宝家楽三郎・直太郎

宝家楽三郎・直太郎

宝家楽三郎・直太郎(右)

 人 物

 宝家たからや 楽三郎らくさぶろう
 ・本 名 萩原 光重
 ・生没年 1896年頃~1971年以降
 ・出身地 ??

 宝家たからや 直太郎なおたろう
 ・本 名 岡崎 直太郎
 ・生没年 1913年頃~??
 ・出身地 ??

 来 歴

 宝家楽三郎・直太郎は戦前活躍した漫才師兼曲芸師。宝家和楽門下の曲芸師であったが、漫才ブームに便乗して「曲芸漫才」の第一人者として高座に立つようになった。楽三郎は戦後、息子たちを集め、「キッチントリオ」なるグループを結成。1960年代まで活躍を続けた。

 生年は「陸恤庶發第一六一號 船舶便乗願ノ件申請」(1939年3月10日)より割り出した。 

曲藝漫才  寶家樂三郎  萩原光金  四十三才 
  〃   寶家直太郎  岡崎友迪  二十六才  

 ただ、後年の太神楽曲芸協会の名簿などを見ると「萩原光重」「岡崎直太郎」とあり、こちらが正しい模様。

 楽三郎は初代宝家和楽の弟子だったらしく、早くから宝家一座に出入りをした模様。1916年に発行された『通俗教育に関する調査』には既に「宝家楽三郎 萩原光重」として記録されている。

 1916年、和楽一行は既にハワイへ渡って公演している。楽三郎もそこに混ざっていた可能性は高い。

 早くから師匠の下で曲芸や茶番を仕込まれたそうで、舞台でも「皿の曲取り」「ナイフ」「一つ鞠」「傘の曲芸」などを難なくこなした。

 当時、和楽一座は喜劇・茶番も売り物にしており、喜劇的なセンスも問われたという。こうした雑芸要素も後年の漫才転向へと繋がる模様か。

 1926年8月25日、長男・萩原武雄が誕生。この子は早くから芸を仕込まれ「宝家竹二郎」と名乗った。

 1929年には砂川捨丸と手を組んで、朝鮮巡業へ行っている。『京城日報』(1929年3月19日号)の中に――

<砂川捨丸一行・朝鮮東亜倶楽部>

◇捨丸一行 明日から東亜倶楽部で興味をひくプログラム 高級萬歳、小唄、曲芸、軽口と見てもきいても面白い砂川捨丸一行は明廿日から六日間府内三社の後援により黄金町東亜倶楽部で開かれる。蓄音機、或はラヂオを通じて彼の美声、そのユーモアを知る人々は勿論、演芸界を風靡したその名声は上下の階級を通じ、老若、男女を問わずもの凄い人気をもつて開会の日が待たれて居る一行は、捨丸をはじめとしてその相方をつとめる中村春代、新進の萬歳家十余名、正調、追分には橘右近、お多福の両名、それに三人滑稽曲芸を演じる宝家連中と新吉原の芸妓連久本一行十名すべて三十名に近い一行である。入場料は一等二円、二等一円五十銭、三等一円の三種である。

▲正調追分節 橘右近 橘お多福
▲新吉原芸妓連 久本〆龍 〆丸 〆福 〆二 小〆 〆奴
▲三人滑稽曲芸(宝家連中) ブル松 小政 和三郎 楽三郎 和助 和楽
▲萬歳連 浮世亭秀春 吉田二三丸 小原文蝶 砂川捨奴 砂川愛之助 東家市丸 桂家枝輔 桂家助六 中村春代 砂川捨丸

 1931年頃には既に漫才師とのつながりが出来ていたそうで、『都新聞』(1931年11月20日)に――

▲初音館 廿一日より
日本チャップリン、猫遊、楽三郎、和助、出羽三、筑峰、一夫、大公坊主、大正坊主、久良坊、いろは、茶福呂、華子、鷹之丞、かぶら、大和家、松島家連舞踊数番

 1933年9月27日、二男の利夫が誕生。この子も太神楽曲芸師となった。

 1935年8月11日には伝説となった松竹座の漫才大火に出演。

▲松竹座 十一日より第二回漫才コンクール開催
逸郎・春の助喜美代・松緑香津代・福丸、主水・武夫、道子・圓十郎、小町・十六夜、染壽・小芳三喜奴・染二郎、漫助・漫平、司郎・繁子、楽三郎・直太郎、枝左松・操百々龍・勝之助一丸・源一シカク・マンマル、金馬

 1937年10月、雑誌『キング』に「トリックス漫才 毬の曲芸」を掲載。当時の芸と風貌を確認できる貴重な資料となっている。

 1939年3月、恤兵部の依頼で中国戦線(中支)を慰問。

 1943年、大日本曲芸協会の再編に伴い、理事に就任。倅の利二郎、弟子・直太郎と共に協会に入っている。

 戦後、直太郎は曲芸界から一線を退いた。一方、楽三郎は太神楽曲芸の世界に残り、長老として活躍する事となる。

 1947年、利夫が入門。「宝家利二郎」と名づけて芸を仕込んだ。

 利二郎を仕込んだ後、息子たちとトリオを組み、キッチントリオなるコメディ曲芸チームを結成。宝家利二郎の公式プロフィールによると、1952年の事。

 その芸風は『アサヒ芸能新聞』(1954年6月2週号)の「関東芸能人切捨御免」に詳しい。

楽三郎がシンで利二郎、竹二郎の二人がくわわっての三人のチーム。本来の紋付袴の、曲芸であることにもちろん相違ないが、ことあげする最大の理由は、チームでコミックをはじめたことにある。戦後終連事務局がGIのキャンプに各種の演芸(主として観るもの及び唄)をあっせんしてご気嫌をうかがわせたが時代があったが、この慰問演芸に楽三郎が敢然としてふるい型をやぶってチーム全員コックの衣装をつけて出演した。つまりコックが、曲芸をテーマに、パントマイムコントをおこなうわけで、これは言葉の相互に通ぜぬ仲でも、完全にGIの拍手を浴びて、あちこちでひっぱりだこになって、現在でもこの人気はつずいているそうだからりっぱなもの。もちろん日本の観客にも向く。社中全員の人柄のよいのも好評。

 長い間、マセキ所属に所属し、仕事の斡旋をもらっていた。

 1966年、キッチントリオを解散。楽三郎は事実上の引退となったらしく一線を退いた。

 1971年12月5日、国立劇場の「万作芝居と茶番狂言」の「江戸太神楽」に出演。ここまでは消息が辿る事が出来る。

 利二郎氏健在の今、聞いておきたいところではあるが――

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