じている。
その後、どういうわけか引退同然となり、「三遊亭金橋」という名前も名乗らなくなる。
1932年7月、JOAK主宰の「演芸放送新人コンクール」に応募をして、JOAKのオーディションに出演。得意の声色をもって合格を勝ち取った。
久保田万太郎によると「十九名」が合格。同期には同じく声色の山本ひさしがいた。久保田万太郎はなぜかこの金橋の事を「非職業人 香水販売業」と書いている。前歴は隠した上での出演だったのだろうか。
同年8月21日、JOAKの「新人の午後」に出演し、声色を披露。山本ひさし、大久保和太郎と共に「侠客春雨傘」における二代目実川延若の鉄心斎と「菊五郎、勘彌、多賀之丞」を披露した――と当時の新聞にある。
同年12月25日、JOAKの新人オーディションで再選し、「新人の午後」に出演。
この合格で自信をつけたのか、プロとして復帰。その後もオーディションに出演しては勝ち抜き、度々放送に出演した。
1933年6月4日、JOAKの「新人の午後」に出演。
1933月7月30日、JOAKに出演。
復帰後は「松井眞一」と改名し、本名で高座に立った。放送を中心に余興で稼いだという。
声色を得意とする芸人が少なくなる中で、本道的な声色芸人として活躍。寄席にもちょっとずつ呼ばれるようになり、その実力も評価されるようになった。
真女形を得意とする山本ひさしに対し、こちらは何でもこなすオールマイティ型として知られたという。尾上梅幸、尾上菊五郎、坂東彦三郎、尾上多賀之丞といった尾上畑の人、実川延若、守田勘彌といった男っぷりのいい役者を得意とした。
しかし、その再評価後間もなく体調不良に倒れ、入院。そのまま急逝してしまった。『都新聞』(1939年3月8日号)に――
★最後の六代目
先代金馬の弟子で三遊亭金橋、声色が巧くて、あんまり使ひ手のない六代目がお得意なので音羽屋一松の名で専門の声色屋になつた男、と云ふよりは、最近では本名の松井眞一の方が通りのよかったあの松井眞一が、四十二の若さで急逝、しかも息を引き取る十分ばかり前、〽永々みんなに世話になったが、今度といふ今度ぁ、もういけねえ、と六代目の声色で最期の別れを云つたとは洒落た男
とある。42歳とはあまりにも早い死であった。