宝家竹二郎

宝家竹二郎

五階茶碗を演じる竹二郎

 人 物

 宝家たからや 竹二郎たけじろう
 ・本 名 荻原 武雄
 ・生没年 1926年8月25日~1986年10月1日
 ・出身地 東京

 来 歴

 宝家竹二郎は戦前戦後活躍した太神楽曲芸師。宝家楽三郎は父、宝家利二郎は弟にあたる。曲芸師廃業後は落語芸術協会の事務員に転身。昭和の落語家さんや落語関係者には「芸協の荻原さん」の方が通りがいいかもしれない。

 父は宝家楽三郎。幼い頃から曲芸に囲まれて育ったこともあり、早くから曲芸や踊り、鳴物を仕込まれる。

 幼い頃は父の後見として寄席や劇場を回っていたようだが、子供ということもあり社中ではカウントされなかったようである。

 1966年、キッチントリオを解散。父・楽三郎は一線を退き、竹二郎は弟としばらく行動をしていたようであるが、間もなく曲芸をやめた。50近くなって体力が持たなくなったのもあるのだろう。

 その後は落語芸術協会へ出入りするようになり、長谷川藤太郎(柳家小團治)の下で雑務を処理するようになった。

 保険料の徴収や計算、顔付けの決定、寄席席亭や芸人の交渉――など、芸人時代に鍛え上げた技量や顔でうまく立ち回って見せた。現在、芸人をやめて事務員に転身した芸人はこの竹二郎が最後である。

 1970年代に入ると藤太郎が老齢になったこともあり、本格的に事務員としての手腕を発揮。正式に芸協事務員となった。寄席や落語会に顔を出し、芸人たちの交渉役として活躍した。愛称は「荻原さん」。

 1981年、長谷川藤太郎が第一線を退いたため、芸術協会事務局長に就任。新人として入ってきた田澤祐一や若い女性事務員相手に色々と仕事を教えるなど奮闘を続けた。田澤氏によると「荻原さんは本当に優しい尊敬できる方だった」とのことである。

 桂米丸会長をよく支え、円満な運営を心掛けていたが、1986年春に体調不良のために入院。

 田澤祐一氏のエッセイ『芸協浪漫7』によると「1986年5月から始まる桂伸乃介・桂富丸真打披露昇進の挨拶でもらったカステラを食べている時に大きくむせこんだ」「検査を勧められて5月に検査。20日に検査結果が出て、精密検査のためにしばらく休むという報告が来て以来、事務局や寄席へ出て来なくなった」という。

 残された事務員たちは感情の整理が追い付かぬまま雑務に追われていたが、夏ごろに「入院している」という電話がきたという。

 その後も関係者は復帰を願って働いていたが、9月30日に荻原氏の妻から電話がかかって来て「実は末期の食道がんで入院している」「危篤だから見舞いに来てほしい」とはじめて深刻な体調不良が発覚したという。

 田澤氏はすぐさま桂米丸会長と病院に赴き、最期の対面を果たしたという。その際、荻原の妻から「孫が生まれた。最後の最後に見せることができた」と言われて、関係者は不思議な運命を感じた。

 関係者の見舞いの翌日、呼吸不全を起こし死去。60歳の若さだった。『スポニチ』(1986年10月2日号)に訃報が出ていた――

荻原武雄氏(おぎわら・たけお 落語芸術協会事務局長)一日午前八時四分、呼吸不全のため横浜市緑区の昭和大学藤が丘病院で死去、六十歲。東京都出身。

 長男は曲芸の道に進まず、病院の事務員をやっており、お孫さんもご健在と聞く。宝家一族は謎が多いので、伺いたい所存ではある。

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