石村松雨(バイオリン)

石村松雨(バイオリン)

松雨と息子の松翠(右)

 人 物

 石村いしむら 松雨しょうう
 ・本 名 石丸 久次郎
 ・生没年 1871年頃~1928年以降
 ・出身地 関西?

 来 歴

 石村松雨は明治から大正にかけて活躍した芸人。寄席にはじめてバイオリン演奏を持ち込んだ奇抜な芸人と伝えられる。セガレの松翠にアコーディオンを仕込み、親子でこれを合奏するという洋楽的な要素溢れる芸で人気を集め、20年近く第一線を走った。

 経歴は不明な点が多い。本名は『通俗教育に関する調査』より割り出した。年齢は『朝日新聞』(1907年5月3日号)にある「今回三遊派へ加入したる洋楽演奏家石村松雨(三十六)倅松翠(七ツ)」という報道より逆算した。

 震災後は大阪に住んでいた事を考えると、大阪出身だろうか。

 後年の活躍を見るに、相応の家に生まれ、相応の音楽教育を受けた人物だったらしい。そもそも明治20年代にバイオリンを手に出来るのは一握りであり、国産バイオリンがやっと作られ始めた頃の話である。

 当然バイオリンは高価なものであり、それを所有するのはいうまでもなく、習う事さえ至難の業であった。明治期に日本におけるバイオリン教育など、音楽大学か紳士淑女の家に潜り込んでやっと手ほどきしてもらえる――程度の難易度であった(明治30年代後半になると楽士などに手ほどきしてもらうという道もできたが)。

 その中で20代には既にバイオリンをマスターし、後年セガレにも手風琴(アコーディオン)を取得させたというのだから、相当な音楽家だったのだろう。

 1899年には息子が生まれ、この子にはアコーデイオンを仕込んだ。芸名は「石村松翠」という。

 1900年代中頃より寄席へ出るようになり、1907年春には三遊派に所属。『朝日新聞』(1907年5月3日号)に「今回三遊派へ加入したる洋楽演奏家石村松雨(三十六)倅松翠(七ツ)」とある。

「洋楽演奏」を看板にしたように、髭を生やした松雨のバイオリンと、松翠のアコーデイオンの合奏が売りであった。後年の記述を見ると「越後獅子」「春雨」などを邦楽をバイオリンで演奏するのが売りだったという。

 凄まじい技巧や話術を持っていたわけではなかったようであるが、明治時代にバイオリンをもって寄席に出るだけで素晴らしい効果があったという。すぐに一枚看板として扱われ、寄席を掛け持ちするようになった。

 同年夏には二代目三遊亭小円朝と二枚看板で地方巡業に出ている。『上方落語史料集成』掲載の『北国新聞』(8月16日号)によると――

◇芸人消息 石村松雨は三遊連の小圓朝、圓流、小圓喬等と一座を組織し、昨日より豊橋弥生座にて開演せるが、同所打上次第当地に乗込み新富一九席にて花々しく開演すべしと。

 1週間後の8月23日の『北国新聞』にも――

◇一九席 既記の如く本日より東京落語三遊亭小圓朝、石村松雨合併大一座にて開演の筈なるが、松雨松翠父子は先般山口一座と共に来たりした馴染みにて、其後同座を別れて出京、各寄席に出演して好評を博し、各皇族華族大臣等の招聘を受け其の都度感賞を受けたという。今回は小圓朝と合併にて開演の事なれば、定めて聴物ならん。番組は左の如し。
笑いはなし(小朝八)落語手踊(朝笑)音曲噺(金弥)落語物真似(朝駒)滑稽落語(圓流)新内(金の助)少年落語(朝松)手風琴(松翠)音曲手踊(華玉川)人情噺(小圓朝)バイオリン(松雨)

 この記事を見ると、松雨親子は皇族華族の前で演奏経験もあったようである。それだけで名誉とされた時代、寄席には不相応な人物だったのではないだろうか。

 その後、金沢から富山を経て、関西へ入り、9月には京都の幾代亭に出勤。『京都日出新聞』(9月14日号)に――

 ◇幾代亭にては今回落語席の旧套を革めて真の娯楽場となさん計画をなし、其第一着として来る十五日より落語其他を改良すると共に石村松雨、同松翠といふ当年七歳の小童がヴアイオリン、手風琴の合奏を加へると。尚右の両人は東京に於て久邇宮妃殿下より賞詞を賜はりし事もあるやにて端唄、長唄、浄瑠璃等を西洋音楽にて演奏すると。

