吉岡貫一(声色)

吉岡貫一(声色)

 人 物

 吉岡よしおか 貫一かんいち
 ・本 名 吉岡 鏆一
 ・生没年 1903年9月3日~1958年4月
 ・出身地 東京 日本橋

 来 歴

 吉岡貫一は戦前戦後活躍した声色の名人。おでん屋をやりながら声色の芸人として名を挙げ、貴重な歌舞伎声色の継承者として一時代を飾った。三遊亭円歌門下だった三遊亭歌太郎は彼の息子。

 生年月日は『文化人名録10版』から割り出した。

 経歴は『アサヒグラフ』(1950年7月5日号)の「声帯模写ベテラン掲示板」に詳しい。

 歌舞伎声色 吉岡貫一(47) 本名吉岡鏆一 東京日本橋の芸者屋の倅 二十四歳のときおでん屋を開店幼時から歌舞伎をみる機会が多かつた関係で お客に余興に声色をきかせたのが縁でお座敷に呼ばれるようになり二十七歳で本職に転向 所属は落語協会 声色は歯が生命とて年をとるに従つてまた店屋がしたいという 人殺しというセリフを外で稽古しとんだ騒ぎをおこしたり アヒルのなき声から橘屋の笑い声のヒントをえたり苦心珍談は少くない 上達のコツは耳が三分で目が七分これを思う人があれば口つきをみることそうだ 得意は六代目 橘屋 歌舞伎のお客も変つたキオイ獅子をイキオイ獅子とよみ 座敷でひとくさりやった後で ではひとつしめましょうという しめる?オイトせよ なんていうんだからね」と述懐

 ちなみに、おでん屋の名前は「歌舞伎」という。お店そっちのけで、声色をサービスしていたというのだからいい時代というか、とんだ親父というべきか。

 このおでん屋はちょっとした有名な店だったらしく、古川ロッパなども顔を出したという。常連の一人の学者・辰野隆は『酒談義 続』の中で――

先ず店は芝居の楽屋に接して、入口に到着板が飾られ、常連の木札が列てあり、来ると札を裏返しにする。「何々屋の若旦那はバカに楽屋入がおそいね。」といつた工合である。「当家の主人、在宿召さるか、何屋何兵衛」「何川何之丞、御意得たい。」と客が番をかければ「そこは端近、イザ先ずこれえ」と応対する。注文が出れば「御注進!ヤ、御注進!」と持って来る。だから、客も「会計だよ!」などと野暮をいわずに「勧進帳」。と声を掛ければ「心得申して候」と高麗屋で返事するんだから徹底したものである。

 と、店内の様子を詳しく書いている。バカバカしい限りである。ここまでこじらせるのも一つの天才か。

 因みに兄・啓太郎も俳優だったそうで、兄弟そろって芸人だった事は有名だったらしい。辰野隆は『酒談義 続』の中で、この貫一のことを触れ――

主人吉岡貫一は、端役のうまい新派俳優吉岡啓太郎の弟で、目下NHKの声色陣での寵児だが、この男、平常はどもりで芸となるとシャンとするから不思議だ。

 と記している。

おでん屋の傍ら、「歌舞伎声色研究会」を結成し、その親玉として修練を続けていた。15歳ころから声色の勉強をやっていたというのだから古い。

 地声が低かった事もあり、どちらかといえば立役を得意とした。松本幸四郎、尾上菊五郎、市村羽左衛門、市川左團次などに独特の味があったという。

 「日光案内」という珍芸があり、日光の名所古跡のガイドを名優や珍優の声色と手ぶりで演じてみせる一代の傑作であったという。

 1928年9月21日、三遊亭歌太郎こと吉岡弘太郎が生まれる。

 1933年11月5日、JOAKの新人コンクールを勝ち抜いて、「新人の午後」に出演。声色を演じた。当時の概要を読むと、「曾我対面 朝比奈三郎・坂東三津五郎(七世)」「め組の喧嘩 辰五郎・澤村訥子」「婦系図 主税・伊井蓉峰 お蔦・花柳章太郎」「小猿七之助 七之助・尾上菊五郎」「地震加藤 加藤清正・中村吉右衛門」「切られ与三・市村羽左衛門」と、犬猫や機械の真似をする「声色」を披露。

 この後、合格を連発し、事実上のプロとして迎え入れられる。

 1935年11月26日、JOAKより『声色吹寄せ』を放送。

 1936年10月、ポリドールから『吹寄せ』を発売。十八番の羽左衛門、宗十郎、幸四郎などを真似して演じた模様。

 1938年8月、ビクターから出た赤坂寅由喜の歌謡曲『切られ与三』で声色を担当。歌舞伎を舞台に歌い上げる不思議な曲であった。もっとも作詞者は市川三升。十代目市川團十郎と来ているので無理もない。

 1939年9月、キングレコードから『声色屋花街スケッチ』を発売。

 この頃、落語協会へ入会。色物として寄席に出るようになった。

 戦後は寄席や劇場、ラジオなどに出ていたが、声色から声帯模写にとってかわられて行くのに憤まんとしていたという。また、落語協会が色物冷遇の処置をとり始めた事もあり、愚痴をこぼす事が多くなった。「フンマン居士」の綽名があったと聞く。

 最終的に落語協会を飛び出し、「歌舞伎声色研究会」を再興。生き残っていた声色芸人、悠玄亭玉介、山本ひさしなどを誘って、声色の普及と伝承に務めた。

 しかし、それでは食いきれず、最終的に幇間になったという。真山恵介『寄席がき話』によると「二十八年に向島から桜川貫一の名でホウカンに出、三十三年四月淋しく急逝した。」とある。

 幇間としての師匠は桜川万平だったらしく、『たいこもちの生活』の中に、「桜川貫一(吉岡貫一の名で、寄席で歌舞伎声色で出ていた。桜川万平の弟子)」とあるのが確認できる。

 古川ロッパ『悲食記』の中にも、「そのあと、声色おでんの話をしたが、その主人、すなわち声色をやる吉岡貫一に去年めぐり逢った。今は、おでんは、やっていず、向島から声色を売りもので幇間として、出ている由。」とある。

 幇間で一応の生計を立て、倅の歌太郎の活躍を楽しみにしていたが、1958年に倒れて死去。50代の男盛りであった。

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