弄珠子ビリケン(奇術)
人 物
弄珠子 ビリケン
・本 名 高尾 徳太郎
・生没年 1875年7月15日~1930年代
・出身地 横浜
来 歴
弄珠子ビリケンは明治~昭和に活躍した奇術師。地天斎貞一の弟子で「貞王」といっていたが、「弄珠子ビリケン」と改名した。これで「ロウキュウシ」と読むらしい。昭和初期まで第一線で活躍し、後年は地天斎貞一の二代目を襲名している。
当時の芸人にしては珍しく、経歴が自著『和洋手品種あかし』に出て居る。これは国会図書館デジタルライブラリーで見る事ができる。余談であるが速記の浪川義三郎とは講談師の悟道軒円玉の事。
扨私も固から奇術師ではございません、両親は堅気でございました、其故私を実業家にしたいと思ひ、アチラコチラに奉公に遣られました、所が私は或品物を見ると、之は何う云ふ様に出来て居るものかと取り調べて見たくッて為やうがございませんでした、或日手品を見まして、嗚呼手品と云ふものは奇体なものだ不思議なものだと云ふので、甚魔様に出来て居るものか調べて見たいと思って居る内に、わたくしが十八才の時マダムコナラと云ふ外国人の奇術師が日本に来て、片言の英語が使へますから、私が其外国人にからかい半分、いろ/\な話しをしました、スルト其コナラの弟子が何うだへ私達と一緒に歩かないかと云ひましたから、私は家を飛出してしまいました。一年半ばかり九州地方を歩いて居ました、其裡に奇術が段々好きになりまして舞台の後見や道具方などをして居る内に、再び横浜に帰って来ました、スルト両親が横浜へ訪ねて私を連れ帰りました、ソコで自分も今度は辛抱を爲やうと思ひ、或る実業家へ奉公することになりました、それは薬屋でございました、主人は薬剤師、それに奉公して居る内に薬が段々明るくなって来ると、又奇術師になる心持が出ました、今度はカータといふ英国人が横浜へ興行に来ました、其人に就て支那から朝鮮へ渡り欧州へ行くことになりました、其時私は廿三歳でした、茲で再び日本へ帰って来てニ三度寄席へも出たことがあります、拙いながらもお客様の喝采を受けるやうになりました、処が或る興行師でございましたが、何と活動写真の中に入って奇術を遣って余興に遣ってくれないかといふて頼みます故宜しいと承知して其れと一緒に東北地方を廻りました、再び東京へ帰って来ましたが其時は金も少しは貯りましたから、二月ばかり遊んで居りました、スルと横浜に居る外国人が奇術の興行を組立て諸方へ出懸けるが一緒に行かぬかと申します唖kら、それではと又地方へ出ました、夫から一昨年は豪州メルボン、セツデ、ウイスト、バーフ、フリーマンテル、ニージランドこう云ふ処を興行して歩きました
とある。
また、本名と生年は『芸人名簿』より割り出した。
上ではほとんど触れられてないが、実際の師匠は初代の地天斎貞一である。貞一の門下を出入りしていた事もあり、早くから寄席の舞台に上がった。
当初は「地天斎貞王」と名乗っていたが、大正期にアメリカから入って来た「ビリケン」の人気に感化され、「弄珠子ビリケン」と改名。演芸家のなかでは指折りの難読芸名である。
主にトランプやハンカチ、帽子を使った西洋奇術を得意とし、「ビリケン」の名前通り西洋色を全面に押し出した。ただ、「金魚釣り」「鬼火」「胡蝶の舞」といった日本手品や曲芸的なものも得意とし、器用な芸人だった模様。
1916年には『和洋手品種あかし』を発売し、日本奇術界でも「種明し本」を発表した先駆け的存在として評価された。
明治末には三遊派に所属していたが、大正初頭に起きた落語界分裂騒動では、新むつみ会に所属し、独自の路線を辿った。
ただ思う所あり、1922年頃に柳亭左楽率いる睦会に移籍。震災後も活躍する事となる。
1927年3月、深川常磐亭上席で「二代目地天斎貞一」を襲名。『都新聞』(3月4日号)に「▽奇術師改名 睦派の弄珠子ビリケンは今回二代目地天斎貞一を襲名」とある。
1928年1月31日、JOAKの「寄席の夕」に出演し、「養老の滝」「女浪男浪打ち分け」「両国の夕涼み」と題した日本手品を披露している。
同日の『日刊ラヂオ新聞』の中に「今日出演の貞一はきんちやく屋とあだ名された先代の地天斎貞一の弟子で、前名を弄珠子ビリケンと云ひ、元来西洋手品師であるが、幼いころから師匠にみっちり仕込まれて、しっかりした腕を持ち、よく古風な方を伝へてゐる。」とある。
1929年頃の広告や顔付けに見られるが、その後、表舞台から消える。理由は不明。