 とある。

 関係者(『芸能懇話』関係者)の調査では長唄の「鶴亀、六歌仙、君が代、六段、文屋、越後獅子、吾妻八景、鞍馬山、勧進帳」常磐津の「乗合舟」、浄瑠璃の「堀川猿廻し、平太郎住家、寺子屋、御殿、新口村、壷坂、鳴八、堀川猿廻し、阿古屋、野崎村」その他にも端唄、流行歌、吟声などを演奏したという。一種の曲弾が売りだったのだろう。

 この幾代亭での公演が大当たりしたのを幸いに、桂派へ招かれ、関西の芸人としてしばらく滞在する事となった。

 1907年10月31日、『大阪朝日新聞』に掲載された『○楽屋めぐり 桂派の落語』に松雨の様子が出ているので引用。ただ、文中では松雨と松翠がアベコベになっている。

九時になつてバイオリンの石村松翠、風琴の石村松雨親子が現はれる。三十前後の丸髷の素人臭い女がそれに付き添ふ。ソレ来たぞと腹の中で叫んだ、蓋し是が今夜中の促へ物である。松雨は本年八歳の少年だが、風琴の名手で、その音楽的技倆は殆んど儔ふべきものもない天才と聞いている。丸髷の女は松翠の妻、松雨の母とある。親子三人水入らずで寄席を稼ぐのだ。松翠がバイオリンを出すと、妻女が三味線を出す、松雨が風琴を出して調子を合はせる。いくら天才でも子供は子供だ、母の出した三味線の絃を一寸引つ張つて悪戯をする、母に「コレツ」と叱られて、ハニカンだ顔をして横を向く。母が袂から煎餅を出してやると慌てて引奪くつてすぐボリボリと噛る。噛りながら風琴を以てわざわざ階子段の隅まで遠のいて父と母の楽器に合せて見る。父は縞羅紗の運動服をフロツクに代へて窓下に立つ。調子を合せると櫛を出して分けた頭髪を撫でつけ、カイゼル式の髯をピンと刎る。少きオルガニストは腮を母の手に支へられて漆の如き濃き髪に櫛の歯を入れて貰ふ。やがて出番になる。父子は打ち連れて楽屋を出て行く、母は囃子部屋に座を占める、さてはカゲを引くのだなと思ふ。立ち去りがけに一寸高座を覗いて見る。松雨は椅子に凭つて罪のない顔にあらぬ方をキヨトキヨト瞠めている、然かも風琴の手は無意識に動いている、それは長唄の越後獅子であつた。

 同年暮れ、「石村派国劇」なる一座を結成し、1908年正月の和歌山紀の国座より関西巡業する――と『大阪毎日新聞』(12月29日号)にある。

 4月頃まで各地を巡業し、大阪へ戻った。その後、半年ほど出勤。

 10月より、今度は柳派に加入して東京の寄席に出勤。『朝日新聞』(1908年9月25日号)に――

◎石村松雨の上京 ヴワイオリンの名手石村松雨、手風琴石村松翠(八つ)の両人は今回久々にて上京し来月一日より柳派に加はり各席に出勤する由

 東京で半年ほど暮らし、1909年4月に関西へ戻る。この頃より「和洋音楽石村松雨ヴアイオリン合奏石村松翠、杵屋連中」を自称して寄席に出勤するようになる。

 1909年暮れまで稼ぎ、再び上京。今度は1年半ほど東京に在留し、柳派の寄席に出勤した。

 この頃、「東京絃音会」なる会を作り、音楽家としても進出している。

 1911年2月、柳派を脱会し、音楽一座を結成することをなる。『音楽世界』(1911年2月号)に――

●和洋音楽団の設立 東京絃音会主石村松雨は今回和洋音楽発展の目的にて倅松翠等と共に柳派を退き更に和洋音楽「コンサート」なる名義にて新式の音楽団を組織し第一回は横浜羽衣座に乗込み試演的に興行する由……

 1911年5月、久々に関西へ戻り、桂派の寄席に出勤。そこで披露を成果し、初夏から巡業に出かけるようになる。『香川新報』(7月19日号)に――

玉藻座 十九日の演芸左の如し。御祝儀三番叟(杵屋いく松)落語小倉舟(桂とん輔)曲芸弥生月まりの戯れ洋行戻り(鏡一丸)落語赤子茶屋並に音曲浮世節(二世宇治忠成)挨拶口上バイオリン独奏歌沢端唄数番(会長石村松雨)千里眼(石村いく)音楽基本記憶術(石村松雨)長唄大薩摩鞍馬山(唄杵屋いく松、三味線杵屋ふじ枝)滑稽浪花節手踊(宇治忠成)大曲芸日本の花(鏡一丸)大切和洋音楽コンサート長唄元禄風花見踊外義太夫物流行歌特得楽器応用物真似数番(アッコーチョン石村松翠、バイオリン石村松雨、唄三味線杵屋連中)

