名和太郎(腹話術)

名和太郎(腹話術)

 人 物

 名和なわ 太郎たろう
 ・本 名 高橋 幸吉
 ・生没年 1919年5月25日~2000年6月7日
 ・出身地 東京

 来 歴

 名和太郎は戦後活躍した腹話術師・経営者。腹話術からスタートして芸能学院を設立。一時は実業家として大きな成功をおさめた。今や日本の文化としても知られるジャニー喜多川率いる初代ジャニーズ設立に関与した「新芸能学院」は、この人が運営していたもの。

 生年・本名・経歴は1969年に刊行された『産経日本紳士年鑑8版』に出ている。

 高橋幸吉 (株)名和プロダクション社長 名和新芸能学院院長(別名名和太郎)(生)東京都大8525(歴)昭12東宝劇団に入り兵役を経て同21より司会者をつとめ同35名和プロダクションおよび名和新芸能学院を設立

 また、『アサヒグラフ』(1956年6月24日号)に掲載された「腹でモノいう人掲示板」に「腹話術・名和太郎」として談話と写真が掲載されている。

 はじめ小説家か漫画家になろうと思っていろいろ勉強したのですが どちらも失敗しました その後東宝劇団に入り昭和十八年満洲巡業をした時 手製の人形を従って腹話術をやったのがはじまりです 翌年応召しましたが軍隊では専らこれをやり好評を博しました 二十年暮に復員すると同時に本職となりました 僕のは歌手の一行に加わって司会を腹話術でやる形式が多いのです だからほとんど旅回りです 動機は何といってもチャーリー・マッカーシーです 人形は昔から自分で作るのが好きで現在まで十体ほどもこしらえましたかな 今使っているのは豊年満作爺さんと次郎坊やの二つです 満作はボヤキ 次郎は主として流行歌を歌います ネタは三つしか持っていません 習い性となり このごろはふだんでも口を動かさずにしゃべるようになりました

 因みに戦後デビューから昭和30年代までは、司会漫談として活躍する傍ら寄席にも出演しており、「ノセモノ」として当時の名簿に掲載されていたりする。

 腹話術としての技術は当時としては高かったそうで、辛口の芸人批評で知られた立川談志も賞賛している。『遺言大全集14』の中を見ると――

「名和太郎」さん。後に池袋で芸能学校をやっていたが、彼の腹話術も結構であった。

 その後も芸能学校を経営し続け、実業家としてにらみを利かせた。

 芸人にしては実業家的な思考があり、「芸人たちを育成する学校を作ればウケるんじゃないか」という志から、自身のプロダクションを拡張し、池袋に「名和新芸能学院」を設立。自身の仕事、芸人たちへの仕事の斡旋、芸能学校の運営と育成――と幾多の草履をはいた。

 この頃、OSK出身の真砂みどりと結婚。真砂は

 1956年、「腹話術協会」を設立。理事に就任。

 1962年、日系人のジャニー喜多川という男が「4人組の歌謡グループを作りたいから手を貸してくれ」と頼みに来る。このチームこそが真家ひろみ、飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良の元祖ジャニーズである。

 名和は芸能学院の経営者としてジャニー喜多川と青年4人を引き入れ、「名和新芸能学院所属」という形で売り出しに手を貸した他、スタジオや学院の設備などを提供して彼らのダンスや声楽のレッスンを与えた。

 竹中労『タレント帝国 芸能プロの内幕』によると、名和夫妻は遅くまでトレーニングをするジャニーズのために事務所の3畳間を解放してそこを仮眠室にするなどしたという。

 そのお蔭でジャニーズは見る見るうちに頭角を現し、ジャニー喜多川の名声も高まった。

 一方で、ジャニー喜多川が売れれば売れる程、彼の方針と反りが合わなくなり、たびたび対立するようになった。また、生徒たちから「ジャニーさんから足をなめられた」「変な事をされた」「寝室に泊まり込んで来た」といった報告や苦情を聞いて喜多川姉弟に抗議を加えたのを機に、関係が悪化。

 名和とジャニー喜多川の対立は年々深くなっていき、最終的に名和は1964年6月28日付でジャニーと契約解除を打ち切って、問題の終息を計ろうとした。

 しかし、ジャニー喜多川はジャニーズを連れて新事務所「ジャニーズ事務所」を設立、引き続き行動を続けたことが争点となり、名和は訴訟を行う事となった。

 名和は「ジャニー喜多川及びジャニーズは授業料、設備費、食費など270万近い未払いがある」と指摘し、更にはジャニーの性的虐待まで取り上げて、「ジャニーズの権利はどちらにあるか」ということを争点に争った。

 当時人気を集めていたアイドルグループの醜聞だけに、週刊誌は面白おかしく取り上げ、中でもジャニーの性的虐待疑惑を散々に茶化した。ただこの問題に関しては「裁判の争点から距離がある」という判断を受け、最終的におとがめなしとなった。

 一審では勝訴となり、ジャニー側への賠償が認められたが、第二審では敗訴。結局示談的な形で折れる結末となったようである。

 その後も引き続き芸能学院を経営し、新人育成に力を注いだ。実業家としてはまずまずの成功をおさめたといえよう。

 一方でジャニー一派との確執は一生解ける事はなかった模様。両者の言い分があるとはいえ、裁判沙汰にまで発展した「ジャニー・名和問題」の隅で、躍進を続けるジャニー喜多川のことをどう思っていたのだろうか。

 『週刊文春』(2000年1月27日号)掲載の『ジャニーズ裁判元タレントはなぜ「偽証」した』と題した記事にインタビューが載せられる。そこにはかつてジャニー喜多川一家と争った事を回顧し、「相当ひどい目を見た」とかつての経験からジャニーのやり口を強く批判している。

 それが最終的に遺言のようなものとなったらしく、2000年6月7日に急性心不全で逝去。訃報が新聞等に掲載された。

無断コピー・無断転載はおやめください。資料使用や転載する場合はご一報ください。

タイトルとURLをコピーしました