 同年10月27日から30日まで「高等演芸團」と称して名古屋御園座に出演。その後、全国を1年ほど回った。

 この頃、松翠を一度引退させたという。しかし、松翠の達者さで持っている所があったため、すぐに復帰させるという滅茶苦茶な事をやっている。

 1912年3月22日付けの『大阪時事新報』に――

◇高座瞥見 桂派の寄席でヴワヰオリンを聞せる石村松雨は、此頃余興として洋服の上へ黒紋付の着物を被てお嬶らしい女と少婦とを連れて笛や太皷で囃し立てるが誠に拙い。又松雨と前後して駒千代といふ七歳の小娘が奈良丸写しのチヨンガレをやるが、十五分間を飽きさせぬ腕は能く人を喰つたものだ。

 5月5日付の『大阪時事新報』に――

◇親よりも子 桂派の寄席に出てゐるヴワイオリンの石村松雨は、お嬶を相手に高座の穴を塞いで居たが、根つから芳ばしい前受もせぬので小伜の翠雨を呼び迎へた処、風琴を鮮かに遣る手際、殊に進軍喇叭の遠音杯は又なく旨いので、親父の松雨は忽ち蹴落され居るか、いないか分らないと云ふ有様。松雨小首を傾け、まだ老耄る年でもないに小伜に落を執られるのは残念なと恨めしさうな顔をしてゐる。ソンナ恨めしさうに仕なくつても可うせお前は数の中へ入る柄ぢやない。

 とある。

 1913年は「高等演芸会」を引き連れて全国巡業。同年暮れに「東京和洋楽團」と改名し、息子の松翠と別れている。

 なお、松翠には相応な学識と語学をつけさせたそうで、成人後は外国人と仕事をしていたらしい。『日刊ラヂオ新聞』(1926年11月12日号)の「芸苑百話」の中に――

 私はかう見えても実に真面目一方の方でしてねえ現在息子を高座から早くひかせて外国人と物を云へるやうに迄ならしましたんですもの……

 とある。

 1914年正月は、広島で迎えている。『中国新聞』(1月1日号)に――

◇演芸館 東京初洋楽團の番組は、浪花節(吉田水月)長唄(杵屋いく松同ふじ枝)落語手踊(三遊亭小圓三)和洋音楽(石村松翠、杵屋ふじ枝)日本俗曲百種バイオリン(石村松雨)最進記憶術(同人)長唄勧進帳和洋音楽合奏(総出)おしゃか歌おうむ番外実物天然色写真

 この頃より無声映画をもって演芸大会を開いていたというのだから、相当前進的である。

 1915年春、東京へ戻り柳派へ復帰。以来、東京に定住したという。

 1916年、富士山印レコードより「唱歌鸚鵡」を吹き込み。バイオリンで鸚鵡の声を真似るという独特のレコードであったという。

 また、この頃「野崎村―さわりーさのさ節哀別離若御詠歌歌入ー」「少年軍」なども吹き込みしている。

 1923年頃に、「村雨連」を再興。『都新聞』(1923年5月24日号)の「落語界」に――

◆ヴァイオリンの石村松雨が都新聞で長唄連の募集をやると来るわ/\その中に三人組の年増が是非と談判に村雨心得て立花で手見せをして行く約束、此の十五日から出てゐるのが即ちソレ

 震災のドタバタを受けて大阪へ帰った模様であるが、1924年頃に復帰。睦会などに出勤していたが、またしても大阪へ戻ったという。

 1926年時点では寄席に出勤せず、演奏活動と作曲をしていたらしい。『日刊ラヂオ新聞』(1926年11月12日号)の「芸苑百話」に――

 緊張味を欠いた夜の寄席にお去らばをして自分の商売の創作に没頭して御座るヴァイオリンの石村松雨君(大阪在住)……

 とある。

 昭和以降はなぜか満洲へ行っていたらしい。息子の松翠が行っていたのだろうか。

 1927年4月19日、大連放送局に出演し、「小唄、都々逸、三味線秀之助、鴨緑江節 ヴァイオリン石村松雨氏」。

 1927年5月7日、大連放送局に出演し、「ヴァイオリン独奏 小曲数番」を放送。

 1927年7月13日、大連放送に出演し、「秋の色草・紗窓・栄梨花・潮来出島」を演奏している。

 この頃、獅子印レコードより「詩入り米山・槍さび」「追分・磯節」のレコードを柳家三津次と共に吹き込んでいる。

 1928年1月11日、放送に出演し、長唄『鶴亀』の御囃子に出演。

 1928年2月4日、大連放送局に出演し「長唄づくし数へ唄」を放送。

 この放送を最後に消息を絶つ。年齢も年齢なので没したのだろうか。「寄席に西洋音楽を持ち込んだ革命児」的な存在であるが、謎が多い。

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